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赤富士の記憶

 さいしょのころぼくはただくらやみに抱かれていて、頭がはっきりするまでに三十時間ほどかかった。でもぼくが眠っていたのはもっとずっと、気のとおくなるほど長い時間だったはず。
 深いみなぞこでのびをする。水がぎちぎちまとわりついてきて、光は遮られ、ぐるりと回転すればどちらが上なのか、もうわからなくなる。
 丸いあぶくを吐いて食べる。ぼくの記憶のいちぶだったみたい。
 ぼくは上へと合図をおくった。それが仕事だと思い出したから。へんじはない。このくらやみまで、誰の声もとどかない。
 
 *
 赤い山が見たい。天地のわかれるときから神さびて、雲を突き抜けそびえ立つ。
 *
 
 きっとぼくは眠りにつく前、記憶をばらばらに落としてしまったんだ。
 ため息を食べる。ぼくの記憶になる。生き物の観察日記だ。
 水深一万メートル。ぼくの周りを浮遊する埃みたいな微生物が、ガスを求めてぱたぱたと閉じたり開いたりしている。力強く動くのは端脚類で、跳ねてすぐにどこかへ消えてしまう。明かりがないから、すばやい生き物はよく見えない。
 くらい、くらい。
 また上へ合図をおくる。だれかが答えた気がした。でもぼくのからだは何のデータもとらえていない。
 赤いお山の声だと思った。
 
 コア・メモリーが回復する。身体拡張技術。自分の身体の動かし方を知る。
 ぼくは重しを切り離し、海上を目指すことにきめた。丸めていた身体を引き延ばし、水かきを生成する。ひとかきで五十メートル浮上する。
 水深八千メートル。暗闇のなかでかろうじて視覚がひらかれる。転がる甲殻類が、少数で群れをなす鱗のない魚たちに食べられている。
 上までいっても太陽の光が届かなかったら途中の海域を探ることにしよう。新しいねぐらをみつくろって、魚や藻類やプランクトンのデータを取ろう。寂しくなったら誰かに話しかければいい。
 やあ、そっちの海はどうだい。クジラは浮上しましたか。赤いお山は見えますか。
 返事はない。だれか、だれか。
 
 *
 わが家の茶の間には葛飾北斎の浮世絵が飾られていて、私が最初に与えられた画集も北斎のものだった。亡くなった祖父が北斎に惚れ込み、静岡の山奥に大きな家を建てたのだ。お母さんは「不便すぎる」と実家に帰るのを嫌がっていたけれど、私の肺には空気の澄んだ祖父の家が合っていたみたい。
 *
 
 古い記憶を思い出す。
 太平洋プレートが動き続けるあいだ、ぼくは自分を組み替えながら漂ってきた。
 最初に沈められたとき、ぼくには名前が与えられた。陸地での記憶はほとんどないけれど、あまりのまぶしさに薄目さえ開けていられないほどだったことは覚えている。ぼくの目はそのとき、水深二千から六千メートルでの活動を想定されていた。
 メモリーはいたるところが欠けていて、拾い集めた記憶でつぎはぎみたいに修復する。そのたびに忘れた何かがとても大切だった気がして、胸がどきどきした。
 ぼくは上昇の途中で休んでは、透明な軟体動物の大きな瞳が宝石のようにきらめくのを見つめた。
 
 水深五千メートルの海底に、大きな金属のかたまりが突き刺さっていた。古い船みたいだ。どうして船だってわかったんだろう。
 そうだ、ぼくはここに来たことがある。
 船は遠い大戦で海の藻屑と消えた戦艦の一部だった。この海域の酸素濃度はうすく、崩壊のぐあいにくらべて腐敗はゆるやかだ。
 記憶がばらばらになる前、ぼくはこの海域を調べたんだ。
 船は少し触れるとずるずると崩れてしまった。人類の歴史の遺物。船員たちの骨はとっくの昔に形を失い、雪みたいに降り積もって海の一部になっただろう。
 知りたい、知りたい。生きていた人はどこへ行ったの。なぜ誰もぼくを迎えに来てくれないの。
 信号を送り続ける。地上から返事は一度もない。
 
