ベルリン フィルム・レビュー:「フクシマ・モナムール」

元記事:

http://variety.com/2016/film/asia/fukushima-mon-amour-review-berlin-1201706209/

writer:Maggie Lee

以下、訳文

 3.11を生き延びた主人公がドイツ人ボランティアとの出会いをそう呼ぶ「放射能休暇」という言葉は、福島の立ち入り禁止区域のど真ん中で撮られた、ドーリス・デリエによる被災地の悲劇にあらわれた辛辣なユーモアを要約しています。不条理なエスニック・ジョークで味付けされたこのドイツ人監督特有の風変わりなファンタジー、白黒の詩的な映像で撮られた「フクシマ・モナムール」は新鮮で、奇妙な視点を思い題材にもたらしています。そこには観客、もしかしたら被害者も含めて、悲劇からの休暇が必要であることが示唆されています。本作へのベルリンでの熱狂的な歓迎ぶりから判断するに、この映画は国内でのニッチなマーケットとヨーロッパから北アメリカにまたがるミニシアターでの興行を成功させることが見込まれるでしょう。しかし、日本の観客からすればこんなふうに面白おかしくこの題材をとりあつかうのはちょっと生々しく、心苦しいと感じるものかもしれません。

 より異国情緒に恵まれ、歓声を浴びた『HANAMI』(2008)に続いて、本作でもまた渡航者が外国文化に浸ることで個人的な喪失感を克服しようとしています。ドーリスは『漁師と妻』、『MON-ZEN』といった映画を他にも日本で撮っています。日本を25回も旅行して、彼女は日本人の美的か価値観と社会のうねりについて、例えばアッバス・キアロスタミが『ライク・サムワン・イン・ラブ』でやったこと以上に、より深い理解を示すようになったようです。

 彼女のつく合っている茶道や芸者のステレオタイプな比喩、頻発する猫の鳴き声といったモチーフがあまり効果的に死者の不可逆性を表現しているとは言い難いですが、デリエはこの未曾有の災害を生き延びた被害者がなにを感じているのかわかったふりをしたり言語化したりしようとはしていないようです。その代わり、彼女のうまく環境になじめない人を描こうとするこだわりは、ドイツ人と日本人の両方の主人公を変わった土地の変わり者としてうまく重ねて描くことに成功しており、生き残ったものが自分の現状を把握することの困難さをうまく劇化しています。

 マリー(ロザリー・トーマス)は、Clown4Helpという団体とともに福島の老人を優先的に受け入れる避難施設の支援に訪れます。デリエによって、こうした外部ボランティアが被害者の現状を改善しようとやってきたときに、彼らは圧倒されて、つつましく礼儀正しい反応を示すと穿った見方を提示します。しかし、実際に助けが必要なのは、パニック発作に苦しんでお酒や落ち着き払った僧侶に助けを見出すマリーのほうなのです。デリエの『Nobody loves me』のヒロイン同様、マリーは不安の暗闇に吸い込まれそうになっていて、仕事など全く手につきません。西側諸国の功罪と、そこに通底する他人の不幸に蜜の味を覚え彼女は「みんなが苦しんでるような場所にいると、気分が安らぐ気がするわ」と囃します。

 卑しく怒りっぽい老女、サトミ(桃井かおり)が汚染区域の廃墟に戻った後で、そこは政府によってかなり疑わしい調子で安全だと言われている場所なのですが、マリーは彼女とそこに引っ越すことに決めます。デリエはここで、よくある文化摩擦のネタを披露します。牛みたいに図々しい外国人が中国の店中で振舞うようなあれです。しかし、おどけた会話が二人に笑顔をもたらします。この地域で最後の芸者だと自称するサトミは、日本の風俗特有の見本として振舞います。マリーに「あなた、象みたいよ」と言い、へりくだったまどろっこしい言い方で彼女をペットとか家畜みたいに扱います。

 マリーはその家の庭でさまよえる幽霊を目撃します。そこにはサトミの親しかったお手伝いさん、ユキ(なのか)の姿もあり、彼女は自宅の木の上にしがみついているところを津波に襲われました。サトミはマリーを、彼女が惨めな気分でいるせいでこうした報われない魂を引き寄せていると言って責めます。辛い気分になる暗示的なシーンで、ユキの死に対するサトミの悲しみが彼女が自分で話している以上に複雑であることが明らかになる。

 映画全体を通して、マリーの不安や気だるさの源泉になるような個人的な悲しみのようなものを曖昧に夢のように示唆しているようだ。彼女が偶然口にしてしまった台詞があっけない結末を引き起こすようだが、一方でそれは二人の間に新たな親和性を映し出し、本作の真の主題を表しています。それはつまり、ある人が自然災害やあらかじめ決まっていた運命によってではなく、自分の愚かさによって大事なものを全て失ってしまったらどうするのか、という問題です。その人はどうやって再始動し、自分の過ちを許すのでしょうか。終盤では、日本での原発廃炉を叫ぶ哨兵線の前に佇む老女たちが映されます。それは映画全体を通して唯一の政治的なメッセージの役割を果たすものですが、それは観客の喝采を浴びるのに十分胸を刺し心に響くだけの衝撃を持ったシーンなのです。パブリックイメージのおいても役柄においても、風変わりで辛口なイメージを一新した桃井は、きっとこの役を演じるのに最良の日本人女優だったのでしょう。彼女は一層曖昧で、それまでの自分のイメージを常に消そうとしています。彼女の舞台向きなしゃべり方や、ほとんど歪と言っていい奇妙な身振り手振りは映画をリアリズム重視のものから、意図されたファンタジー以上に皮肉っぽい領域まで拡大しています。

 トーマスも不恰好な動き、大股歩き、ティーカップをつまんだり床を磨いたりするちょっとした動きに即興を取り込むことで、プロのコメディアンらしさを発揮します。彼女には、「バカで自分勝手でどうしようもないドイツのクソ女」と自分のことを罵るときさえ愛嬌をみせるような子どもっぽさというのがあります。彼女の幼児性が彼女を旅へと動機づけたのでしょう。映画は二刀流に作られているので、他の俳優たちは機能的な役割を演じるだけです。例外としてClowns Without Bordersの創始者で、耐え忍ぶ者、モッシュ・コーエンは感じのいい存在感を示します。

 撮影監督ハンノ・レンツによる艶っぽくて、白黒の人のいなくなった風景、慎重に選ばれたニュース字幕は物語を現実ばなれしてこの世の終わりめいたものにしています。特に忘れられないのは、核に汚染された大量の袋が掃除され、不気味な現代アートのように左右対称に丘の上に積まれたシーンです。ピアノの不協和音と電子音のノイズでできたウルリッケ・ハージの近未来的な伴奏は、クリストフ・エーバルトのつんざくような録音と手に手をとりあって、混沌から不安、陽気なさから不条理まで様々な雰囲気を作り出します。

ドイツ語のタイトルの意味は「フクシマからこんにちは」です。

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