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シャルダン『食前の祈り』の謎

ジャン・シメオン・シャルダン(Jean-Simeon Chardin、 1699-1779)は、フラゴナールやブーシェ、ヴァトーといったロココ絵画全盛期に、静物画や一般庶民の慎ましやかな生活ぶりを描いた異色の画家として知られる。

ルーブル版の謎

2018年5月、私はルーブル美術館シュリー翼にあるシャルダンの油彩画「食前の祈り, Saying Grace (Le Benedicte)」を眺めていた。この絵画は、母親が幼い娘二人、とくにまだ幼い妹の方に「お食事の前にはちゃんとお祈りをするのよ!」と諭しており、「そうよ、そうよ」とばかりに姉らしき女の子は妹を睨みつけているような、そんな微笑ましい家族の情景が描かれている。

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ところが、この作品は二点あって並べて展示してある。小さな説明プレートを見ると、私にはまったく両者の区別がつかないが一点は1740年のサロン出品作、もう一点はそのレプリカとある。サロン出品作を気に入った当時の貴族か政治家が、シャルダンに依頼してもう一点描いてもらったのであろうか。誰が?いつ?

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エルミタージュ版の謎

それから1年後の2019年5月、私はサンクトペテルスブルグのエルミタージュ美術館を訪れた。私は少々驚いた。ここにもシャルダンの「食前の祈り」があるではないか!しかも、作品の左下隅に、Chardinという署名と、赤で1835という年号が書かれている。美術館のウェッブサイトによれば、署名と年号が書き込まれているのはこの作品だけなので、画家はこの作品に最も思い入れが強かったのだろうと解説している。ただ、この画家は1779年に没しているので、1835年の記入は画家本人によるものとは考えにくい。1835は何を意味するのであろうか?謎である。もう一つの謎は、ルーブル版では見られない、取っ手の長い鍋か柄杓のようなものが床に転がっていることである。それによって画家は何を意図したのであろうか。

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ちなみにこの作品の製作年は1744年とされ、1763~1770年ごろエカテリーナ女帝のコレクションに加えられたと記載されている。おそらく、この作品も当初はどこかの王族へのギフトであったものが、最後はロシアに流れ着いたのかも知れない。

全部で5バージョンある「食前の祈り」

エルミタージュのウエッブサイトにはストックホルム版もあると書かれていたので、ネット上で調べてみた。そうすると、確かにストックホルムのスウェーデン国立美術館とオランダ・ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館にもシャルダンの「食前の祈り」が所蔵されていることがわかった。

以下に、シャルダンの『食前の祈り』、全5バージョンのイメージと比較を示す。すべて各美術館のウエッブサイトから入手したものである。

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スウェーデン版の謎

ストックホルムには2012年8月に訪れたが、予定日にスウェーデン国立美術館は閉館日であったのでこの絵画を見る機会を逸してしまった。この美術館のウエッブサイトによれば、1749年に当時の国王フレドリク一世が入手し、シャルダンの工房作と記載されている。イメージで見る限り、ルーブル版とそっくりであり、署名もない。入手時期からしても、当時の国王の所望でシャルダンの弟子たちが描いたものかも知れない。

ボイマンス版の謎

ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館には2013年10月に行ったことがある。ただ、この美術館は絵画の写真撮影禁止であったし、私の当時の関心がブリューゲルの「バベルの塔」にあったので、シャルダンの「食前の祈り」に関する記憶も記録もない。しかし、美術館のウエッブサイトを見て驚いた。この作品では、横幅が28 cmほど追加され、左側に一人の少年が何かトレーのようなものを持って佇んでいる。我々には左手の様子が視野に入ったわけだけど、その分、この少年は誰?、一体何をしているの?といった謎も増えてしまった。

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上は美術館のウエッブサイトからダウンロードにしたイメージ

製作年は1761年とおそらく最も遅く、1958年にヴァン・ベーニンゲンが入手している。200年近くどこの誰が所有していたのだろう?

絵画の謎

絵画自体の謎といえば、左側のまだ幼い子供、素直に見れば女の子であるが、実は男の子という説も多いようだ。当時のヨーロッパでは女子に比べると男子の方が幼児死亡率が高かったため、親たちは男の子には女の子の服装を着せて健康を願ったという。確かに、ルノワールの作品にも、一見かわいい女の子に見えるが、実際は男の子という描写が数多く見られる。

もともと西洋絵画には関心が薄かったが、中野京子氏の本を10冊以上読んだおかげで、美術館巡りが楽しくなった。

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