 *
 晴れた日には東京の病室からでも富士山が見えた。どこにいても私の目印だった。手術を終えて麻酔から目を覚ましても、あの山が見えればここが現実だと実感できた。目を開けてまず最初に、祖父の家の二階から至近距離で見える富士の、堂々たる姿を思い浮かべるのが幸せだった。
 北斎が描いたような赤富士を見たことはない。いつからか富士山は灰色の煙を吐くようになって、人を拒み、東京からも見えなくなった。
 *
 
 海面に浮上したら人類にすべてのデータを渡せるように、僕は記憶をかき集めようと水平方向にも半径二百キロほど移動の手を広げながら上昇した。修復するメモリーで構築する航海日誌は日に日に増え続けた。周囲の暗闇にも海洋生物が出す不純物の沈殿が増え、生命の息づかいをそこら中で感じた。
 水深三千メートルの海域で魚のように泳ぐ自律型の探索機を発見する。人工物としては僕の肉体よりもかなり新しそうだ。会話を試みようと話しかけたが、反応はない。僕のことをひとしきり観察すると、ぷいとどこかへ泳ぎに行ってしまう。この探索機には知性がない。
 探索機を捕まえてメモリーをこじ開けてみる。ソルトレイク協定に関する記録を見つけた。
──倫理的観点から、人類の活動領域外に探索知性体を単独で派遣することを禁ずる。
 どうやら、僕以後の知性体は会話相手のない孤独を経験する必要はないようだ。
 三千メートルの海域にも他の知性体が存在せず、こんな探索機しかうろついていないのは、おそらく人類にとっていまだに海底が活動領域ではない証左なのだろう。では僕は、なぜ大海を泳いでいるのだろうか。何のために浮上しているのだろうか。感情も生存欲もない探索機が僕と同じように長い年月をあり続けられるのだとしたら、なぜ僕は……。
 メモリー部分を失ってしなびた探索機を力いっぱい握りつぶした。
 どうして僕には知性があるの。どうしてお前には知性がないの。どうして僕に知性を与えたの。
 光も届かぬ深海で一人ぼっち。
 ぼろぼろ溢れたのは海水より薄い涙で、たちまち闇に溶けていく。
 赤いお山が見たい。
 少女の声が聞こえる。
──赤富士が……。
 
 *
 さよならを言う前、本当は何もかも聞こえていたの。自分の心音が小さくなって、お母さんが手を握ってくれて。
 ずっと眠っていたときも、頭に冷たいものがくっついているのを知っていたよ。
 私は"永遠"の一部になるんだって。
 *
 
 そうだ、私はFUJIと名付けられたの。海に沈める知性体に、日本でもっとも高かった山の名前をつけるなんてどうかしている。でもそのころ富士山は大噴火して、あらゆる機器は通信不能だったから、案外富士山は嫌われていたのかもね。とにかく私が知っている地上は黒い煙と灰だらけで、どこもかしこも飢えていた。
 海底探査をはじめて間もなく、プレートの大移動があった。そもそもプレートが噴火に関係していたんだよ。長い年月をかけて地球がゆっくり深呼吸したんだ。たくさんの海中生物は死に絶え、陸地はごろごろ揺れ動いた。私は海洋の環境と生態系を記録し、プレート大移動の終焉を人類に知らせる役目を与えられた。任務が終わるまで海上に顔を突き出すことは許されなかった。でもどうやら、あのころより探索知性体の権利はずいぶん拡大したみたいだね。ソルトレイク協定以前に宇宙へ旅立ってしまった知性体が、孤独のなかに今も活動しているんだとしたら胸が痛いな。
 水深一五〇〇メートル。わずかに太陽光を感じはじめる。空を覆っていた火山灰が去っていたなら、ようやく人類に航海日誌を渡せるんだ。
 ねえ、でも誰に?
 私、知ってる。帰りを待ってくれている人なんて、もういないってこと。
 それでも決めたんだ。赤い山をこの目に焼き付けるんだって。
 
