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Guardian書評

ゼミの課題です。

The Guardianというイギリスのメディアの記事を、読んで、日本語で要約して、書評します。

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要約
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書評
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【6/20】
Far-right violence a ‘significant’ threat to German democracy, minister warns


6/18:極右による暴力がドイツの民主主義を「重篤に」脅かしていると大臣が警告

要約

ナンシー・ファザー国務大臣は、極右による暴力、イスラム過激主義、ロシアおよび中国からのサイバー攻撃が増加していて、ドイツの民主主義を危険に晒していると述べた。これは統計に根ざした主張で、統計によると、思想に根ざした過激派による犯罪の件数が大きく増加し、特に極右勢力による犯罪が25%増加したとしている。統計の責任者は「新右翼」の台頭を強調する。また、ロシア、中国およびイランによる破壊工作も深刻化しており、国内外のあらゆる脅威に対して断固として立ち向かわなければならないとファザー大臣は語る。極右勢力AfDは、先の欧州議会選挙で16%の支持率を獲得し、東ドイツ圏における世論調査によれば最大勢力となっている。

書評

最近の欧州情勢、ひいては世界情勢をみていると、「政治の季節」の再来も近いのではないかという気がしてならない。誰もが日常生活を送るなかで、イデオロギーとは無関係でいられない世の中が、すぐにでも到来するような、そんな気がする。


【6/13】
Macron urges French parties to unite against far-right National Rally


6/12:極右に対抗するため連帯せよ マクロン、各政党に呼びかけ

要約

欧州議会における極右の躍進を受けて電撃的に下院の解散を決定したのち、マクロン大統領は、フランスのすべての政党に対し、極右と「敗北主義」に抵抗するべく、同盟を組むべきだと呼びかけた。「2027年(の大統領選挙)における主導権を極右に渡すつもりはない。だからこそ私は、説明責任を求める大きな動きに喜んで応じたのだ」と彼は語る。また、国民は極右を政権の座につけることは無いだろうと信じているのだという。しかし、先に行われた欧州議会選挙では、極右勢力「国民集会」が、マクロン氏率いる中道連合のおよそ2倍の票を獲得している。伝統的右派政党である共和党は、国民集会と協力すると表明した。マクロン氏は「人々が、自らの意見が存在を尊重されていないと感じている。そうしたメッセージを汲み取ることが大事だ」と述べ、実際に、国民の日常生活に即した政策を強調して打ち出し、選挙戦にあたっては大胆に議論を展開する構えであるという。

書評

1955年に革命勢力から政権与党の座を守るために自由民主党が誕生したのと似た印象を受けた。フランスの政治情勢に明るくないから、マクロンの試みが成功するのかどうかはジャッジできない。しかし、やっていることは55年体制と似ているかもしれないが、晒されている政治的情勢はむしろイギリスの今の保守党が置かれている状況に似ているようにも感じる。この際、右か左かなど瑣末なことであって、本質は、既存の政権であるか、そうではないかであると思う。2回生のころ、大学のカリキュラムで、極右について多少なりとも調べていたが、フランスの極右政党はそもそも労働者層を糾合し、左派的な労働組合の動員から引き剥がして成長してきた節がある。つまり、イギリスにおける労働党の果たすような役割を、フランスでは今後、極右が果たす、というような、妙な状況になっているように感じた。


ちょっとばかし地政学的に妙ちきりんな占いをするなら、1955年に日本で左翼勢力に対抗して中道保守が連帯したのと、今、フランスで右翼勢力に対抗して中道リベラルが連帯しようというのとは、「ハートランドに震源地をもつ革命的勢力の波がリムランドに到来し、リムランドの在地勢力が団結する」という点で構図が全く同じだと言えそうだ。……そう考えると、さしたる革命勢力も伸長せず順当に労働党が政権を取りそうな情勢のイギリスの異様さが際立つ。こういうのを栄光ある孤立というのなら、納得かもしれない。

