見出し画像

人間関係の作り方?

実はそろそろ離婚成立から1周年です。私。
おめでとう、おめでとう。よくぞ生きていた私。

離婚が成立してから、制約もなくなったので恋人なりセフレなりを作るかと思い、はたと気づいたんですよね。
「知り合いって、どう作るんだっけ?」

もともと引っ込み思案で狭く深い人間関係で満足しているタイプで、気の合う友人とだけ繋がっていればそれでいいやという生き方をしてきました。
ついでに、割と10代最後の方からメンタルも安定せずに生きてきたうえに、結婚してから完全に崩壊してしまった影響から、人と関係を結ぶこと自体から長く遠ざかっていました。

閉じた一人だけの世界で、心を揺らさないようにしないと生きていけなかった。
今は多少マシですけど、それでもたまに世界がざらつくときがある。一度踏み越えた線を超えることは簡単にできてしまうので、また超えてしまわないようにと祈りながら。

子どものころは、学校というある意味強制的に人間関係を作る環境に置かれていたから、人間関係を作ることはそう難しくはなかったんですよね。
でも社会に出てから、新しく人間関係を作るって結構難しいなと。
何もないところから自分の興味関心を見つけて、自分でアプローチしていく。新しいもの、新しい人、新しいことに自分から触れに行く。
待っていても得るものは少ないと分かっているのですが、学生時代にそういうことをあまり経験してこなかったなぁと今になって思います。

「引っ込み思案」の理由

私の傾向として「重度の心配性」があります。
でもこれが不思議なんですけど、自分自身のことだけであれば大して心配性ではありません。自分が傷ついたりすることに頓着がないし、自分のことであればたいていのことは「まぁいいか」で終わっちゃう。

この心配性が発動するのは、「他者」に対してです。
「他者に迷惑をかけるかもしれないこと」にものすごい恐怖心があるように思います。自分が嫌われることに抵抗感はなくて、相手を傷つけるかもしれないことがこの上もない恐怖。
この感覚を心理分析してもらいたいと常々考えているんですけど、そういうところってないんですかね?

私が何か物事を考える場合、あらゆることを想定します。確率的に起こり得ることから、これはないでしょ!みたいなものまで、私の想像力の全部を使って想定します。
そうすると、現実で起こることは大体想定の範囲内に収まります。よって、人生にイレギュラーは起こらないので焦ることもありません。万事順調、オールグリーン。

「他者」は想定の範囲内に収まらないときがある。思想、思考、感情、いろんなものが合わさって、自分の想定外の反応が返ってくることがある。
それが面白いんですけれど、心に余裕がないと対応しきれなくなって迷惑をかけてしまうかもしれない。この事実すら、受け止める前にこころがすりつぶされてしまう。
そういった恐怖感があるのでしょう。

「想定の範囲内に収まらない」ということ

では「想定の範囲内に収まらない」ということはどういうことかというと、これはもう端的に「知らない」からに尽きると思います。

「知らない」って、これほど怖いことはないですよ。
だって先が読めないんですよ。想定するための材料がない。
「知らない」ことの恐怖感はここ数年のパンデミックでみんな嫌というほど感じたでしょ?

人間が持つ原初的な恐怖は「知らない、分からない」から出発しているんじゃないかなと思います。
「分からない」から、不安。
「知らない」から、心配。

「知らない」の乗り越え方

こういった人間同士の不安や心配を乗り越えるために、私たちは「対話」するんだろうなと思います。
「会話」ではなくて、「対話」。
これも関係性によって濃度の違いがあると思うんですけど、近くなればなるほど深い「対話」が必要になると思っています。

また、自分自身では「対話」するつもりがあっても、相手にそのつもりがなければ「対話」は成立しません。逆も然り。
これはタイミングもあって、そこが噛み合わないと関係性の深さを維持することは出来ないと感じています。そして深さを維持できなかった場合は浅いところに戻ることも難しい。
人間は感情の生き物なので、トライしてもエラーで元に戻れないこともあります。だからいつも真剣勝負で向き合わないと後悔することがある。
いつまでも、同じものがあると思うな関係性。元夫に言ってやりたい。

人間性は、「顔」

裏垢の関係性って、どことなく薄いよなぁと思います。
私自身がそうで反省しているところなんですけど、どうもインスタントに関係性を作ろうとしてしまうところがある。身体の深いところで繋がるくせに、人間関係としてはちょっと薄い。普段何をしていて、趣味が何で、どういう考え方をしていて、といったことが見えない。

人間としての「顔」が見えない。

匿名性を重視する関係なので個人情報はNGなのもわかるんですけど、そうであればなおのこと、人間性が重視されるはずです。
ただ、人間性は行動からある程度読み取るのだとすれば、普段の行動が見えない相手の人間性は読めないよね。という矛盾もあるのかなぁなんて。

そのアンバランスさを呑み込めない人は苦しくなってしまうのかなと思います。

当然、これは自分にも向く話であって、自分の人間性がきちんと相手に届いているのかどうかはいつも気になります。
自分の課題として「自己表現」があるんですけれど、何をどれぐらいの強さで伝えるといいのかにはまだ自信がありません。

ちゃんと伝わっているかは、人と対面しているのであればノンバーバルな部分から察することもできるんですけど、画面と相対している状況ではそれができない。
そして、文面は嘘を吐くことを、私は人生の経験で知っています。

HSPの気質らしいんですけど、こういう時は本当にしんどいんですよ。自分の勘というか、空気を読むという行動は、微妙な表情の変化や普段と違う動き、声のブレから読み取っていたんだなと痛感します。
そして、それはある程度積み上げた自身の経験と相手との関係性があるから意味を持つんだということも。
文面の行間から相手を読むということは、相手を知っていて初めて成立するんだなと思います。
意識して行間を深く読まないように心掛けてはいますが、それが簡単に出来たら悩んだり苦しくなったりしないよね。

伝えること、伝わること

自分を伝えることって、めちゃくちゃ大変だし面倒なんですよね。
よく自分の思っていることがテレパシーでまるっと伝われば楽だよなぁと思うことがあります。たまには楽もしたくなる。

でもいろいろと試行錯誤して、伝わった!と思った瞬間の感動というか、受容された感覚はこの上もない快感を呼びます。
セックスとはまた違う、こころの解放感。
あれねぇ、めちゃくちゃ癖になるから結構怖い部分もあるんですよね。中毒になりますよ。依存したくなる。
だから、人間はつながることを諦めないのかもしれないと思います。

人間関係を作るって、難しい。でも、楽しい。

裏垢でいろんな人に絡んでいただいて、その中で得たご縁もあります。
いつも皆さんありがとう。
もう一歩、深いご縁はまだちょっと怖いのかもしれないので、それはまた今度。もう一年、やっと一年。

どうぞ明日もよろしく。