岡崎藝術座「ニオノウミにて」

1/13(月) 14:00開演の回 (ネタバレあり)


 STスポットに設えられた歌舞伎の花道のような細長い板を小さな灯篭のような電飾が囲み、劇が始まって即席の櫓ようなものを組み、天女の格好をした俳優が中心に立って後光を浴びながらiPadで再現した楽器(琵琶/三線/三味線)を構えるとちょっとしたお堂のようになる。

 舞台は滋賀の琵琶湖。制作も京都でされたらしい。三幕のうち第一幕は、深夜の湖畔に、地元に住み働くようになった外国人と思しき男が釣りにやってくるところから始まる。深夜にやってくるのは現地の住民から迫害されているからだという。男は若い女と出会う。女は年老いた漁師の祖父と二人暮らしで、これから祖父の船を出して竹生島という神が住むとも言われ、弁財天を祀られた琵琶湖に浮かぶ島へと向かう。

 これは「竹生島」という名の能に由来するプロットで、という説明がパンフレットにもあり、そこには醍醐天皇の遣いで来た役人が琵琶湖で老爺と住む若い女に出会い、後に老爺は龍神で女が弁財天だと判明するというモチーフのあらすじをこの劇も辿ることになる。もう一つ重要な要素は1960年代にシカゴ市長の勧めで当時皇太子だった現上皇明仁がブルーギルを日本に持ち帰り、めぐりめぐって琵琶湖で大量繁殖するに至ったという経緯がもう一つ劇の背後にあり、第二幕ではこのブルーギルが登場し見栄えが悪く、臭いもきつく、悪食で繁殖力が高く、すぐに琵琶湖の固有種を駆逐した外来種としての自分の身分をふてぶてしく「謝罪する」というのが本作の重要なシーンとして残っている。

 観客はこのブルーギルと弁財天、アナウンスとしてだけ登場する龍神の噛み合わないやり取りを最初の外国人の釣り人の目線で通っていく。すれ違いばかりのモノローグが第二幕最後の踊りのシーン、第三幕中盤の弁財天の舞や長ゼリフで妙に噛み合い始めるシーンに不気味で官能的な魅力がある。

 ブルーギルの話だったものが、水草の話になり、渡り鳥の話になり、現地人と外国人の話になり、地球環境と人間の話にも見えてくる。

 弁財天は最後、釣り人に自分たちの代わりにならないかと提案する。このときに卵の入った箱を釣り人に渡して食べないかと提案するのだが、本公演、飲食自由である。パンフレットには演出家の言葉で、劇に対する様々な見方の提案の一つとして崎陽軒のシュウマイやおやつのセットを物販で販売すると描かれている。沖縄公演では金ちゃんラーメンというカップ麺だったらしい。灯篭のような小さな明かりに囲まれた細長い舞台を囲み、月明かりを模した大道具に照らされ、手に弁当を持って景色を眺める集団はちょっと屋形船の客にも似ている。弁財天が渡したものを「食べるか/食べないか」という結末はあまりにシンプルだと思ったが、そのシンプルさが舞台上と客席までシームレスにつながって劇の仕組みが設計されているのだと思った。

 これは宗教の話であり、魚の話であり、水草の話であり、渡り鳥の話であり、人間の話であり、居住の話であり、観光の話でもある。神里雄大の作品のテーマにいつも共通するのは「外国人としての日本人/日本の外国人」のようなものであったように思う。ただ客席に座っているだけで、そこが琵琶湖でもないのに、自分の存在がまるで見知らぬ旅行先に来たように疎外されていくように感じた。

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