【5/30】
Vatican issues apology over Pope Francis’s ‘homophobic’ slur


5/28:ヴァチカン、フランシス教皇の「同性愛嫌悪」的発言について謝罪

要約

神学校に同性愛者を入学させるかどうかについて司教らと協議した際、フランシス教皇は同性愛嫌悪的な発言をした。これについて、中傷する意図は無かったとしてヴァチカンは謝罪した。協議は密室で行われていたが新聞等で報道され、ヴァチカンの報道官は「報道によって不快感を覚えた方」への謝罪であるとしている。フランシス教皇は神学校に進学した同性愛者は「二重生活」を送る可能性があるとして反対の立場を示し、そのなかで問題の発言があったという。その場に居合わせたある司教は、フランシス教皇がアルゼンチン出身であるが故に、その発言に同性愛嫌悪的な意味合いがあることを十分に認識できておらず、冗談での発言であったのではないかと推測している。教会は、LGBTQ+の婚姻を洗礼するなど、融和策をとってはいるものの、教条上、同性愛が淫らなものであるという立場は崩していない。教皇の「私が裁く立場にありましょうか」という発言はあまりにも有名だ。

書評

この記事に書かれているような経緯を把握しないままでの議論は一様に無意味だと思う。着目するべき問題点あるいは論点は、フランシス教皇その人に関するものと、カトリック教会の体制そのものに関するものの2つに今回分けられる。そもそも差別というのは構造がもたらし個人が構造によって差別「させられる」ものであって、いわゆる差別の問題は個人の問題ではないというのが私の立場だが、今回、その「ある司教」が指摘するように、教皇が「冗談」のつもりでその発言をしたのであれば、それは差別の問題ではなく、単純に、教皇の品性の問題だ。そして、差別という構造に着目するならそれはやはりカトリック教会の体制そのものの問題というふうに議論のレイヤーを上げなければならない、ということになる。この2つの論点は並立していてどちらかがどちらかを打ち消すことはないのだが、日本語の(SNSの)言論空間では、後者の議論が行われるのであろうと(被害妄想的に)想定して前者を打ち消すような流れになっていて残念である。


そもそもカトリック教会は、児童、特に男児に対する性的虐待がずいぶん社会問題になっていたという印象が強く、今回の騒動の背景にはこのこともあるのではないかというふうに思わないでもない。「二重生活」とはそういうことであって、こうしたスキャンダルと同性愛そのものが、カトリック中枢の認識の中では結びついてしまっているのではないか、と考えると、なんともせんない。どんな形であれ、こうした構造の力学によって踏みつけられてしまうのは、いつだってある種のマイノリティであって、換言すれば、マジョリティは、構造の力学によって、踏みつけることを「強いられている」とさえ言えるのではないか。

【5/23】
Ebrahim Raisi’s death pushes Iranian election process into spotlight


5/20:ライシ氏の死によってイランの選挙の成り行きに注目が集まる

要約

ライシ大統領の死により、大統領選挙を実施しなければならなくなった。今、残された政権は選択を迫られている。これまでイランにおける選挙は、監督者評議会によって恣意的に狭められてきた。今回もきっとそうする。しかしちょうど先月、この手続きの是非について議論の俎上に上がったばかりなのである。というのも、ロウハニ前大統領が、自らの立候補を阻まれたのをきっかけに公に激烈な討論を展開しているのだ。彼は、監督者評議会の行いは参政意識の減退につながると主張している。いま、彼の主張は支持を受けるだろう。しかしそれが実を結ぶ公算は低い。

書評

動機が権力闘争であっても、それによって民主化の議論が進むのは良いことで、そういう力学が常に働き続けるからこそ人類の政治体系はだんだんと民主的になっていったのだろうなと思う。しかし、そのように選挙が迫るなかで政権が切羽詰まったとき、何かをまかり間違ってイスラエルをスケープゴートにするようなことになり(イスラエルを支持するというわけでは断じてないが)、結果として中東戦争に繋がったりしないかが心配だ。ともあれ、言論による合法的な紛争が選挙のさいに行われるのは基本的にはいいことだから、たとえ実を結ばないにしても趨勢に期待したい。その方が、日本の安全保障上も長いスパンではいい結果につながるだろう。



