無機質に恋を歌う-2

「君は、口から恋を直接届けてくるみたいだ」

ざわざわとした店内、なんの因果か、僕は一人の女の子と向かい合って座り、互いにジョッキを傾けていた。
僕のジョッキにはいつものビール。
彼女はハイボールを、本当に口に入っているんだかわからないような速度で舐めるように摂取していた。

「は?」

彼女は怪訝そうに僕を見る。
それはそうだ、僕も、自分が何を言ったのかよくわかっていない。
酔いが回ってきたという言い訳は通用しない。なにしろこれは1杯目なのだから。

彼女は駅前で歌っていた少女だ。
誰も足を止めることのない大都会の駅前。
誰にも見えない存在かのように、彼女は歌っていた。
どこにも、だれにも、届かなくても構わない。
そんな風にただ口からメロディを放出するだけ。
でもその声は、音は、僕の耳に届いた。素通りはできなかった。足が止まった。
不躾にも僕は彼女の目の前に足を止め、その姿に見入った。
彼女は何一つ気にしないというように、目も合わせることなく音を紡ぎ、想いを吐き出し続ける。
流れる人間の波。僕らを砂州のように取り残したままそれは流れ続けた。
やがて音が止まる。彼女が口を閉じる。
その時点になってようやく、彼女の瞳が僕を見た。
ようやく世界に戻ってきたというように、彼女は瞬きをひとつ。
(……よかった、人間だ)
僕は謎の安堵と共に彼女を見ていた。そんなのは当たり前なのに。
愛を歌う彼女の姿が、あまりにも、神秘的で。
見慣れた駅前が、知らない場所に見えた。
(どうかしてる)
そんな彼女と、僕はなぜか今、酒を飲んでいる。

「何かやってたの?」
「別に、歌うのが好きなだけ」
「プロ目指してるとか」
「考えたことない」
「曲も一人で?」
「浮かんでくるから」
ちびちびとハイボールを舐めながら、僕の質問に彼女はぽつぽつと答える。
実はこの時点で、僕が彼女について知っていることは「さちこ」という名前だけ。
それも本名かどうか怪しい。
ちなみに、僕も名乗ってはいない。彼女も聞いてこなかった。
歌い終わって立ち去った彼女を追いかけて声を掛け話したいと告げると、曖昧に頷いてくれた。
はたしてこの少女は成人しているのだろうか、見た目には微妙なラインだった。
場所として居酒屋を提案すると彼女は「大丈夫」と言う。彼女が大丈夫だと言うなら、大丈夫なのだろう。
そして場面は冒頭へ。

僕は彼女を―恋を歌う人―だと思った。
街にはラブソングが溢れる。けれど彼女の口からあふれるメロディは、言葉は、そんなものじゃなかった。
いや、歌詞だけを聞けばよくあるラブソング。それは僕だってわかってる。
けれどどうしてだろう、まるで心に直接投げ込まれたみたいに、恋情の中に心臓を浸されたみたいに、僕の全身は身動きが取れなくなってしまったんだ。
(彼女の恋に、囚われた)
そんな感覚に陥った。怖くて、でも心地良くて。
これで終わりにしたくはなかった。だからこんな彼女いない歴イコール年齢の僕が、一世一代の勇気を振り絞って、声をかけたのだ。
まさに僕は、彼女に溺れてしまっていた。

「いや、なんというか、普通の歌じゃないなって」
「普通の歌だよ」
彼女は目を伏せてジョッキを見る。
「私の歌なんてよくあるもの。なんの面白味もない、つまらない歌」
睫毛が震えた。
誰かにそう言われたことがあるのだろうか、彼女の言葉は、まるで台本をなぞるかのように無機的だった。
ならば、そのつまらない歌に囚われてしまった僕は、つまらない人間だということだろうか。
「っ……そんなこと…!」
なんて言っていいのかわからなかった。もちろん彼女の言葉を肯定することはできない。
できないが、明確な根拠をもって否定してあげることもできなかった。
なにしろ、僕に音楽の知識は皆無だ。恐らく色々な言葉を受けてきたであろう彼女の心を、僕のような素人の言葉が動かせるとは思えない。
けれどそんなの、あんまりじゃないか。
僕の心臓は彼女の歌に囚われた。それは紛れもない事実なんだ。この事実を、どんな言葉で伝えればいい。
「……久しぶりだった」
「え?」
「足を止めてもらったの」
彼女は瞳を上げて僕を見た。
その瞳は柔らかく、口角は上がっている。喜び。これはきっと、嘘じゃない。
「だって…届いたんだ。本当に、恋が直接、心臓に注ぎ込まれたみたいで」
「なに、それ」
ふふ、と彼女は口元に手を当てて笑う。
こんな風に笑うんだ。
彼女の声、しぐさ、すべてが愛おしかった。
彼女の口から吐き出された恋の言葉は、もしかしたら終着点を持っていたのかもしれない。
なのにその言葉はただ前を歩いていただけの僕の耳に入り込み、見事に心臓を撃ち抜いた。
(滑稽だな)
勝手に溺れただけ。勝手に、浸りに行っただけなんだ。
終着点が、あるのだろうか。

「ねえ、あの歌は、誰かに向けて作ったものなの?」
「どうして?」
「いや、すごく、……なんというか、素敵だったから」
言葉を探して、迷って、見つからず陳腐な単語になってしまった。
ああなんでこうなんだ、僕にもっと知識があれば。こんな言葉じゃ全然足りないのに。
「別に、誰かに向けてのものじゃない」
彼女はふいと横を向いた。何もない店の壁を、まるでその向こうに見たいものでもあるように、見つめる。
「浮かんだだけ」
これは嘘だと思った。
あの言葉たちは、明らかに誰かの元に飛んでいくはずだったんだ。
根拠なんてない。ないけれど、確実にそうだと思えた。
(僕で、ごめん)
僕は心の中で詫びた。そうする必要なんてないことはわかっていたけれど、なんとなく、罪悪感があった。
彼女の口から羽ばたいた恋の言葉たちは、一度は目的の場所にたどり着いたのだろうか。
そして報われることなく今も虚空を飛び続けているのだろうか。
その想いを、救うことはできないのだろうか。
(ああ、僕は、本当に)
目の前の彼女が、愛おしい。
(なにも)
本当になにも、知らないのに。


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