誰の欲求? そもそも欲求とは?

人には欲求がある。欲求をもとに行動する。だけど、ときどき一見欲求とは思えない原理から行動してしまうことがあるように思える。自殺などの自己犠牲はその例だ。人間自分から死にたい人なんていないはずなのに、自分から命を絶つ人がいる。

本人はこれを望んでいないが、にも関わらず本人がこの行動を選んだのだ。脳がこの行動を選んだのだ。

脳が行動を決める最も原初的な要素を「欲求」と定義づけるとしたら、死にたいという欲求があったということになる。言葉では、「本人は死にたいなんて望んでいない」と言えるため誤認してしまいガチだが、死にたいという欲求は確実にあったのだ。死にたくないという欲求よりも死にたいという欲求が上回ったからこそ自殺という選択が起こる。

これは異常なのだろうか?

これを考えるうえで個人の利益と全体の利益を考えてみる。

人は個人の利益だけを追求するようにはできてない。他人の幸せも自分の幸せと感じられるシステムによって、他者の利益も優先し、結果的に全体の幸福量が上がるように作られている。

囚人のジレンマを知ってるだろうか。これは、個人の利益を追求したら、結果的に全体の利益が落ちてしまうという例だ。個人の欲求だけ追求しても結果的に不利益になるという事が起こり得るのだ。

じゃあ全体の利益だけ追求すればうまくいくのかというとそうではない。全体の利益を優先しようとする欲求が暴走した結果、個人の欲求が過小評価され、そんな人ばかりになると結果的に全体の利益の総量も落ちてしまう事がありうるのだ。

だから、常に人は個人を優先する欲求と、全体を優先する欲求のせめぎ合いの中に生きており、どちらかが暴走しすぎると良くない結果を生み出すのだ。

そういう意味で、夏目漱石の次の言葉は人間の本質を良く表していると思う。「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」。親切にしたいというのも自分の欲求なのだ。なので自分個人の欲求が過剰に侵害されない限りにおいて、全体の欲求を優先するように人はできているのだ。

じゃあ欲求って言葉に違和感を覚えないだろうか?欲求って「自分がしたいこと」という意味ならば、「自分がしたくないこと」というのも欲求にカウントされてしまう。

だから僕は誤認しないように定義を変える。欲求=行動原理と捉える。

この意味での欲求に従い続けたらどうなるのか?

幸せになる、これは本質的ではない。欲求通りに従う=幸せになるなので、因果関係というより、言い換えただけだろう。

結論は種として生き残り続けるだ!より優れた残り続けるというシステムを備えた種だけが生き残り続けている。残ろうとしないものは残らない、当たり前のことだろう。より残ろうとしたからこそ今もこうして残っているのだ。何故か人は残ろうとしているのだ。

慣性の法則と近いかもしれない。物体はそのままの状態を維持し続けたいという性質がある。その性質があるからこそ、今も物質が維持されている。

この仕組みを無視するようなシステムができたら、当然消滅していくだろう。そして人はよくこのシステムを無視する。そして無視してるかしてないかの判断はとっっても難しい。例えば今の社会は弱者に優しい世界だ。ある程度協力し合える関係づくりは大事だが、それが暴走して一部の人だけが搾取され続ける仕組みができているともいえる。それが悪とは、僕の一個人だけでは判断できない。分かるわけがない。だが自分の元に備わった欲求という行動原理から、ある程度推測することはできる。

以上から、何が言いたいかというと、欲求に従って生きたらどうだ?ということだ。確かに私たちの欲求システムには不備がある可能性はある。だが、現に私たちは今存在しているのだ。何億年とかけて培われた欲求システムによってここまで生き残り続けられたのだ。かなり信用できると思う。信用出来ないかもと思われるのは、「人を殺したい」などの欲求が出てきたらどうするのだ!というところかもしれない。だがほとんどの人はそんな欲求持ちえないし、持ったとしても正しくは自分の心に耳を傾けていたら、「殺したくない」(殺すべきではない)という欲求が勝る筈だ。そういうふうに基本人間はできていると思っている。誰かを助けたいというのも欲求だ。自分が困らない程度に助けてあげる。(自分が困るならちゃんと断る)。こんな人間の本質(欲求)に沿った生き方をしていけばいいのではないだろうか。


追記

今回はだいぶ人間の本質的なところまで足を突っ込んでしまいました。決まった正解がないので考えればキリがありません。ここら辺で一旦やめておきたいと思います。一旦思索をやめるために、そのけじめとしてこの記録をつけさせてもらいました。

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