『春原さんのうた』短評

『春原さんのうた』という映画に物語はないようだ。
だからといって必ずしもそれは、決して目の前の映像に鑑賞者を没入させまいとする実験的な挑戦や、ドラマツルギーなるものの構造を知力と教養で解体しようとする戯れを志向しているわけではなさそうであり、むしろ言ってみればそのオチのなさ、特定の意図や意味への回収の不在、あるいはカタルシスの欠如らしきものはある種の慎ましさに由来していると仮定したほうがいくぶんそれらしいように今は感じられる。
たとえば、この映画には泣いている人物がよく出てくるのだが、終盤のあるシーンでは、憚りつつこの映画の主役と呼ぶより他ない沙知(荒木知佳)という若い女性がその自宅で、能島瑞穂演じる訪問者の女性と向かい合って話しているうちに突如、泣き出してしまうという事態がそのひとつとして発生する。なぜそんなことになったか手繰りながらいくつか論ってみると、訪問者が、沙知ではなく彼女に住居を譲った前の住人、日高という今は宮崎に引っ越した男を訪ねてきたこと、彼が過ごしていたときのままになっている部屋で日高のウクレレとリコーダーとが見つかったこと、そのせいで訪問者は日高がつくった「さっちゃん」という歌を思い出して沙知にせがまれて今そこで披露することになったこと、さらにそのエピソードに感化された沙知が、この映画の冒頭に当たる日高の出立のシークエンスで彼が「大事な手紙が来ても全部捨てちゃって」と言い残してこの家を去ったときのことが想起するのではないかと邪推されること、すると彼女はきっとその事実を今、目の前にいる訪問者に告げられないことを察知すると同時に、訪問者と日高の関係から連想して、沙知自身今は会うことの叶わなくなったけれどかつては親しくしていたらしい同世代の若い女、雪のことを思い出してしまったのではないかということ、これらに日高のつくった歌の名前の持つ連想と相まって訪問者の悲しみを勝手に自分の悲しみかのように感じて結局そこでは、沙知のほうこそ泣いてしまったのかもしれない、といった推測がたしかに可能ではありそうなものの、あくまでそれも推測の域を決して出ることはないようなのだ。
目の前で誰かが突然泣き出してしまう光景を思い浮かべていただきたい。「え、どうしたの?」となる。驚きとともに、心配で声をかける。「いえ、別になんでもないんです。ただ涙、出ちゃって。なんでだろう」とかなんとか言って、泣いている本人さえも自分が泣いていることそのものに戸惑い、その場はことなきを得ようとする。ちょうどそれと同じ具合にこの映画もまた、なんで泣いてしまったのか、なんで悲しくなってしまったのかということが明らかにされない。慎ましさとはつまり、このような具合に理由が明らかにならない事態のことらしく、それは他人の悲しさに対する慎ましさ、つまり「あなたの悲しさ」に対する「私の慎ましさ」なのだ。

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こうした推測がある程度の妥当になってくるのも120分ある上映時間のうち、開巻100分あまりが経過したころのことである。そのころ、この沙知という若い女性が映画の主人公らしいこともまたわかってくるのだが、これが物語ではないのだからその主人公もまた主人公らしからぬ主人公のようである。物語がないとはつまり、映画は彼女の行動の動機やいわゆる人格、長所や短所、その願いや秘密や挫折を決してはっきりとは描こうとしないということであり、カメラは画面の中心から彼女を演じる荒木をほとんど逃しはしないものの、同時にまた彼女のバイト先の常連客や、前の仕事場の同僚や、親類や友人らしき人たちが、右から左へ次々と現れてほとんど名乗ることもなく、ときおり沙知は、道案内や、演劇の代役や、映像制作の被写体を頼まれたりして、これもまたそのどれも彼女でなければ絶対に果たせない役割というほどのものでもなく、つまりこうして役割は彼女の物語上の特性を表出させるような必然性といった物語における「役割」の役割なるものをさほど発揮しもせず、また左から右へと過ぎ、そうして登場人物としてというよりもむしろ、一つの場所として沙知の周囲の人は沙知のことをまたすぐ。場所といえば、日高がこのアパートを去るシークエンスをもう一度想起してみると、まるで沙知の転居は日高の生活の気配をその間取りの中に残したまま、沙知のほうを訪れているかのように見えるので、だとすれば今度は、映画の中で定点のように固定された沙知という「場所」をアパートや、「キノコヤ」という喫茶店や、展示会や、河口湖や苫小牧が訪れているといった喩の中でこの映画を見てみることはできないかと、提案してみたくもなるが、一方これはちょっと突拍子もない喩なのでではいったい、そんなことをしたところで何の意味があるのだろうとも思いつつ、いやそれでもこのような解釈になにかを仮託してみんとするなら、決して物語とはならないこの映画の中で、物語の登場人物とはならない沙知とは、そうして人格と呼べりほどのなにか情報をほとんど詳らかにすることさえなくむしろただ場所であるかのように通り過ぎられていく人物というのが浮かび上がり、ただそうとしか浮かび上がらないものは慎ましいだけであるよりもっとただただよそよそしい存在でさえあるようにも思えてくる。

