ホラー以外のすべての映画(7) 災と再現

再現された災害はいかにして到来するのだろう。
それは必ずしも計算によって構築された爆撃や暴風雨が実在する観光名所や政府機関を次々とモニュメンタルに倒壊させていく記号的なシミュレーションであるわけでもなく、多くのドキュメンタリー映像のようにそれを被っていくばくかの月日が流れた瓦礫を背景に実際にその被害にあった当事者たちへの聞き取りを通じて撮影者が決して直接そのレンズに写すことの叶わなかった出来事を事後的に観客に想起させようとする営みであるわけでもまたなく、あるいはコンピュータの再現とは似ていながらも全く異なるやり方であたかもすぐに同じものが再建可能であるという潜在能力を誇示しつつすべて想像的な建築物の群れがあくまで想像の中だけでただただなめらかに倒壊させられるほんの一夜の絵巻物としてしか語りの力を発揮しないアニメーションでさえもありえない。それはただ、よく知った顔見知りたちの食事の席で、仲間の一人が席を立ったその僅かな間隙を縫って、たった一つの一時的な空席に招かれざる来訪者の姿を借りてやってくる。そして、同席したその仲間たちあるいはその場面に立ち会った観客たちは、レストランの席とはいったい誰のものであるだろうといった所有をめぐるささやかな問いをつきつけられるのだ。はたしてそれはレストランのものだろうか、ついさっき会計のために席を立った仲間の一人のものだろうか、あるいはそもそもこの社会とでも呼ぶべき一つの目に見えない秩序ははたしてその椅子に椅子なる名前を与えてその秩序の制御下におくことが一度でもできた試しがあるのだろうか。可能性を秘めたままいつまでも決定を保留にされているうち椅子は、ただこの一人の招かれざる客に強奪されていく。災害が、あるいは麦という名のこの世のものとは思えぬ不気味さを湛えた一人の男が今、観客たちの前に登場する。

 新居への引っ越しを終えたカップルとその門出を祝うもう一組のカップル。レストランに集った四人の登場人物たちの相貌をここに浮かび上がらせるために一人ずつその名前を呼び出してみよう。たとえば「朝子が明後日の方向を見てるときに朝子を見てる良平さんの顔がめっちゃきゅんとくるの」という台詞を口にする女の名はまやという。未だ題名を明かしていないこの映画の筋など無視してただこのセリフだけを字義どおりに読み上げてみるとすれば、朝子という女と交際しているらしい良平という男に横恋慕するもう一人の女として、そのまやという人物像が浮かびあがることになるのだが、その実、当の映画のほうはそのような筋を兆しさえ持ち合わせておらず、それゆえにただこのセリフは、脚本の中の一つの潰えた可能性として細やかにささくれ立ってほとんどの観客に気づかれもせぬうちに束の間その脳裏に本筋のそれとは似ても似つかぬ架空のあらすじをよぎらせるに過ぎない。それでもやはり、セリフが示す事実を注意深い僅かな観客たちの例に倣って字義通りに受け取ろうとしてみるならば、事態はこのようであるらしい。つまり、まやは良平を見ている。良平は朝子を見ている。すると、当然のように次の問いかけは朝子の見ている明後日の方向には誰がいるのか、というものになる。やがて、明後日の視線の先に映画の本筋が舵を取るべき目標物、朝子というこのもう一人の女がかつて恋に落ち愛を誓うやいなや姿を消したその麦という、災害のように現れる謎の男の影がぼんやりと浮かび上がってくる。本筋なるものとは、あくまで良平と麦というまったく同じ俳優によって演じられる二つの役と、朝子という一人の女の三角関係にすぎないという事実がこうして明らかになるとき『寝ても覚めても』(濱口竜介監督、2018)といういまだ明かされてこなかった一つの映画の題名が朝のまどろみから這い出す意識のようにその影を蠢かせる。それとほとんど同時に、われわれが映画を読み解く一つの礎として採用したはずのあのセリフの主、まやという女は登場人物としてはほとんど傍観者に近い脇役の位置へ、被写体であるよりも観客の目に一層近いような位置、映画よりもわれわれの側へと引き下がってしまう。では今一度問い直してみよう。あのようなセリフを与えられながら、なぜまやにはそのような役割しか与えられないのだろうか。つまり、なぜ彼女は良平に恋することを許されないのか。そこでここまで忘れ去られてきた、あるレストランのテーブルに並ぶ四人目の人物の名前を想起することが要請される。朝子と良平を通じて出会ったものの、この一組目のカップルに先んじてまやと交際し、結婚し、彼女の子どもの父親となる人物には串橋なる名前が与えられている。朝子と麦、まやと串橋。同じテーブルの席に並んでいたのだとしても朝子のほうには麦という禍の渦中へ真っ逆さまに引き摺り込まれて行く危険な恋愛劇の役が与えられているにもかかわらず、まやのほうにはその危機を近くで眺めつつ、一度も直接触れることのないままその庇護者と安全に戯れる恋愛劇の役しか与えられていないのだ。しかし、ひとつ間違えてはならない。図式にのみ囚われてしまうとこれが麦と朝子、串橋とまやの四人の恋愛劇の様相を帯びさえするのだが、しかしあのレストランのテーブルに列席したのは麦ではなく良平であった。招かれざる客としてやってくる麦は良平ではなく、串橋の座っていた場所へ、彼の不在時にやってきたという紛れもない事実を決して見逃してはならない。

