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セクシャリティを公開するということ。

1979年に群馬県伊勢崎市で誕生。
お乳もままならず、体重がなかなか増えない子供だった。
そして生後6か月、高熱で失聴。その後は口話教育を受け、手話も身につけ、大人になった。

当時自分がゲイかも?と思ったのは小学校5年の時、近所の本屋さんで衝撃をうけた本「薔薇族」であった。その薔薇族というのは何かと説明しなければならない。そう、男性同士の情報誌でもある。当時は情報誌でもあり、教育雑誌でもあり、私のバイブルとなる本でした。
そしてゲイというロールモデルがあることを知ったのもその時期になる。しかし、ろう者としてのロールモデルはあるのか…。それを初めて知ることになるのは、20歳の時になる。ゲイという言葉を知ってからは、8年の歳月がかかっている。8年というものはあっという間なのか。長いようで短いのか、今はよくわからない。ただ出会えた喜びの方が大きいのは確か。こんなにロールモデルがいるのなら、きっと夢も大きかったのだろう。その方々たちは当然ながら、自分のことを周りに隠しながら生きていくことになる。隠しながら生きるということは相当なストレスと失うものの重さがあった。

私がセクシャリティを公開するきっかけとなったことは、初めて家族にセクシャリティをカミングアウトすることになった時だった。この時の年齢は27歳。結婚適齢期でもあるし、孫もみたい親の言動がひどくひっかかることでもあった。当時は東京に住んでいて、度々帰るたびに言動がひどく感じる。そんな時にまずは妹にカミングアウトしたのだが、すぐに妹が母へのアウティングされてしまったのだ。ここはまぁ、想定範囲内。母からの連絡では「あなたがゲイであろうが、息子には変わりない。大丈夫。」きっとありったけの気持ちだったのだろう。子育てを間違ったのだろうという葛藤と、今後の未来がわからなくなってしまったということ…。今なら、ごめんなさいともいえるし、出来なくてすまんねぇ。とも言える。

家族への初めてのセクシャリティを公開してからはもう片っ端から友達に「俺はゲイです~。女に興味ないです~。」と言いつつも、これから先、付き合っていく友達は消えていく人もいれば、今でもざっくばらんに話せる友達もいるし、今でも相手側が差別的な言動をする人もいる。まぁ、私はいろんな人がいていいんじゃない。だけど、私も選ぶ権利はあるから。と思った。このうえない幸せを当時も今も感じている。

セクシャリティを公開することということは、どうしてか。
ろう者の中でオープンに生きる人は本当に数少ない。だからこそ、ロールモデルが必要と感じていた時もその27歳の時だった。公開するということは本当に重みのある勇気がいる。あれから13年。今思えば、公開するというよりも、自然体でいられる自分がいる。それは誰にも迷惑かけてもいないし、当然自分のことだからである。公開している意識は今は全くない。これが自分だから。

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