『重力の虹』3

 かつて「『重力の虹』はプラスチックについての小説でもある」と新訳刊行前に訳者がブログに書いていた。
 実際、無数のプラスチックが登場するが、現在の日本の読者がいまいちよくわからないのはなんといってもプラスチックマンであろう。上巻p394のビーチの場面で「スロースロップの手にはプラスチックマンの漫画」がある。p395では、

「これがスロースロップ中尉か」
 カラー刷りのプラスチックマンが鍵穴から抜けでて、角をまわり、ナチのマッド・サイエンティストの実験室の流し台に通じている管の中をのぼってゆく。蛇口からプラスチックマンの頭が、白縁で覆われたブランクな眼と非プラスチックな顎が、ちょうど現れたところで、「当たりだ。そういうあんたは?」

というやり取りがあって、「はじめのうちスロースロップは、プラスチックマンの漫画に早く戻りたいと思ったけれど」新たに登場したこの男との会話に引きずりまわされて結局プラスチックマンがどうなったのか、結末は明らかにならない。
 そもそも、こんなエピソードがプラスチックマンに存在するのだろうか。ネットの有志が書き込んでいるpynchon wikiにも、リチャード・ファリーニャ(『重力の虹』はファリーニャに捧げられている)が愛読していたことは記されているが当該エピソードのプラスチックマンへの言及はない。おそらくピンチョンの創作であろう。
 ところでリチャード・ファリーニャの小説(この小説は彼の妻であるミミ・バエズに捧げられている。ジョーン・バエズの妹で、ファリーニャとともに音楽活動をしていた)“Been Down So Long It Looks Like Up to Me”の第二章でもプラスチックマンは言及されている(ファリーニャの日本語版ウィキは前見たときにはなかったけど、いま確認したら英語から翻訳されていた!)。
俺に関するインデックス・カードは作成されなかった、俺は適用対象外なんだ。秘密のアイデンティティーは必死に守り通された、というのも俺はプラスチックマンなんだ、軽い気持ちでなんの苦労もなくボーリング玉になれるし、敷石にも、ドアにも、コルセットにも、エレファントの避妊具にだってなれるんだ。No index card for me, I’m Exempt. Secret identity mortally guarded, for I am the Plastic Man, able with an effortless shift of will to become a bowling ball, a pavement, a door, a corset, an elephant’s contraceptive.
 あと一回、第七章にも言及がある。
復讐の女神はけっして眠らない。誰になるべきか?グリーンアロー、それともビリー・バットソン?プラスチックマンがいまだにベストだ、変身ができるからな、ミンガスのB面になろう、透明な振動を我が音溝で感じよう、センタースピンドルが脳ミソを貫く、「ラヴバードの蘇生」、4分の3拍子、ロッキングチェアのなかのファンクだ。the furies are never asleep. Who to be? Green Arrow, Billy Batson? Plastic Man still best, do the metamorphosis, be a Mingus side, feel the crystal vibration in my grooves, spindle poking through the brain, reincarnation of a lovebird, three-four time, funk in a rocking chair.(翻訳大丈夫だろうか……)
「ラブバードの蘇生」はチャールズ・ミンガスの1957年のアルバム『道化師』の三曲目。アルバムのジャケットがカッコいい。

ミンガス『道化師』

 ビリー・バットソンはシャザムの本名らしい。
 ファリーニャの小説の主人公がプラスチックマンを「いまだにベストstill best」と呼んでいるのが印象的だ。この小説の舞台は1958年のようだが、それはプラスチックマンの作者ジャック・コールが自殺した年でもある。
『重力の虹』につけられたプラスチックマンの脚注は非常に簡素だ。「ジャック・コール作。雑誌連載の始まりは一九四一年。一九四三年には単行本化。」
 アメコミの歴史はわたしにはほとんど把握できないが、アート・スピーゲルマンとチップ・キッドによる“Jack Cole and Plastic Man: Forms Stretched to Their Limits ”(2001)ではアメコミの「ゴールデンエイジ」とは1938年にスーパーマンの連載がはじまりスーパーヒーローものが流行した時から1954年のコミックコード法成立までの時期、とされている。