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この映画、東直子の

「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」

という短歌を原作としているらしい。では短歌を原作にしているというだけのことが、つまり小説や漫画を原作にしていないということがなるほど、なにかこの映画の被写体たちの個人情報への慎ましさ、意味や解釈へのよそよそしさについて、物語への遠慮について十分な理由を説明するかといえば決してそれほど都合の良いこともないので、それでなにかがわかったような気になるということもさらさらないのだが、ところで、

「遠い昔に書いた手紙をひらめかせ看板娘が髪染めにゆく」

「夜が明けてやはり寂しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした」

といった他の短歌が原作であってもおかしくないと思えるようなシークエンスにも、映画を見ているうちに出会うわけなのだけれど、それでもやはり最初の一首をもとに映画が作られていることにこそこだわってみるなら、開巻から長らく謎にされてきた「春原さん」なる人物が沙知(キシさんと呼ばれる彼女の姓は春原でないことがもっと早くに明かされている)の知人であることは、「転居先不明」で彼女の手元に戻ってきたはがきによってそれこそ映画の体感110分あたりのところでやっと明らかになり、何度もここで述べているように映画が決して詳らかにしない沙知と「春原さん」との関係はおそらくとても親密なものであったことも、沙知がその関係の喪失にうちひしがれているということもおそらく疑いようがないとは思いつつ、ただそこでついに「春原さんの吹くリコーダー」とはどういう意味なのかという問題がより一層克明に浮かび上がることがいよいよ見逃し難いのである。
 映画の中で唯一登場するリコーダーは、沙知の家に日高が置いていったあのリコーダーだけである。ここで、日高と春原さんには直接の接点が何もないことは明らかであり、だから当然、春原さんは一度もリコーダーなど吹いていないのだけれど、それでもなにかそれらしい接点らしきものをほとんど捏造するつもりで画面を刮目してみるならば、それは苫小牧に帰郷する船の中のシークエンスにヒントらしきものがないと言えなくもなく、沙知が、甲板であの日高が作ったと、能島演じる訪問者が教えてくれた「さっちゃん」のうたを歌っている春原さんを幻視するというまさに私というよりも、沙知のというよりも、この映画の作家の捏造と呼ぶふさわしいシークエンス-この映画のタイトルにこそふさわしいイメージ-に出会うのだけれど、その淡い幻想はそれこそが映画の核だとするにはあまりにもナイーヴで頼りないという気にもなる。「『さっちゃん』を歌う春原さん」というイメージにはたしかに、自分のものとも相手のものともつかぬないままない混ぜになったまま悲しまれる悲しみらしきものが仄めかすしむしろ語りに対してそのくらいの意味づけしかしないのだが、現実とも幻想ともつかぬこのイメージは推定を推定のままにしか留めないことで鑑賞者を突き放して、またしても慎ましいというよりもよそよそしく映画とそれを見るものとの距離を隔てるのだぎ、結局のところここまできて短歌を映画にするということはどういうことなのかという思考がやっと可能になるとも思われる。このような思考は結局、短歌の正しい読み方といったものにどういう意味をなすかなどということはここでは少しも問題にすることはなく、代わりに言葉(短歌)の持つ意味の曖昧さと、映画が物語に対して持つ意味の曖昧さというのの大きな違いについてそのわずかな片鱗ばかりを現しせしめる。すなはち短歌が持ちうる言葉の曖昧さがその意味の想起性と不確定性とを同時に持つのだとすれば、対して映画はその、音と光の喃語のように曖昧な雄弁さをカメラの前に広がる自然現象として炸裂させ、意味への慎ましさや鑑賞者へのよそよそしさを神様のいない世界の残酷さにまでわずかに拡張せんとするのではないかということが、曖昧で頼りないイメージを核とする映画の功罪かのようにゆっくり思考され始めるのだ。

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 最後に、車の中で眠る沙知のクロースアップで映画が終わることは成瀬巳喜男の『めし』(1951)を思い出させた。久しぶりに実家に帰ってゆっくりと休む原節子演じる三千代を見て、「女は眠るのよ。夫の顔を見ているだけで気疲れするの」と彼女の母親がつぶやく。これもまた、直接は決して言及することのないまま子どもの不在にうちひしがれる女の話だった。「春原さんのうた」を見ながらほとんど唯一、脳裏をよぎった物語のことである。

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