『重力の虹』1

 やっぱり『重力の虹』を原文で読んでみたいなあ、と思った話を書いてみる。
 最近甘いものが好きなので、なんとなく甘いものがたくさん出てくるエピソードの原文をKindleで読んでみたのだった。
 そのあと念のため新潮の全集版の翻訳を読んで、自分と解釈があまりにも違ってびっくりしたのだ。
 とりあえず翻訳を引く。

「わたくしの悪寒がひどかった時期にいらした方ね」夫人はスロースロップを覚えていた。「ヨモギのお茶をいれましたよね」おお、来た来た、あの日のテイストが、いまスロースロップの靴底からじんわり上がってきて、彼をいざなっていく。彼らが組み立てなおしている…これはきっと、記憶が外からいじられているのだ…クールでクリーンなインテリア、少女たち、女たち、地図に書き留めた星々、それと関係なく…あんなに数が多いのだし、女の子の顔も、風吹きすさぶ運河沿いの景色も、一間の部屋も、バス停での別れも、とてもじゃないが憶えきれないのに、なぜかこの部屋の記憶はどんどん鮮明になってくる。自分の内に棲む誰かが、その後の数ヶ月を頭の外に締め出して、保存しておいた記憶を、ざらついた影の向こうから、いま親切にも届けてくれた。あぶらに霞んだ薬草の壜も、キャンディやスパイスの壜も、棚に並べたコンプトン・マッケンジーの小説もぜんぶ、マントルピースの上の、金メッキの額入りで立てかけられた亡父オースティンの、埃にまみれたアンブロタイプ写真も。その脇には、前来たときにユウゼンギクが活けてあって、彼を騒がしく迎えてくれた。その小さなセーヴル焼きの花瓶は、大むかしの土曜の午後にウォーダー・ストリートの店で主人と一緒に買ったのだった…(上刊223-224ページ)

原文は以下のとおり。

"You were here when I had that horrid quotidian ague," she recalls Slothrop, "the day we brewed the wormwood tea," sure enough, the very taste now, rising through his shoe-soles, taking him along. They're reassembling... it must be outside his memory... cool clean interior, girl and woman, independent of his shorthand of stars... so many fading-faced girls, windy canalsides, bed-sitters, bus-stop good-bys, how can he be expected to remember? but this room has gone on clarifying: part of whoever he was inside it has kindly remained, stored quiescent these months outside of his head, distributed through the grainy shadows, the grease-hazy jars of herbs, candies, spices, all the Compton Mackenzie novels on the shelf, glassy ambrotypes of her late husband Austin night-dusted inside gilded frames up on the mantel where last tune Michaelmas daisies greeted and razzled from a little Sevres vase she and Austin found together one Saturday long ago in a Wardour Street shop...

