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『ジーザス・クライスト・スーパースター』はいかにBLか

アンドリュー・ロイド・ウェバーが我々をStay homeさせる試みとして名作ミュージカルを毎週末限定で公開してくれているのですが、そこで初めて『ジーザス・クライスト・スーパースター(アリーナ・ツアー版/英語字幕)』を見てからと言うもの、永遠にジーザス・クライスト・スーパースターのサントラを聞き続けており頭がどうかしてきたので、原作(聖書)を読み直しつつ、副読本として太宰治の「駆込み訴え」にも目配せしつつ、イエスのお父さんって? マグダラのマリアとはどういう関係? ユダとは三角関係だったの? イエスとユダについて調べてみました! 死ぬほど長いです。頭がどうかしているので。

【ジーザス・クライスト・スーパースターとは?】

ティム・ライスが作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲を担当した、ロックミュージカルです。初演は1971年のブロードウェイ。
新約聖書の四福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)のイエスの物語をベースにしていますが、その中でもイエスを裏切って殺した大悪党とされているユダに焦点を起き、なぜ彼はイエスを裏切るようなことをしたのか? 彼はどんな思いだったのか? というところがメインのストーリーになっています。
原作(聖書)の二次創作であり「やおい」ですね。つまり……BのLなんですね。(※怒られそう)私が冒頭で取り乱していたのはこのためです。正確に言うとBのLではないと思いますが、私の「BL」の射程としては、「恋愛」関係がなくとも男と男の友情、信頼、憧憬、羨望、嫉妬、恐怖、失望、嫌悪、、、あらゆる感情を内包する関係性が含まれるので、そういう意味ではユダとイエスの間にはそれらが全部あるんですよね、(ほとんどユダの側からのものですが…)それを見ていきたいと思います。

まずは本題に入る前に、キリスト教について一般的にどの程度知られてるものなのか全然わからないので、前段としてジーザスの生い立ちについて軽く紹介しておきます。知ってる人は飛ばしてください。

◆ジーザスの生い立ちについて

ジーザス・クライストことキリスト教の救い主としてお馴染みのイエス・キリストは、ベツレヘムで貧しい大工の息子として生まれました。
実はイエスのお母さん(聖母マリア)は正式に結婚する前にすでに妊娠していることが発覚して、お父さん(ヨセフ)は初夜も迎える前に妊娠してるなんてやべえ女だと思って離縁しようと思ったのですが、天使が訪れて「その子は聖霊によって身籠ったのであり、いずれ民を救うからイエスと名付けて迎え入れなさい」と言うので仕方なくその通りにします。
そしてイエスは大工の息子としてすくすく育ちますが、ある日川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けると突然天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえ、白い鳩が降り立ち、実はイエスは神の子だった!ということが発覚します。
そして荒野で修行を積み、いよいよ神の子として伝道活動を始めます、その時イエス30歳。第二新卒とも言えないぐらいの遅いスタートですね。人生30歳からでも宗教の教祖になれる!この事実はいつも私を励ましてくれます。
さて宣教を始めるとイエスは十二使徒と言われる弟子を12人選び、弟子を引き連れて宣教してまわります。説教がうまいだけでなく、各地で病気の人を治したり、飢えた人をパンと魚を増やしてお腹いっぱいにしたり、所謂「奇跡」をたくさん起こしたのもあって民衆は熱狂し、イエスを「救い主」と崇め讃える人がどんどん増えていくのでした…。と、いうのがジーザス・クライスト・スーパースターの前段となるストーリーです。

◆セットリスト

まずはあらすじを兼ねてセットリストを記載しておきます。曲名、簡単な説明、明確に参照できる聖書の箇所がある場合は()内に。四福音書は同じ出来事を書いてる場合もあるし、特定の福音書にしかない記述があったり、相互に矛盾したりしていますがここでは「マタイによる福音書」をメインに取り上げ、マタイによる福音書に記述がない場合、他の福音書を参照することにしています。

■Act 1
・Overture    オープニング
・Heaven On Their Minds
 ユダ「イエスが人気すぎて取り巻きが凄いし、国に潰されないか心配…」
・What's the Buzz? / Strange Thing Mystifying
 弟子たち / マグダラのマリアとの関係を諌めるユダと逆ギレするイエス
・Everything is Alright  
 マグダラのマリア、イエスを慰める(ベタニアで香油を注がれる:マタイによる福音書26:6-13)
・This Jesus Must Die 
 司祭、大司教たちがイエスの殺害を目論む(イエスを殺す計略:マタイによる福音書26:1-5)
・Hosanna 
 イエスを救世主と讃える民衆(エルサレムに迎えられる:マタイによる福音書21:1-11)
・Simon Zealotes / Poor Jerusalem 
 熱心党のシモン / それ見て嘆くイエス
・Pilate's Dream ポンティオ・ピラトの予知夢
・The Temple 
 神殿でやってる市場を破壊するイエス(神殿から商人を追い出す:マタイによる福音書21:12-17)
・I Don't Know How to Love Him マグダラのマリア 、イエスへの愛を歌う
・Damned for All Time / Blood Money 
 「駆け込み訴え」(ユダ、裏切りを企てる:マタイによる福音書26:14-16)

