見出し画像

2.大場さんの足のゆび

・かんどう

大場さんと駅で落ち合った後、車で友人の会社JON72へ行き、ソリについて具体的な打ち合わせをした。大場さんの考えでは、ノルウェーから買ったソリにもう一つ軽いソリを作り、普段は重ねておき、開氷面に出会った時に双胴船のようにして使いたいというものだった。
鈴木社長は大場さんの話しを聞き、他の仕事が忙しいなか、ソリの製作を無償で引き受けてくれた。その上、大場さんの講演会を企画して資金を集める事にも協力してくれる事になった。鈴木社長とは同じ飛行機仲間であるが、打てば響くようなこの反応に嬉しくなると共に、頼りになる仲間というのを再認識させられた。

大場さんと鈴木社長と私との三人の会話の中で大場さんが言った。

「志賀さん“かんどう”って知っていますか? 私、17年前に家から勘当されてしまったんですが、家に二度と入れないというのを最近知ったのです。」「親子の間に勘当なんて無いですよね。親子の縁は一生切れるものじゃないですよね。」これを聞いて「大場さんは言葉は知らないが、人と人との気持ちのわかる人なのだな」と思った。

こうして大場さんと私の行き来が始まった。


・ 大場さんは変わってますね!


画像1

小名浜の海で「ソリ」の浮力試験をしている様子

1996年10月下旬、JON72に依頼していたソリが完成し、大場さんとソリの試乗をする事になった。心配だったのは、ソリを2台並べて浮かべて、大場さんの体重プラス150kgの荷物を積んで海水の上でうまく動かせるかどうかだった。その為、私の地元いわき市の小名浜港で試乗をする事にした。東京在住の私の友人、土谷さん(写真家)夫婦も手伝いにきてくれた。

鈴木社長が企画した大場さんの講演会の後、磯原にある温泉に一泊してのんびり話しをした。大場さんの指がなくなった足を初めて見た。土谷さんは「写真を撮らせてもらっていいですか?」と聞いたりしていた。

私が大場さんに「大場さんは変わっていますね、3回失敗してもよくやりますね」というと、
「志賀さんほどじゃないよ!テレビを見て電話をして来て、応援しますと言ってきた人はいませんよ」と言われた。

これを聞いて、私はテレビを見たたくさんの人が大場さんに気持ちを動かされていると思っていたので、逆に「本当ですか?電話なかったのですか?」と聞き直した。

こんなやりとりをしながら、私にできる事があったらと、いろいろ
北極海横断に必要なものを知りたくなって行くのを感じていた。

画像2

うぐいす谷温泉にて土谷さん・大場さんと共に

・「2週間北極へ来てくれませんか?」

1996年11月上旬頃、そりの海上テストをして2週間位たった日の夕方、私の携帯電話に大場さんから電話が入った。

大場 「志賀さん、北極点での食料と燃料の補給に来てもらえませんか?」

志賀 「えっ!いつ頃ですか?」

大場 「今度の計画では4月20日前後に北極点到着を予定しています。一回だけ補給受けますので2週間位前に北極のベースキャンプに入ってもらえればいいのですが。」

志賀 「2週間でいいのですか?でも北極といったら寒いでしょう。私経験ありませんよ。寒い所で着るものもありませんし。」

大場 「大丈夫です。私用意して送りますから。良い経験になりますよ。」

志賀 「誰か他に頼む人いないのですか?」

大場 「暇な人やアルバイトやいろいろな人いますが、この荷物が届かないと私の生死にかかわりますから、自分が納得いく人に頼みたいと思っています。」

 こう言われて頼りにされると、私は引き受けてしまうような人間だった。引き受けるのは良いが、何もわからない事が不安だった。補給品は大場さんが準備して、私が北極で着る衣類と共に会社へ送って来る事となったが、いつ、どのような合図で北極まで行くのかは、この時全く分かっていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?