【5/16】
Three men accused of aiding Hong Kong intelligence service appear in London court


5/13:香港の諜報機関に与した疑いの3名、ロンドンの裁判所に出廷する

要約

香港の諜報機関に与し外国の干渉に関わった疑いで3人の男が逮捕された。テロ対策司令部が捜査の指揮をとっている。彼らはすでに保釈され、定期的な出頭と行動制限をかけられている状態だ。この3名は、もともと逮捕されていた11名のうち、起訴されずに釈放されたそのほかを除いた3名だ。捜査の指揮を取るマーフィー長官は「捜査は続いているし、起訴も済んだから、これ以上騒ぎ立てないでほしい」と述べている。

書評

実は僕がレミゼの曲にハマったきっかけは香港の民主化(ほんとうは「反国家主義化圧力闘争」とでもいうべきだろうが)なので、もちろん僕は香港の独立的な、換言すれば「抗大陸的」な態度を支持していた。しかし同時に、実際、イギリスの諜報や謀略の拠点に香港がなってきたのもそれはそれで事実だろうと思うから、この記事は、なんというか「やり返された」のが明るみに出たのかなと感じる。


【5/2】
Number of writers jailed in China exceeds 100 for first time, says report


訳:中国で投獄された記者の数が初めて100を超えた

要約

中国で投獄された記者の数が100を超えたと、ペン・アメリカがレポートした。このうち半数近くがオンラインでの表現活動によるものである。自由な表現のために収監されているものの人数は世界で339人以上と想定されているが、中国はおよそその三分の一を占めることになる。ペン・アメリカの研究ディレクターであるジェームズ・テイカーによると、彼らは弁護士をつけてもらえるとも限らないという。また、投獄されている人のみならず、検閲を受けている人や、処罰を求めて自主検閲している人も含めると、表現の自由を奪われている人数はもっと多いという。特に、新疆と香港の作家・記者への弾圧が著しい。今回の投獄人数の増加は、2020年に香港で制定された国家安全保障法が後押しした形だ。

書評

人数に関しては、そもそも中国の人口は世界人口のおよそ22%を占めているからそこまで驚くべきことでもないだろうと思った。注目するべきなのは、香港の惨状だろうと思う。あれほど激しい抵抗運動があったにもかかわらず、抵抗むなしくコロナ禍を契機に本土にとりこまれて数年が経ったが、ここにきて、その惨事を可視化しているのがこのレポートの数字なのではないか。


そもそも人とは表現をする生物だ、というのが僕の考えなので、こういうのを見るたびに暗澹たる気持ちになりますね。中国が民主化される日は来るんでしょうか。あと、私情を挟むと、コロナ禍直前の香港の運動にはかなりシンパシーがあって、僕がレ・ミゼラブルの劇中歌「民衆の歌」を知ったのも、この運動で象徴的に歌われていたからなので、その後の惨事をみると、強者どもが夢のあと、というか、そんなふうに思います。

【4/25】
Liu Cixin: ‘I’m often asked – there’s science fiction in China?’


訳:劉慈欣「中国にもSFってあるの? と、よく聞かれます」
※記事自体は3月28日のもの

要約

中国人作家劉慈欣のSF「三体」の勢いは目覚ましい。しかしたった10年前まで、その名を知るイギリス人は少なかった。

サイン会が実施された際、書店には多くの読者が駆けつけたが、彼らは中国人留学生だった。劉は、中国国内において、さながらロックスターであった。

「しかし今、この小説が英語圏でも大流行したことは、出版社も、私さえ予想だにしなかったことです」と劉は語る。さらに彼は、その流行の理由について納得する答えを見つけられていないという。「私が思うに、三体の成功の理由は、これが中国発の小説であるということよりは、これが人類を“全体で”取り扱っていることにあるのでしょう」彼の小説は中国でテレビドラマ化され、流行していた。しかし、Netflixが劉に配信の話を持ちかけたとき、莫大なグローバル視聴者層に作品を届ける機会に劉は喜んだのである。