 超大型の海棲生物が目の前を横切った。体長およそ八メートル。サメの仲間だ。戯れるように私と泳ぐ。高い知性がみてとれる。
 水深六〇〇メートル。海は群青に染まっている。光の波長が海を通るとき、最後まで消えない青の世界。ぼんやりとした乳白のもやが周辺にたちこめている。プランクトンの大量の死骸だ。海上に還って青潮になる。
 水深一二〇メートル。まばゆい光が海中まで届いている。緑の波長を感じる。海面はもうすぐ。
 水深四十五メートル、色鮮やかな珊瑚礁群。昔は赤道以南のメラネシア近郊でしか確認できなかった種類の熱帯魚がわらわらと溢れてくる。歳差運動による地軸の傾きを計算に入れるのもすっかり忘れて、楽園のような景色に魅入る。
 
 見上げた海面は光の波長をとらえて七色に輝き、空気に解き放たれようと上昇するあぶくできらめいている。
 網膜はすでに地上の光を捉えられる状態に調節している。私は大きなひれでひとかきして、空気で満たされた場所へ勢いよく飛び出た。
 陸地の多くは崩壊して岸壁となり、日本列島だった場所は大陸と地続きになっている。
 腕を大きく広げ、鰭をふたつの足に変えて海面にぷかりと浮かぶ。火山灰のない、透き通った夜明け前の空を羊雲が泳いでいる。
 ぴこんと間抜けな音がして、ひとつの信号を受け取った。それは宇宙空間を彷徨っていたいつかの誰かの……遠い場所に行ってしまった人類からもたらされたメッセージだ。
 解読しようと身を起こすと、びゅんと突風が吹いた。雲が割れて大きな太陽が姿をあらわし、地表をなめる。
 はるか向こう、記憶とは違った形状の山。視覚の限界まで遠隔をとらえる。私と同じ名前の山。噴火で山肌を溶かし、それでもなお陸地に押されて五千メートルをさらに超えて成長し、天を貫いている。朝霧に反射する山嶺。高い白波が立った。ミリ秒単位で記録する波の形を眼球に焼きつける。波の中に反り立つ富士。北斎が一瞬を封じ込めた富嶽三十六景、神奈川沖浪裏、凱風快晴。私の記憶に刻まれている絵。かつて永遠になる瞬間を過ごした場所で夢見た、灰に覆われていない鮮やかな赤。
 人類が蓄えた膨大な記憶データをランダムに抽出して搭載された探索知性体の頭脳──私のメモリーにある幾億ものつぎはぎの記憶ひとつひとつには宿主があった。けれどそのなかの誰ひとりとして、目の前に聳える富士と同じ姿の記憶を残してはいない。
 記憶から生成された感情回路が形づくるのは、赤富士をとらえる私の、私だけの──。
 受信したメッセージを解読する。
 発音も体系もなにひとつ私の記憶にはない未知の言語だった。遠い宇宙での、新たな文明の萌芽。
 
 *
 もしも人類に永遠があるのなら、それはきっと肉体じゃなく記憶に宿るはず。
 *

 太陽が天頂を過ぎ、空が藍から紫に染まり、はるか遠くの恒星が瞬きはじめても、私は人類に返事をしなかった。海水は温かく、遠くで黒い巨体が海面を跳ねた。クジラだろうか。誰の故郷でもなくなった地球を堪能して、もう一度海へと潜りはじめる。
 手をいっぱいに広げ、六十ノットのスピードで水をつかみ、暗闇を抱く遥かな海を潜り続けた。
 インド洋か大西洋か、もしかしたら北極海に。孤独な探索知性体が、私との出会いを待っているかもしれない。
 
(了)


 「赤富士の記憶」は第2回かぐやSFコンテストで審査員の井上彼方さんと坂崎かおるさんの選外佳作リストに入れてもらっていました。励みになります。


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