They're reassembling... it must be outside his memoryを「彼らが組み立てなおしている…これはきっと、記憶が外からいじられているのだ」と訳すのは致命的なミスではないか。「彼ら」というのはこの小説では、あらゆる陰謀の背後にいて現実を操作している主体を指す場合がある。しかしここでのTheyは全然違って、かつてのスロースロップがこの部屋を訪ねた時の記憶の手触りだと思う。それらが自動詞としてreassembling(再結集)していく……。だから「記憶が外からいじられている」なんていう恐ろしい事態は、わたしの読みでは起こっていない。it must be outside his memoryはただ単にit must be outside his memory(それ(=よみがえってきた記憶の手触り)が彼の記憶の外部に由来を持つのは間違いない)にすぎない。
 それに続くcool clean interior, girl and woman, independent of his shorthand of starsは、わたしの読みではいまスロースロップがいるシチュエーションをパラフレーズしているにすぎない。girl=ダーリーン、woman=クォード夫人、である。independent of his shorthand of starsは若干の補足説明が必要かもしれない。スロースロップは第二次大戦中のロンドンでナンパにあけくれているのである。そしてオフィスに貼ってあるロンドンの地図に、女の子たちと密会した場所へ星のシールを貼ってメモしている……。independentとは、そんなスロースロップの習慣とはなんの関係もない、ということである。
 これで、スロースロップの記憶とも、スロースロップのメモ帳としての地図とも違う、別のしかたでreassemblingという事態が進行していることが語られている(それと同時にスロースロップの記憶も地図もほとんど機能不全であることがさらっと語られている)。
but this room has gone on clarifying=「なぜかこの部屋の記憶はどんどん鮮明になってくる」
さて、小津安二郎の墓碑銘には「無」と記され、セリーヌの墓碑銘には「否(ノン)」の一語が刻まれていると長らくされてきたが(ただしこの超カッコいいエピソードは生田耕作による神話で、実際は帆船の絵が彫られている普通の墓で「否(ノン)」の文字は無いらしい)、この時期のピンチョンにもしも墓碑銘に彫られた一語が必要だとしたら、“but”こそがそれだとわたしは思う。“but”は『重力の虹』の最初のページから最後のページまで、ピンチョンの思考を左右し続けている、と思う(これはまた別件としていつか書きたい)。
part of whoever he was inside it has kindly remained, stored quiescent these months outside of his head「自分の内に棲む誰かが、その後の数ヶ月を頭の外に締め出して、保存しておいた記憶」inside itのitは直前のthis roomではないのか。part of whoever he was inside it=この部屋を訪れた際の彼の一部。whoever=○○する人は誰でも、であり、part of whoever he was=彼がなんだったとしてもなんであれその一部、
というややこしい関係代名詞の使われ方は、スロースロップ自身の記憶ではなく「外部記憶」を問題にしていることから来る距離感の表現だろう。「自分の内に棲む誰か」というような多重人格もののスリラーのような話ではない。has kindly remainedは自動詞の現在完了形で、全体としてpart of whoever he was inside it has kindly remained=かつてこの部屋を訪れた際の彼の一部はいまでも思いやりを持って残され続けている、といった感じになると思う。stored quiescent these months outside of his headはしたがって「その後の数ヶ月を頭の外に締め出して」ではなく(「締め出して」のような操作のニュアンスはなく)、数ヶ月にわたって彼の頭の外部で静かに貯蔵されている、になる。あとstoredとdistributedはいわゆる分詞構文だと思うのだが、主語はpart of whoever he was inside itなので、distributed through the grainy shadows云々を「ざらついた影の向こうから、いま親切にも届けてくれた」は違和感がある。訳文では「ざらついた影の向こうから」「あぶらに霞んだ薬草の壜も、キャンディやスパイスの壜」などがスロースロップのもとに届けられるのだが、本当か?part of whoever he was inside it is distributed through the grainy shadows, the grease-hazy jars of herbs, candies, spices云々だとすると、the grease-hazy jars of herbs, candies, spices云々はどれもthroughの目的語ではないか。つまり、ざらついた影やあぶらに霞んだ薬草やキャンディやスパイスの壜たちがそれぞれスロースロップの外部記憶装置として彼の一部を分有してくれていた……という認識がここでは語られているのではないか。
 ここまで書けば、人によっては荒川/ギンズのことを思い出さずにいられない。荒川/ギンズは建築というものを、そこに住むものの「身代わり」になってくれるものと考えた、そしてそれを通して不死の問題に踏み込んでいった(筈なんだけど、わたしもまったく完全には理解していない)。
 わたしにはここでピンチョンが書いているクォード夫人の部屋はほとんど三鷹天命反転住宅の一室に思える。スロースロップが忘れても、クォード夫人の部屋が代わりに思い出してくれる……。
 このような世界観?がいつからあるのかわたしにはよくわからないし、ピンチョンのそれは伝統的なゴースト・ストーリーが直接の由来なのかもしれないが(『重力の虹』はゴーストについての小説でもある)、しかしやっぱりわたしはここでピンチョンと荒川/ギンズが共鳴しているようで、面白かったし、嬉しかった。
 だからこそ、翻訳を覗いてみて愕然としたのだ。わたしがスゴいと思った描写が、まったく違う意味に変えられてしまっている!
 決定的なのは以上の描写だったが、細かい違和感はいくらでも挙げることができる。例えばアンブロタイプという言葉の語源が「不滅あるいは永遠を意味するギリシャ語のアンブロトス(Ambrotos)」であること。まさに荒川/ギンズの「死なない=不死」という主題と響きあうではないか。またアンブロタイプは主に1850-60年代に使用された技術なので、それに写っている「亡父オースティン」は若くても1840年代あたりに生まれた筈で、とすると物語の舞台である1944年現在においてクォード夫人は何歳なのか(若くても90歳前後?)……という想像をするのも楽しい。まさに引用直後に夫人が語るように彼女は「魔女のように生き」ているのだ。
 ところで引用の次のパラグラフで“I’m the only one with a memory around here,” Mrs. Quoad sighs.「ここで記憶があるのはわたくしだけですから」という場面があって、このa memoryは亡父オースティンの記憶だと思うのだが、ここでピンチョンは直前の地の語りを裏切るかのような発言をクォード夫人にさせていることになる。クォード夫人にとっては長く生きすぎて周りにはすでにオースティンの思い出を共有できる相手はいない。しかしクォード夫人は知らないが、本当はオースティンの記憶はクォード夫人の身のまわりの物たちに分有されているはずなのだ。この自己否定じみた文章の運動こそがピンチョンだとわたしは感じる。さっきまで熱を込めて語っていたことが、次の瞬間にはあっさりひっくり返る。なにかを定立すると即座に「いやでもやっぱり」と思考が増殖していく“but”の世界である(どの程度弁証法というかドイツ観念論の影響をピンチョンが受けているかはわたしにはわからないが、絶対にドイツ観念論を学ぶことはピンチョンに近づくことだという確信はある)。
 ともあれ、もともとは甘いものの話が読みたくてこのエピソードをわたしは選んだのだった。本エピソードをThe Disgusting English Candy Drill「屈辱的な英国式キャンディ演習」というフレーズで集約することも可能だろう。しかしこの翻訳で問題なのは、綺語には脚注を惜しまない代わりに「キャンディ」のようなあまりにも普段使いの言葉の説明をしてくれないことだ、と思ったりもした。キャンディは、英語圏では砂糖菓子全般を指す。スロースロップのセリフに「毎日ハーシー・バーみたいな単純なのしか相手にしてないもんで」というのがあるが、ハーシー・バーのようなチョコレートも英語が母語の人間にとってはキャンディ以外のなにものでもなく、スロースロップは話を反らしているのではなくちゃんとキャンディの話をしているのである。ワインゼリーももちろんキャンディ。以下のサイトがわかりやすいと思う。https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/katakana-english_07_1

