2023年3月16日の虚弱日記

道を歩いていると、歩きスマホをしている人が向こうからやってきた。僕はこう思った。おいお前、お前の歩きスマホは「正当化」されているのか。どうせ「正当化」されていない歩きスマホだろう。見れば分かる。それは「正当化」されていない歩きスマホなのだからただちにやめたまえ。その行為はお前にも、僕にも危険がある。
しかし僕はそれを音がついた言葉(=音声)にはしなかった。僕の思いがお前に伝わることはない。
僕もお前も、実のところ茶番的世界観の中を生きている。はたから見れば茶番のような行為に毎日いそしんでいる。もし僕がお前の歩きスマホを注意してしまったら、茶番が壊れて、僕もお前も少し壊れてしまう。
たとえば「いつもご協力ありがとうございます」と書かれたパネルの下に英語で「Thank you for your cooperation」と書かれているのは茶番である。どういうわけか人間というのは生きていくのに作為的な偏りが必要で、それが茶番を生み出している。生きる意味だとか、信念だとか、決まりだとか責任を取るだとかはすべて作為的な偏りである。
そういえば、お前が僕の横を通り過ぎるとき、さわやかな風は吹いていなかったぞ。
作為的な偏りというのはときに厄介ではあるが必要である。作為的な偏りの例として「謝罪」を取り上げて、「謝罪のいらない世界」というのを考えてみよう。人間の行い全てがシステム/経済的に処理されて、何かをやらかしても相応のお金を払ったら済むような世界だ。謝罪するときというのは時間感覚がゆっくりになるわけだが、謝罪が必要なくなると、時間感覚の変動がなくなって、均等に生活が進むようになる。生活に引っかかりがなくなるというわけだ。この辺はよく分かってないのでもうちょっと考える必要があるが、生活には引っかかりが必要であって、だからこそ行事だとか祝日だとかがあるわけなんだな。終わり。

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