だが、米国内では反発もあった。彼のウイグルに関する当局寄りの発言を問題視した共和党上院議員らが、Netflixに圧力をかけた。劉は「作家は政治的発言について自由であるべきだ」という。

では、彼が「三体」の新規視聴者らに求めるのは何か? 劉は「大いなる不確実性に人類が面しているのを実感すること」という。つまりそれは、宇宙人との邂逅のことを指している。

書評

三体はもともと好きな作品で、同時に、その根底にある男女観(儒教的でパターナリズムが潜んでいると私は感じる)であるとかの政治的な危うさについても、多少なりとも考えてきたつもりだった。この記事の中にあるウイグルに関する発言についても知っていた。しかし、彼がNetflixとのやりとりをポジティブに受け止めていることは少し意外だった。Netflixの今回の映像化は、彼の原作にあった政治的危うさを見事なまでに洗浄した、原作改変の極地のようなものであって、彼の思想にはもしや合わないのではないかとさえ思っていたからだ。それをせず、ただ、グローバルな視聴者層に届くことを喜ぶ彼の全球的な感覚は、確かに、それをしてこそあの作品を産んだのだろうと納得させるものがある。


三体、終盤に差し掛かると、日本文化こじらせオタクという気質が丸見えになってくるのが原作の特徴だと思うんですけど、これネトフリ版ではどうなるんでしょうね。

これ以外にもこの週はちょっと面白い記事ばかりでした。生成AIでポルノを作成した男がその種のテクノロジーの使用を禁止される判決が出たり、トランプと名のつく建物の住民が改名運動を起こしたり。「大いなる不確実性」って感じ。

【4/11】
Japanese leader asks US to overcome ‘self-doubt’ about global leadership


訳:国際的リーダーシップに関する「自己疑念」を克服せよと日本のリーダーは合衆国に問う

要約

日本の総理大臣、岸田文雄は、分断されていた合衆国議会において、「自己欺瞞を克服せよ」とアメリカ人に問いかけた。中国のきょういい警鐘を鳴らしつつ、岸田は「世界における自らの役割について、アメリカ人が自己疑念に苛まれているのを理解する」と述べた。そして「合衆国なしに、ウクライナは侵攻にこれほど耐えられたか」「合衆国なしに、インド太平洋地域はどれほどこの苛烈な現実に向き合えるだろうか」と問いかけた。合衆国の内政に干渉しないよう細心の注意を払いつつ、議会の抱える行き詰まりの中央を岸田は狙い撃った。それは、トランプに代表されるような共和党最右派からくる、ウクライナ支援に対するプレッシャーについてである。岸田のスピーチは、記録すべき稀な、党派を超えた議会の連帯を呼び起こした。スタンディングオベーションは繰り返された。また、彼は幼少期にニューヨークで暮らしていた頃の体験についても語っている。

書評

元の記事はほとんどスピーチの内容を引っ張っているような記事なので、先週のものと比べてそこまで面白いところはない。面白いと思ったこととしては、岸田首相のスピーチが「議会を超党派で連帯させた」という側面を、日本の報道と比べてより強調している点である。やはりイギリスのメディアは、日本のメディアと比べて、アメリカの政治情勢に敏感で解像度が高いのかと思った。この点、確かにこのスピーチの特筆すべき功績だと思うのに、日本のメディアで取り上げられていないところは残念だと思う。いっぽう、この日米の連帯をこれでもかと強調する姿勢そのものの是非について問うような考察が展開されていないところも特筆するべきだろうと思う。特に日本以上に、イギリスは、アメリカが戦争をすれば巻き込まれる、という安全保障環境がシビアな国家である。そのことを考えると、「日本、そんなことまで言っちゃっていいの……?」というような指摘がひとことふたことあってもいいのかなと思わないでもないが、そこに関しては、英連邦中心の世界観の範疇外らしい。


僕はパラグラフリーディングの信奉者なので、段落の頭の1、2センテンスごとに翻訳して一旦全体を読み下すというのをやるんですが、この記事に関しては性質上それがなかなか難しくて、頭からお尻まで自力で精読しました。つらかったです。

【4/8】
The big idea: do our political opponents really hate us?