あるいは「東日本大震災」という映画の中の本物の災害は、このような理由から、まやではなく朝子の目の前に決然とやってくる。
突然の失踪で麦という恋人を失って2年後、麦とそっくりの顔を持つ良平と出会った朝子は、彼に惹かれつつもそれゆえに避けてしまう。彼女には生身の良平の身体に麦の幻想を追い求める自分を朝子は許すことができない。事情を知らないまやは、一見良平と朝子の仲をとりもとうとするかのように自宅での食事会を企画するが、あるいはそこにまやから良平へと伸びる実現しない恋愛の矢印であった可能性はないだろうか。というのが先にとりあげた台詞がかすかに仄めかす筋のささくれなのだけれど、とはいえそれを妄想の中で深読みすることがこの稿の目標になることはいささかもなく、このシークエンスはなによりプロットにおいてはまやと串橋とが初対面を果たすことにその重心を置いている。アマチュア女優であるまやが出演した舞台の映像を鑑賞するうちに、彼女の力量の中途半端さに業をにやした串橋が、かつて自分も俳優を目指していたことを告白することを意図してチェーホフの『三人姉妹』の一節を読み上げる。濱口という監督のフィルモグラフィーに繰り返し「劇中劇」や「ワークショップ」のモチーフが登場し、それが登場人物の人生を大きく変えてしまう役割を果たすことに注目したふりをしてここで乱暴に論旨をでっちあげてしまうことは明らかに批評としての怠惰であるものの、ここでもまたチェーホフの劇が唐突にそれまでの文脈を断ち切るような展開をもたらすことは見逃すことができない。刑事のような公務員的退屈さで生真面目に読み込むだけでは決して対処しきれない、解釈的な飛躍というものがこの映画にはどうしても存在していて、それが「劇中劇」と「災害」であると気づくとき、よく似た位置に配置された二つの装置がプロットにいかなる作用をもたらしているのか調べることもせず素通りするよりは、いささか怠惰な思考ゆえの直感的跳躍を選択するよりほかないことは恥ずかしながらことわっておくとしよう。踏まえて述べるならば、つまるところまやの恋愛には「劇」が与えられ、朝子の「恋愛」には、災害が与えられるのだ。
ただそこで、朝子を主役にしたドラマだけに注目し、『寝ても覚めても』とはいかなる映画かという問題といったなにかいかげんで凡庸な問いに対して、例えば麦への思いを断ち切れない朝子が震災の「あの日」に良平と再会し、復興支援のボランティアで彼との関係を育み、それゆえに一度は再び現れた麦の手を握ったのだとしても被災地の海岸線を囲む防波堤を目の当たりにするやいなや「復興」に良平との関係の構築を想起して思いとどまったといったことを証拠として論いながら、麦に「災害」、良平に「復興」と象徴的な意味をおし着せるような応答を試みるといった評をここにしたためるつもりは微塵も持ち合わせていない。例えば、それが本物の「東日本大震災」がそうであったように防波堤が海岸線の景観を台無しにする「復興」と呼ばれる二次的な災害であるのとちょうど同じように、良平の元に帰ってくる朝子の幻想、朝子が良平になげかける良平への期待こそがまさに生身の良平にとっての真の災害として降りかかるなどという読みにとどまることはここでは一度も目指されていないのだとはっきり述べておこう。

 あくまで映画を映画として見るために試みるべきは、朝子と麦と良平と災害の関係ではいささかもなく、代わりにまやと串橋と良平と劇の関係であると述べねばならない。それは災害という劇的な要素が劇においてはいかに凡庸で、婚姻というありふれた項目にいかに劇的な機能を担わせるかに劇の洗練があるからだ、とも述べることもできるかもしれない。つまり串橋がここで示す「劇性」とは婚姻なるものであり、災害がたとえば非日常の悲劇性を示すものであるとすれば、婚姻はロールプレイとしての劇性を担うものと言い換えることもやぶさかではない。それゆえに串橋とまやとが、朝子と良平を通じて出会ったにもかかわらず先に交際し、結婚し、子どもをもうけたカップルであることにはただの脇役である以上に、もう一組に対して、その行先を暗示する予言のモデルの役割を演じていたはずであると指摘せねばならない。朝子と良平が結ばれるのは、朝子が麦の影を良平に見出しているからではない。まやと串橋という鏡を自分と良平とに見出しているからなのだ。そしてまさに「唐突な婚姻という劇」こそが串橋のしかけようとしている物語なのだとすれば、ここには串橋と麦との対立が見て取れる。それは「劇」と「自然災害」の対立である。「劇」は「自然災害」を模倣する。それを、まるで防波堤が波のかたちを模倣するかのようになどと口にすることは慎まねばならず、劇がまさに単なる有用な措置としてだけはありえず、自然を模倣したもう一つの災害として、意図せぬ機能を果たす人工物として、悪夢となり、この結婚の劇が麦のもとから戻ってくる朝子という姿を借りて、良平に襲いかかることこそ、『寝ても覚めても』という劇自体の一つの結構としてここでは論ってみなければならない。

さいごに、串橋が読み上げたあのチェーホフの『三人姉妹』の抜粋を見てみよう。

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