「危なかった」釣り体験記 3

 十月の伊豆半島・石廊崎。伊豆の十月はまだ暑さが漂っている。気温は夏日を越えることもよくある。
 その日も暑い静かなナギの一日だった。海水温も高い。この時期、沖では上物狙いが良いのである。
 
 ゴムボートを積み込んだ古いライトバンが石廊崎付近の漁港に停車した。足踏みポンプでゴムボートに空気を送り込むのだが、長時間ではないにしろ、原始的でやり切れない作業だ。10分程度でパンパンに膨らんだ。
 例の東京湾での一件以来、リーダーはゴムボートについての知識を詳しく学んだらしく、夏場の暑いときは空気圧を少な目にして、気温の上昇と共に高くなる空気圧でゴムボートかパンクする危険を避けるのだという。バルブから少しエア抜きをして空気圧調整は終わった。
 水際からボートを出す時にも幾つか注意することがある。まず引きずらない事、底に穴が空くからで、沖へ出てから水かきに専念しなければならない羽目に陥ることになるかも知れないから。
 そして積み荷は最小限度に、しかし必要なものは忘れることなく確実に積み込む事。いったん沖へ出てからは引き返すことが出来ないのだ。
 ボートの容量規格に五人乗り・六人乗りと書かれていても実際に身動きが取れる程度に乗り込めるのは半分の二人か三人までで、荷物のスペースなどを考えに入れると、それぐらいが限度である。
 以外に重要なのは出港する場所の選択だ。安全なのは漁港やボート乗り場の港内、内湾の波のないところだ。私たちは場所の選択を誤ったために大きな損害をこうむったことがあった。

 夏の終わりの頃、熱海周辺の砂浜から三人でゴムボートで出港しようとした時のことである。
 狙いの沖のポイントに近いことから、波の穏やかな砂浜からボートを出すことにしたのだが、天気もよく波の高さもせいぜい三十センチ位しかない。
「この程度なら…」
 と誰ともなく大丈夫だろう、と結論付けて荷物を積み込み、ボートの前に二人。後ろから私がゴムボートを押しながら、体が腰の辺りまで波に浸かった辺りで、まず前の二人がゴムボートに乗り込んだ。
 最後に後ろの私がボートの縁に足を掛けた途端、百回に一度来るというサーファー好みの大波を受けたゴムボートはもろくも「カパッ」と転覆したのだ。
 前の二人は転覆と同時にゴムボートから離れたが、後ろの私はひっくり返ったボートの中で前後左右も分からないまま、海中で必死にもがいていた。
 二・三十秒もしてから海坊主のように海面に顔を出した私を見て、他人事のようにゲラゲラ笑っている彼らをひどく冷たい人間だと思った。しかし危機を脱した安堵感から
「ワッハッハー」
と笑ったが、付近の人たちのさげすみと好奇に満ちた視線を感じて実は大いに恥ずかしかった。
 三人に更なる悲劇が起こっていた。
 積み込んだ全ての荷物が海に沈み、波に持ち去られてしまった。釣竿などの大きな道具は拾い上げたものの、コツコツと買い揃えた高価な仕掛け類は再び浮き上がることなく全て波に持ち去られてしまった。
 ああ何という事、無知の恐ろしさよ。この大きな代償は大自然の摂理を甘く勘定したことに対してのしっぺ返しだったのだ。
 浜に戻った私たちは着替えも持たず、タオルで体を拭いた後、その日の釣りはあきらめ、濡れた体のまま潮の匂いをプンプンさせながら、近くの食堂で飯を食い家路を急いだ。しかし懲りない私たちはその後も数々の失敗を重ね続けた。

 リーダーがとてつもない大物を掛けた状況へ戻ります。
 ゴムボートは必要な荷物の一切を積み込んで外洋を目指した。海が荒れたりするときは、こんな一馬力の小さなエンジンなどは波を被って止まってしまうことも多い。
 今日は天気が良く風もない。エンジンは快調、ゴムボートは沖を目指した。
 今日はルアーを流して上物のシイラやサバ・ブリ・ヒラマサ等を狙うのだという。魚の形をした疑似餌を糸に結んで流すといった割りと単純な釣り方である。
 だいたい生きたエサも付けずにルアーでダマして釣るといった魚を馬鹿にしたような釣りに、初心者だった私は
 「果たしてこんなものに魚が食い付くだろうか」
 大いに不満でさらに不安も感じた。
 とにもかくにもゴムボートは仕掛けの付いた二本の釣竿を引きながら、陸地から五キロメートルほど沖を走り続ける。船舶法の規定から四級小型船舶の航行可能な距離は岸から五キロメートル沖に定められている。
 暑い日の釣りは日焼けもすれば喉も渇く、お腹も空く。帽子や飲料品なども装備の必需品となる。

 彼の説明によれば、外洋を泳ぐ上物は走るボートのスクリューの回転で生じる水泡に身を隠して小魚等を狙う。また海面を漂う流れ藻や流木などにも上物が身を潜めていて、獲物を狙っているのだと言う。果たしてどうだろうか、それまで一緒に彼と釣行してきたのだが、ウツボやハモ・アナゴなどの長物は別にして、三十センチクラスのアイナメ・クロダイすら釣り上げたことがない。 
 特にウツボは釣り師たちの嫌われ者で、それはウナギを平たく潰したような形状をしていて、一メートルクラスのものもよく釣れるのだが、どう猛な顔つきは釣人を身震いさせるのに十分だ。海中の穴場に潜んでいて、エサが近寄るのをじっと待っている。イシダイの外道としてよく釣れる。
 ある釣りの解説書には
「ウツボが釣れたら仕掛けを切り、トンカチで頭をつぶして海中に投げ捨てなさい」
 と書いてあった。
 何も外道だからと言って、ご丁寧に殺して海に捨てろ、とまで説明する必要はないと思うのだが。関東ではそれほどな嫌われ者なのに対して、関西では干物などにされ、高級魚として扱われている。場所によって、ずいぶん釣魚の評価に差があるようだ。