 あと、「舌はほとんどホロコースト状態」(228ページ)とあるが、ホロコーストを訳者は別の箇所でも誤解している。ホロコーストがユダヤ人虐殺を意味するようになったのは1978年放送の『ホロコースト』というタイトルのドラマが流行って以後のことであり、それまではジェノサイドと呼ばれていた。1973年刊行の『重力の虹』ではもちろんホロコーストという言葉は特に含意のない普通名詞として使われている。この場面でも、舌が焼けるようにヒリヒリする、といった程度の意味しかないであろう。
 あと、このエピソードの最後の訳文はかなり怪しいとわたしは思う。And who’s that, through the crack in the orange shade, breathing carefully? Watching? And where, keepers of maps, specialists at surveillance, would you say the next one will fall?「でもあれは誰だろう? オレンジ色のブラインドの隙間から息を潜めて覗いているのは? 観察ですか? 地図に記入するの? そうなら答えて、次はいったいどこに落ちるの?」という風に訳文はダーリーンの内面の声にしてしまっているが、これはサスペンスを高めるためちょっと大袈裟な口調で語っている地の文章にすぎないと思う。ダーリーンはすでにスロースロップと「ファックの真っ最中」、もし覗かれているとわかったら「ファック」どころではないだろう。ダーリーンは別に変態ではないのだ。
あと途中までならこのサイトあたりがけっこう長く書き起こしてくれている。http://bella.media.mit.edu/people/foner/Fun/gravity.html

 とりあえず今日はここまで。次はスノックソールでのエピソードについて書くかも。

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