「危なかった」釣り体験記 2

 夏も近いながらも梅雨寒のどんより曇った空模様のある日、千葉県の富津から出たゴムボートは一海保へ向かった。
 一海保はその昔、戦争のためにコンクリートブロックを埋めて作られた人口の島である。何基もの砲台跡が沖を向いて配置されている。
 長い歳月の間、風雨にさらされて黒ずんで崩れかかってはいるものの、ここは戦争当時のまま時が止まっている。
 半径二・三十メートルの小さな人口島に五十人以上の釣り人がひしめくように竿を振っていた。東京はどこへ行っても釣り人がいる。
 それは仕方のないことだが、しかしアイナメもメバルもこない。釣れない場所をあきらめ、新しい釣り場を求めて再びゴムボートに乗り込んだ。
 その頃まではまだ、対岸の観音崎へ上陸しよう等という意識は二人とも持っていなかった。
 沖へ向かい、二十メートル程の深場へイカリ(イカリとはいえ、単に漬物石にヒモをくくっただけの代物である)を降ろして、全くアタリすら無いまま小一時間も過ぎたろうか、対岸に見える白い灯台を頂いた観音崎の周辺がひどく魅力的な釣り場に思えてきたのだ。
 実際、観音崎は都心から近い三浦半島から突き出した緑の濃い磯場で観光客も多い。

 リーダーと私の心は対岸へグイッと引かれた。
「あのへんはどうたろう」
と私が切り出した。
 彼もまんざらではなさそうで
「釣れそうだなー」
と一言。それから
「でも、船が多いなぁ」
 彼の言葉通りで、ここは天下の東京湾。タンカーや大型客船・漁船がひっきりなしに往来している。
 私たちは千葉県側から神奈川県へ横断するつもりらしいのである。
 他人事みたいだが、二~三分毎に往来している大型船の列へ向かっていくのは、第二次世界大戦末期の玉砕覚悟の魚雷艇ではないか。
 私たちはまるで高速道路をゆくトレーラーやダンプカーを目前にしている気分で、少し心が振動した。しかしタイミングさえうまく測ればなんとか乗り切れるのではないだろうか。リーダーは経験が浅いとはいえ、四級小型船舶の免許をもった一馬力のエンジンを搭載したこのゴムボートの船長なのである。
 
 彼と私は決断した。一馬力のエンジンを全開にして湾の中心へと向かった。はるか右前方に小さく船の姿が見えてはいるが、このまま走らせれば何とか交わせそうに思えた。
 しかし東京湾の中心に近づくに連れて、小さく見えていた船体が見る見るうちに膨れ上がってきた。「さるびあ丸」と書かれた船の名称もはっきり読み取れる。一馬力のゴムボートと相手の船とのスピードの差は十倍か、それ以上の差があった筈だ。
 引き返すタイミングは今を置いてない。しかしリーダーも私もその意思を示すことなく「一馬力」に身を任せた。

「さるびあ丸」は東京の竹芝桟橋を出航する客船。さすがに「タイタニック号」には劣るが全長およそ100メートル。立派な船体をした大型客船だ。
 ゴムボートとの距離が詰まるに連れて「さるびあ丸」が間断なく大きな警笛を鳴らす。三十五階建てのビルを横倒しにしたような船体が一・五メートルに満たない小さなゴムボートに迫る。
 客船とゴムボートが交差したとき、お互いの距離は十メートルもあっただろうか。
 ふたりはただ大きな「さるびあ丸」の船体を見上げた。
 その間、漫然として意識がない。
 衝突は免れた。
 安堵の思いに浸る間も無く、大きな揺り返しの波がボートに襲いかかった。上下左右に揺さぶられながら、行き場のない小さなゴムボートの中で振り落とされてなるものかと手足を突っ張ってしのいだ。
 やっとその大波もおさまってピンチを脱したときは何かを話すより、ただ「ヘッヘッヘッ」「ホッホッホッ」と笑った。意味などなくただ笑った。

 肝心の釣りのほうはさっぱりだった。その頃のリーダーは川釣りはともかく海釣りの経験は浅く、対象魚・仕掛け・エサなどに関する知識が少なくて、釣りに出掛けた回数の割りには私たちの釣果はイマイチだった。
 その時どのようにして富津側へ引き返したかを覚えていない。単に前より慎重に大型船を交わすタイミングを計ったのだろう。
 以後、当然同じことはしなかった。しかしこのような無謀な釣行はその後も度々あった。

 十月の伊豆半島、石廊崎…つづく。

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