 上記の本は本文をアート・スピーゲルマンが執筆し、デザインやレイアウトをチップ・キッドが担当している。スピーゲルマンは『マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語 』や『消えたタワーの影のなかで』が翻訳されているが、実験的な表現を自分では好んでするが戦前のコミックストリップも含めた往年のアメコミへの造詣と愛着が深い。アメコミ界の川勝徳重だといえよう(なお、スピーゲルマンは本人役でアラン・ムーアらとともにシンプソンズに登場している。シーズン19の第7話である。もちろんピンチョンもシンプソンズに出ている!)。
 チャプター1でスピーゲルマンはこう語る。
スーパーヒーローもののコミックに恋していると告白するのは私には少し気恥ずかしいのだが、ジャック・コールのプラスチックマンはあらゆる大人のための「プロザック(抗うつ薬)を避けるための方法」リストの上位に位置しており、そのリストにはS.J.ペレルマン、ローレルとハーディ、デイモン・ラニアン、テックス・アヴェリー、そしてマルクス兄弟の最良の作品が含まれている。
という風に絶賛している。そしてこれを読んでわかるのは、「ナチのマッド・サイエンティスト」と闘う真面目なヒーローなんかではどうやらなさそうだぞ、ということだ。
 ただ、笑いというものはかなりやっかいだ。アメリカのコメディ映画を観てさっぱりわからなかった経験のある人は多いだろう。なのでここではプラスチックマンの芸術性の分析を紹介しておく。

 まず最初のコマで、泥棒を見かけたプラスチックマンが急停止し首を後ろに伸ばして様子を伺う。ここでプラスチックマンは通常の人体ではあり得ないS字カーブを描いている。そしてこのS字カーブがページ全体を通じてプラスチックマンの伸縮自在のからだ(とスピーチバルーン)によって読者の視線誘導というかたちで再現されているというのがスピーゲルマンの分析だ。

 わたしはアメコミの読み方がわからないので議論の是非はなんとも言いかねるが、興味深い。
 スピーゲルマンによれば、特に戦後のプラスチックマンはMADコミックスを先取りしているし、Hellzapoppin’のようなヴォードヴィルの狂騒に近いものがあるという(Hellzapoppin’は1938年から41年にかけてブロードウェイで上演されたのち、1941年末に映画版が公開されていて日本でも一部でカルト的な評価を受けているようだが、いまだに日本語版のDVDは発売されていない。海外コメディの受容の難しさ、を感じる)。
 個人的に気になるのはゴーストライターの問題だ。1943年に単行本化(といっても日本で単行本と聞いて思い浮かべる造本とはまったく違い、リーフレットのような感じだと思うのだが)が決まったとき、ジャック・コールはいくつかのストーリーにアシスタントを入れて作業しなければいけないと聞かされて泣き崩れたというエピソードが伝わっている。彼は完璧主義者で、すべての線を自分で引きたかったのだ。

 例えばこのプラスチックマンはゴーストライターの手になるもの、らしい。
「ギル・ケイン(この手のことに関する権威)はおそらくジョン・スプランガーという才能あるクオリティ社のアーティストのものだと推測している」

 なんというか、アメコミの「線」がわたしにはまったく馴染みがないのである。スピーゲルマンによればジャック・コールは1940年代後半にその技術の頂点に達したのち、なぜかプラスチックマンを描かなくなってしまったらしい。ジャック・コール名義での発表は1956年まで続くのだが、自分で描いていたのは1950年までで、以後の作品はすべてゴーストライターが描いているそうだ。
 わたしが気になるのは、人はどうやってそれがその人の作品だとわかるのかということだ。
 わたしはぺぺちゃんと呼ばれるグラフィック・アートをここ一年ほど探している。すると、たまに偽ぺぺちゃんとしか思えない作品を発見するのだ。

これが普段のぺぺちゃんだとして、

この掲示板の裏にこっそり描かれているのは一体なんなのか。スペースが狭くて左手で描いた?しかし、だとしたらなぜそんな狭いところに描いたのか?偽物だろうか?しかしなんのためにわざわざ偽物を描くのか?
 そしてこれは文章にも言える。以前バーセルミの『雪白姫』訳者あとがきでピンチョンというのは一人の小説家ではなく創作集団なのではないか?と書かれていたが、まあ、(当時の)覆面作家に対してそういう想像を働かせることは、ありうるだろう。しかし、小説にはヴォイスというものが響いているはずではないのか?訳者の柳瀬さん(わたしは大好きな翻訳者だが)にピンチョンのヴォイスが聞こえなかっただけなのか?しかし本当にピンチョンのヴォイスなどあるのか?プラスチックマンの場合のように、その手のことに関する権威が読んだら部分的に誰かの(例えば当時の恋人の)代筆ということが発覚しないとも限らない。別に小説は一人で書かなければいけないわけでもないのだから。しかし、しかし……。
 とりとめがなくなってきたので、今回はこの辺で。なんとなくファリーニャの小説を訳してみたくなったな。とりあえず第一章だけ試訳してみるかも。もし訳すなら注をたくさんつけてみたい。ピンチョンの翻訳みたいに。

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