『アンジェリカの微笑み』(2010)(マノエル・ド・オリヴェイラ)

 冒頭、雨降る夜道。人気のない街路沿いにやってきた乗用車が一台写真屋の前で停まると、中から出てきた執事が店の主人の妻を呼び出し、亡くなったばかりの娘の写真をとってくれないかと頼むが、断られる。車両は現代的な仕様なのに写真に対する認識は時代錯誤的で、今そこが20世紀になったばかりなのか、それとも終わったばかりなのか設定はおぼつかない。画面のこちら側に生きている私たちと同じ生身の人間が画面の向こう側にも生きていると確証を与えてくれるのはガラスを伝う水滴や部屋の中をさまようタバコの煙、曖昧なかたちをしたものの質感だけだ。

 窓の映画である。

 はじめて登場するシーンで主人公のイザクは自室で読書をしながらタバコを燻らせている。彼は天使の存在を夢想する。外では雨が降っているというのに下宿部屋にひとつしかない窓は開け放たれたまま。写真屋に代わって亡くなった娘の遺影を撮ることになった彼は彼女の邸へ招かれる。娘はカトリックの家に住んでいたらしい。けれども、このユダヤ人の青年は「写真を撮ることができる」という技術的な動機だけで彼女の家に介入することを許される。「窓」は本来カトリックにおいてこそ信仰のモチーフだ。それは神との窓口を意味する。しかし、アンジェリカの遺体が横たわる邸の中に開いている「窓」はひとつもない。イザクが彼女を画面に収めようとするとファインダーごしに亡くなったはずのアンジェリカが微笑みかける。「アンジェリカの微笑み」はまるで自分の脱走を助けるためにやってきた者に合図する目配せのよう。彼女は部屋に残された唯一の窓であるカメラのレンズを通して邸からの脱走に成功する。

 邸から戻るとひたすらイザクの日常が描かれる。彼は畑へ出かけて農夫の労働風景を撮影し、下宿屋で知識人が経済や環境問題について議論するのを耳にしてなにかを思い立ち、下宿屋の女主人が飼っている小鳥になにかの願掛けを行う。自分が写真に収めたアンジェリカに恋をするようになる。夜な夜な夢の中で彼女に連れられて窓から部屋を抜け出し夜空をさまよう。ライゼンの『淑女と拳骨』(1943)にオマージュを捧げる飛行シーンは古色蒼然として見える。しかし無音とともに奥行きのない平面的な画面を作り出すこのシーンが私たちが夜眠って見る夢のいい加減なリアリティを生々しく再現する。目覚めたイザクはこれに「絶対空間」なる名前をつける。眠るときも、写真を現像するときも彼の部屋の窓はいつも開けられている。それは外部への開放性というよりもイザク自身の頭の中にある空想への扉に見える。穿った考察を加えるなら、それは電子端末の画面かもしれない。ビル・ゲイツが自社製品にウィンドウズと名付けたのは彼がカトリックだったからだ。

 イザクの部屋で紐に沿って交互に吊るされたアンジェリカと農夫の写真を写す画面はまるで何かの事件の捜査本部のようだ。最終的にイザクは思いついたかのように走り出す。映画にとっての最小単位であるはずの運動がはじめて現れる。カメラが走る彼を捉える。個々のヒントがひとつの筋道を導き出したかのようにまるで「ユリイカ」と走り出す。しかし観客には最後までそのなにかがなにかわからない。彼は街中で倒れる。救急車で運ばれる。自室のベッドに寝かされる。

 映画が終わると窓は閉められる。まるでスクリーンに幕が下がるように。

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