訳:【そもそも】政治的対決は本当に憎悪を伴うのか?

要約

しばしば言葉通りの意味で、政局とは殴り合いである。リベラル派と保守派が互いを忌み嫌う様は、なにも米国のみにみられるものではない。しかし、これらの憎悪感情は、本当にその見てくれほどにも強いものだろうか?

実際には、憎まれているかのように感じられる、つまり、「メタ認知」が卑屈なのだ。私たちは、好かれたと思えば好きになり、嫌われたと思えば嫌いになる。メタ認知をさえ正すことができれば、この負の連鎖は断ち切れるはずだ。

それが明らかにもかかわらず、私たちが過ちを繰り返すのは何故か。

ひとつには、私たちの政治過程が、選挙というパイの奪い合いでることがある。また、私たちが意見の異なる者のことを無礼者だと考えたがる傾向にあることも挙げられよう。さらに、なべて政策とは犠牲を伴うから、痛みを伴う対峙者の姿勢が悪魔的に見えることもままある。かつて、我々の子孫は捕食者というよりは獲物だった。そのため、強者となった今でも強烈な警戒心を振り解けていない。なるほど、マサチューセッツのひとびとが、政治的サインを火にかけたのもさもありなん。つまりは、怖かったのだ。

この警戒心を振り解くことにこそ、解決の糸口がある。どうかあなたが次に政敵と話す際には、打ち負かすためよりも、わかりあうためにこそ努力してほしい。

書評


本当に、本当にその通り。普段から感じていることを、するどく代弁してくれる記事と出会ったという感がある。

しばしば「きれいごと」として捨てられるような政治的スタンスである「話せばわかる」を、根拠をもちいて論理的にまとめ、ひとつの無視できない論評たらしめていることが、評価すべき点として大きい。

あえてひとつ低評価をするとしたら、アリーナ型の政治過程が憎しみの連鎖の原因のひとつであるというのは共感できる見方だが、そこに対する言及が「実は政治は建設的な者のはずだと自覚せよ」で終わってしまっている点を考えたい。これはつまり、構造的矛盾を指摘せず、参加者たちの「自覚のなさ」に責任を求めている。

この記事の総括としても言えることだが、読者個人に対して、心がけや、会話の姿勢といった、個人的努力を求めることに終始している。たとえばこの部分では、政治過程がアリーナ型であるのに実際には政治は建設である、という現代の構造の矛盾を指摘できるはずで、そこにさえ踏み込めば、全体的な「説教くささ」を抑えることができただろうと思う。

今まさに猜疑連鎖のさ中にいるひとに対して、それはお前の責任だからお前がまず改めろ、と言っても、どうしてそんなリソースを私が割かなければならない、となり、響かない。この記事は、一部の「もうわかっているひと」だけが共感し、頷き、すでにそうした「わかりあう」ためのリソースを支払っているひとがさらに支払うようになるだけだ。その意味で、独善性のある記事だというふうに、重箱の隅をつつくような低評価は、できないことはない。


「猜疑連鎖」、劉慈欣のSF「三体」に登場する概念のなかで一番好きなんですよね。ネトフリ版「三体」をこのまえ一気見したんですけど、なんというか、完全にイギリス映画になってませんかあれ。すごく政治的にアップデートされてて、改悪というよりは改良(あれは原作があまりよくないと認めざるを得ない描写がいくつかあるから)というべきで、僕は好きだけど、劉慈欣本人はどう思ってるんだろうなあ。

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