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流れ論と人の縁

人の縁には、自分の努力で何とかなることと、何ともならないことがありますね。相手があると、自分の気持ちだけでは完結しない。
気持ちをすり合わせるところに至る前に切れてしまう関係もあります。とても悲しいのですが。
裏垢をしていると、どうしてもどこまで踏み込んでいいのか迷うときがあります。距離感を掴むのがなかなかに難しい。
自分の考え方、相手のスタンス、そしてタイミング。
良い塩梅で収まらないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
そういう時、人生にも人間関係にも「流れ」ってあるよなぁと思います。

麻雀と確率と流れと。

突然ですが、私、麻雀打つのが好きなんですよ。
普通にゲームとしてです、弱いので卓につけば間違いなくカモですのでね。

大学時代はよくサークル仲間と打ちました。
酷いときは授業の教室でメンバーが揃うと、そのまま抜け出して打ちに行くなど。レポートだったので落単は免れましたが、先生本当にごめんね。
実家通学だったくせに、たまにサークルで飲むときは徹夜で麻雀大会になったり。時には先輩宅で、時には同期宅で。
楽しい日々でした。

麻雀にはデジタル派(=確率論者)、オカルト派(=流れ論者)がいるんですけども。
まぁ、打っているとどちらも使うんですよ。考え方として。
大学時代に付き合っていたパートナーはほぼデジタル派だったと思うんですけど、配牌で一対子しかないのに一番最初のツモでいきなり「これは七対子の手!」とか言い出して宣言通り七対子を作って和了る、なんてことも目にしました。
さすがにこの時は周りで見ていたメンバー全員、動揺しましたね。

私はどちらかというと流れはあると考えているタイプです。確率を瞬時に計算する能力がなかっただけなので、流れ論者といえるほど傾倒もできないんですけどね。
ただ、いくら確率であり得る可能性を規定していったとしても、最終的に起こる事象は一つだけです。そして、どれだけ確率が低くても、起こり得るのであればそれは事象として起こります。
冬のあの日、サークル同期の家で8巡目四暗刻単騎をぶつけられたことは忘れない。あの衝撃だけは忘れない(戒め)。

人と縁と流れと。

で、人間関係についてもこの「流れ」ってあると思います。

お互いがお互いを強く想っていても、たまにボタンの掛け違いともいえる現象が起こって、最終的に仲たがいをしてしまう。
会おうとすれば、何かしらのイベントが起きて、リスケリスケのまたリスケ、なんてことも。
普段はこんなことないのに…なんて問題が起こることもありますよね。しかもある人との時だけ頻繁に。

そういう時、私はなんとなく「流れがないなぁ」、「縁がないなぁ」なんて思います。

縁がある方は強く求めなくても、どこに向かっても何をしても最終的に縁が繋がる。
逆に、強く求めても縁がないときは容赦なく切れてしまうし、何をしても繋がらない。
その時々のお互いの気持ち、タイミングやその他の要素が流れになる。

もちろん、 お互いの気持ちが向いていないと簡単に切れるけど、それはお互い様で、お互いに選択権を持っているから仕方がないのですが。
その辺りも含めて、「縁」であり、「流れ」かなと。

努力と修行と煩悶。

では何でもかんでも「縁」や「流れ」でまとめて身を任せてしまうのかといえば、私はそうしたくないです。
出来る範囲での努力は諦めたくないなと思います。
個人的に、運命論に身を任せるぐらいなら死ぬ方がマシと思っています。
誰かの手の上であっても、自分で納得いく選択をして生きた方が精神衛生上よいと思うからですね。

いろいろ自分を見つめたり考えていると、意外と忘れていることを思い出すこともあるんですよ。自分で「こうしよう!」と思っていたけど忘れていたこととか。
結構自分のキャパシティの低さを見つめることになるんで、なかなか心が痛くなるんですが。それもまた修行。

最近は自分の成育歴と発達に伴う課題について考えています。
難しく言ったけど、要は今自分が人間関係に悩む理由とその解決方法ってことです。
※おすすめ文献を最後に挙げておきますけど、人間関係に悩む人へオススメしたいところです。

私の場合は、自己開示、自己表現が非常に苦手です。
特に「対話」というものに苦手意識がある。
自分自身を受け入れてもらったという経験が薄いせいかと思います。
一般的に良いことであったとしても、経験がないと上手く反応を返せないものなんですね。
そのため、本心での対話はしようとするんですけど、言葉を適切に選ぶことが難しい。繕ってしまうこともありますし、相手を傷つけないか、重くならないかを考えてしまって言葉が出なくなってしまう。
言語化することは文章上ではここ2年ほど取り組んできたので、多少は出来るようになったかもしれませんが、まだ時間がかかります。
そのため、対面でキャッチボールするように対話をしようとすると、どうしてもラグが発生してしまって、上手くいく気がしない。
次やるべきことは人と対話することかなと思いますが、この歳になるとそういう話ができる仲間ってなかなかいねぇもんなぁ!!

こういうことは裏垢に持ち込むもんでもないかなと思いますが、人と向き合うとどうしても自分を見てしまうんですよね。
他者は鏡とはよく言ったものです。

出来ることを一つずつ。

一気にすべてを解決することは出来ませんし、自分の手の及ばないところもいっぱいあります。
しかし、自分のなりたい方へ一歩でも進めていれば、「流れ」が自分に向いた時にする後悔は少ないかなと思います。

意外にね、「やり切ったしダメだったとしても自分には及ばないことだったな!」っていう経験が自信になることってあるんですよ。
出来なくても自信になる。結果が出なくても、その過程が自信になる。
不思議なんですけどね、悔しい気持ちと清々しい気持ちの両方が残るんですよ。

あとは、やらずにいた後悔はずっと心に引っかかり続けるということ。
やってダメだった後悔より引きずるんですよね。
やっぱりそういうことは傷になるし、どこかで昇華してあげないといけなくなる時があります。だいたい二度手間。

いつでも、何が起こっても、受け取る気持ちを大切に。
そうすると「流れ」って向いてくるなと、私は思います。
配牌が悪くても誠実に打ってたらけっこう和了れるんだよね。
人生もそういうもの。

【おすすめ文献について】
岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々 』光文社新書 2011年
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岡田尊司『愛着アプローチ 医学モデルを超える新しい回復法』
                       角川選書 2018年
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岡田氏の文献は数が多いので、とりあえず図書館などで数冊手に取ってみて、特に手元に置いておきたい記述のある本を買うという方法がおすすめです。