 最近はリーダーの話には眉につばを付けて聞くような癖が付いてきた私である。そうこうして二~三十分経って彼が私の竿に何か掛かっていると言う。
 ゴムボートを走らせている状態では、私には魚が掛かっているかなど分からなかったのだが、信頼しきれない(?)彼の言われるままにどんどんリールを巻いた。道糸は二十号。たいがいの大物にも切られることがない。
 巻き続けて十メートル手前までゴムボートに魚が近づいた時、それがシイラであることか分かった。
 シイラは磯や防波堤からはあまり釣れることがない。しかし最近は投げ釣りでも掛かるらしい。頭の大きなアジのような魚だ。
 釣りたては体色が若草色で腹部が黄色。魚体全体にラメをまぶしたようにキラキラ光るやたらとキレイな魚である。
 六十センチの輝くシイラがゴムボートの中でバタついている。空にこぶしを突き上げ
「やった、やったー!」
 と私は何度も叫んだ。
 何せ初めてルアーで釣り上げることの出来た魚なので喜びが大きかった。
 後で聞いたことだが、このシイラもトローリングではよく掛かる外道のようなもので、熟達者はあまり喜ばないらしい。しかしハワイでは
「マヒマヒ」
 と呼ばれる高級魚の仲間なのである。
 
 例え外道にしろ、私の方に魚が先に掛かったのである。リーダーは私の海釣りの師匠でもある。彼も俄然気合いが入ってきたようだ。
 それから再びゴムボートを走らせた。しばらくアタリがない。彼が仕掛けを変えた。
「今度は俺の番だ」
 と言わんばかりに…
 それまでに比べて大き目のルアーをくくり付けて道糸を出した。かなり長く出した。五百メートル巻きのリールの三分の二ほども道糸が出ていく。
 それから間もなく
「きた!」
 と彼が叫んだ。
 カジキでも上げることの出来そうな太い剛健な竿がしなる。
 エンジンの出力を全開にしてもゴムボートがリールを巻くごとに引かれていく。魚がゴムボートを引っ張っているのだ。
 確かにとてつもない大物が掛かっている。茶化す言葉も見当たらない。彼の邪魔にならぬように自分の仕掛けを巻き上げて、彼と大物とのやり取りを息をのんで見守った。
 ヤツはまだ海面へ姿を現さない。恐らくよほどパワーのあるヤツなのだ。
 ひょっとしてカジキ? そんな想像が私の頭の中を駆け巡った。

 時折り彼は吹き出す汗をシャツの袖で拭いながら、目を細めてある種恍惚とした表情を見せている。
 今まで彼をリーダーとして活動してきた同好会のこれまでのほとんど無に近い釣果の連続。それでも一人五千円の会費を調達して、ほぼ毎週往復四百キロを釣行してきたのだ。ボウズ続きで他の会員たちにけなされながらも、彼は彼なりに四級小型船舶の免許を取り、仕掛けの研究、釣りに関わる図鑑などの書物を買い集めたり、暇があれば釣具店やキャンプ用品売場で用具の品定めをしていたのだった。
 今の彼の表情にはそうした、地道な苦労の結果が結ばれるんだという深い喜びが滲み出しているように思えた。

 待てよ だがおかしい。既にもう十分ほど休みながらではあるがリールを巻き続けているのに、魚のジャンプがない。
 更におかしいのは、ゴムボートの動きがやたらと規則的ではないか。
 沖の水平線が見えてきたと思っているうちに、少しすると今度は漁港などの海岸が見えてくる。そしてまた水平線… 更に少しずつその周期が短くなって来ているように感じる。
 彼にそのことを告げると
「うーん何だろう、ちょっと変かな」
 と言いながら、今はただ巻き上げるしかない状況だ。景色の変化が早くなって来た。道糸は残り五十メートルぐらいで巻き上がる。
 賢明な方にはある程度判断が付いているのではないだろうか、実はゴムボートは走りながら、ある一点を中心に回転していたのだ。全く動かない「地球」を釣り上げていた。
 残り二十メートルまで巻き上げた時、この辺りは遠浅の砂地で四・五メートルも水深はあったろうか、綺麗な青い海面が見えた。   
 釣糸の下の動かない黒い物体。恐らくは漁船から外れたのだろう大きなイカリがその正体だった。

 彼の欲目が裏目に出たのだ。大物狙いのために途中から大きい仕掛けに付け替えた。更に道糸を長く出しすぎたために重いルアーが砂地の底を這ったのだ。しかも岸から五キロメートル沖に出た割には水深が浅く、地球を釣るための好条件揃った。
 悲しいことに、この一件で彼は更にリーダーとしての信用を失った。
 それにしても、
あのリールを巻きながらシャツの汗を腕で拭い、恍惚の浸る表情を見せていた彼。
 あの姿は一体何だったのだろうか。
「アホッ」と言ってしまえばそれまでなのだが…   続く

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