これまでのこと to これからのこと

認可保育園で働き始めて一年がそろそろ経ち

なぜ理学療法士だった僕が認可保育園で園長を目指したのか

という話をしたような、していないような気がする


また、最近clubhouseで新たな出会いも多くある中で、

必ず聞かれるキャリアの話


改めて自己紹介も兼ねて

なぜ理学療法士が認可保育園の園長になったのか、

そしてこれから僕は何がしたいのか

そんな話を久々にnoteに書いてみようとおもう。




20代前半は遊び場を作りたかった

はじめは、九州のとある田舎の県にある、重症心身障害児施設に勤務。

美味しいご飯とあったかい職場で

5年間がっつり小児の理学療法士として経験させてもらった。


当時、評価バッテリーを使って評価したり、論文翻訳して使ってみたりと頭の悪いなりに色々もがいて専門性を高めようとしていたけど

同時にもっと子どもたちに必要なもの(ハード)ってなんだろうって考えていて

その時の答えは

障害のあるなしに関わらず参加できる”遊び場”を作りたい

だった。


なんで”遊び場”なのかというと、

一緒に遊んだ経験があると差別は無くせるんじゃないのかという

根拠のない自信があって。


”知らないものは怖いもの”というのはあると思っていて

小さい頃から関わる機会がもっとあると、

本当にノーマライゼーションが達成できるんじゃないかと思ってた。

(これは今も思ってる)

ここが障害児保育園を作りたいという原体験の部分。


ちなみにこの頃に家族支援のベースとなる知識(情報)は入っていて

家族中心サービスの存在も知っていたけど

そこにはまだ目を向けれてなかったな。


20代後半は地域生活支援

20代後半は、療養介護事業所に転職。

療養介護とは、18歳以上の重症心身障害者の方が入院する病院機能と、日中活動などの福祉事業の両方を併せ持つ入所施設(障害福祉サービスの一つであり、医療保険の一般病棟等の診療報酬も請求する併用型の医療型施設)です。

ここは、医療型短期入所事業に凄く力を入れていて(多分受け入れ数は日本一だと思う)

当時は全然短期入所などしている施設も少なく、あっても使えない状態で

本当に地域に必要な受け皿がなかった。


ほぼ立ち上げの時期に転職して、まだまだ赤字状態であったから、

ほぼ理学療法というよりは

利用者家族のアセスメント取りにご自宅へ行ったり

短期入所の利用や、リハビリ等の営業したり

病棟の業務改善したり

短期入所の受け入れチームを立ち上げて、利用者満足度を上げるために翻弄したり

とリハビリ以外の仕事をメインでしてた気がする。


そんな中で、家族のニーズとか聞いていくと

決まって出てくるのは

”預け先がない”

だった。


この施設は基本18歳以上だったから、成人の方が多かったけど

いつしか、遊び場ではなく保育園が必要だなって思うようになったのと

子どものケアだけなく、家族のケアが必要だと思うようになったのも

この頃からだったと思う。


入所者や短期入所利用者が増え始めてからは、数じゃなく質を上げるために

療育、姿勢ケア、摂食嚥下チームを立ち上げて

チームで見ていくという取り組みをやったりしてた。


入所者の重症心身障害者の方達でダンスチームを作って、

行事で踊るのが恒例になり

福岡の伝統祭りの”どんたく”にも参加できるようになったな。


なんで入院(入所)したら同じ時間に、勝手に決められたご飯食べないといけないの?ってことで

近くの食堂にご飯を食べに行ってメニューを選んで、好きなスタッフとランチしたり

ビュッフェに行って好きなものを好きなだけ選ぶってことをしたり

選択するということを大事にしてた。


ただなんとなくよくなったねとか、よかったねなど

サービス提供者側の自己満足で終わらないように

毎月しっかり評価バッテリーで評価を行って、そのデータを元にしたカンファもしたり。

しっかりと根拠もって言えるように、効果判定だけはしっかりやってた。

だから、療育、姿勢ケア、摂食嚥下に関する知識はめちゃくちゃついたし、

自分が摂食嚥下の評価できるなんて思ってなかったけど少しはできるようになりました。


あとは、リハビリだけでなく

全てのケア(看護も介護もリハも)を、地域生活に繋げるために取り組んで

カンファレンスで医師もふまえてファシリテーターしながら、

なんのために治療(ケア)を行い、どんな治療(ケア)をするのかというのを3ヶ月単位(必要な時は1ヶ月スパン)で行って

病態の改善だけでなく、外泊や旅行だったりと計画したりしてました。

そのために医師に逆オーダーとかも出したりしてたな〜。

割と攻めてた療養介護事業所だったと思う。


ずっと叫び続けたのは、入所(入院)したからといって地域と関わらないんじゃなく、

施設が一つの家として、どんどん地域へ出て行こう!

そのために日頃の医療(介護)をやって行こう!

こんな感じで駆け抜けてた。


活動や参加が大事って小児ではよく言われるけど、それを本気でやりたくて頑張ったな〜と今になっても思う。


それと同時に、運営だけじゃなく経営分析もしていろんな提案してたから

最後の一年は、事務部長(代理)として、完全バックオフィスで仕事してました。


辞める2年ぐらい前に

いわゆる動ける医療的ケア児と呼ばれる子どもたちのお母さんが

駆け込みできて、預かれないかと直談判が始まったことから


収益的に赤字だけど、空いてるベッドで受け入れようということで日中一時支援事業を始めた。

そして、ぞろぞろと行き場のなかったご家族たちが集まってきて、小さな保育園状態に。


そこから地域の保育園で動ける医療的ケア児を預かるというモデル事業を自治体が始め、みんな卒園して行き始めた。

そんな中、これから数年かけて民間の保育園にも通えるようにしていくという自治体の計画があることを知り

(この頃は市内で1つの公立保育所のみで、その後2〜3つの公立保育所まで広がった)

なら、医療的ケアのこと知っている人間いた方が利用しやすいよね

っていう今思えば安直なんだけど

いつしか夢は障害児保育園を作りたいとなっていたので

ちゃんと一度認可保育園のことを知ろうと思って転職した。

これがこれまでのこと。



これからのことは




長くなったので、また次のnoteに書くとしよう。



これが僕の自己紹介。

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