■Act 2
・The Last Supper 
 最後の晩餐(過越の食事をする:マタイによる福音書26:17-30)
・Gethsemane (I Only Want To Say) 
 イエス、神に祈る(ゲッセマネで祈る:マタイによる福音書26:36-46)
・The Arrest 
 裏切りと逮捕(裏切られ、逮捕される:マタイによる福音書26:47-56)
・Peter's Denial 
 ペトロの否認(ペトロ、イエスを知らないという:マタイによる福音書26:69-75)
・Pilate And Christ 
 ピラトと対面(ピラトから尋問される:ルカによる福音書23:1-5)
・King Herod's Song (Try It And See) 
 ヘロデにおちょくられる(ヘロデから尋問される:ルカによる福音書23:6-12)
・Could We Start Again Please?  マグダラのマリアや弟子たちが後悔する
・Judas' Death  
 ユダの自殺(ユダ、自殺する:マタイによる福音書27:3-10)
・Trial Before Pilate 
 死刑判決を受ける(ピラトから尋問されるー死刑の判決を受ける:マタイによる福音書27:11-26)
・Superstar  ゴルゴダの丘を登るイエスと、ユダの歌
・The Crucifixion 
 十字架で絶命するイエス(イエスの死:マタイによる福音書27:45-56)
・John Nineteen: Forty-One  エンディング(ヨハネによる福音書19:41)

【曲解説】

セリフなし・すべて曲で構成されたガチミュージカルなので、イエスとユダの関係性を見ていくために主要な部分(わたしがグッときた部分)の歌詞を抜粋して実際に見ていきたいと思います。映画版2種類、ミュージカルのアリーナ・ツアーと3種類日本語字幕を見ましたが、やはり字幕だと字数の制限があったりするからか非常に省略されていたり、なんかちょっとニュアンス違う気がするな…とモヤモヤしたので自分で和訳することにしました。わたしが去年から特に目的もなく英語を勉強していたのは、すべて『ジーザス・クライスト・スーパースター』をより深く理解するためだったんだな…と神の導きに感謝しながら訳しました。それではどうぞ。

◆Heaven On Their Minds

Act1はAct2(ユダの裏切りとイエスの死)へ向かう前奏として、なぜユダがイエスを密告するに至ったのかを説明するために聖書に基づかないオリジナルな場面・曲が多めです。
ジーザス・クライスト・スーパースターの創作ポイントとしては、
①早すぎた名声に、自分でも状況をコントロールできなくなった(やや)頼りない指導者としてのイエス
②その状況を理解し、民衆の過度な期待と国からの圧力によってイエスに危害が及ぶのを心配しているユダ
というように二人を解釈し、その関係性を描いていきます。
そのため、オープニング後1番最初の歌はまず②の立場としてのユダの心境を吐露するものになっています。

(前略)
JUDAS
Listen Jesus I don't like what I see.
聞いてくれジーザス、俺は今のこの状況が気に入らない
All I ask is that you listen to me.
お願いだから俺の話を聞いてほしい
And remember, I've been your right hand man all along.
そして思い出してほしい、俺はいつだってあんたの右腕だっただろう?
You have set them all on fire.
あんたが彼ら全員を焚きつけたんだ
They think they've found the new Messiah.
彼らは新しい「救世主」を見つけたと思ってる
And they'll hurt you when they find they're wrong.
もし間違いだったと思ったら、彼らはあんたを痛めつけるぞ
I remember when this whole thing began.
俺は1番最初の頃のことを覚えてる
No talk of God then, we called you a man.
誰も神だなんて言ってなかったし、俺たちにとってあなたはただの人だった
And believe me, my admiration for you hasn't died.
信じてほしい、あなたへの尊敬は消えちゃいないんだ
But every word you say today
だけど今のあんたが言う言葉は全て
Gets twisted 'round some other way.
おかしな方向にねじ曲がって伝わってる
And they'll hurt you if they think you've lied.
もしあんたが嘘をついていたと思ったら、彼らはあんたを痛めつけるぞ
(後略)

というように、ユダはあまりにも高まった民衆からの人気を見て、当時ローマ帝国の支配下にあったイスラエルはイエスを危険分子と見て処分するのでは?と心配しつつ、それに加えて、もしやイエス自身も自分が本当に神の子だなんて思い込んで、鼻高々でいい気になっているんではないか?というイエスへの不信感もあらわにしています。実際、このユダの心配がほとんど的中していく様子をAct1では描いていきます。

ユダ以外の弟子たちは「いつエルサレムに乗り込むんですか??」とノリノリで(What's the Buzz?)、イエスは弟子たちは何もわかってない…と嘆きながらマグダラのマリアに慰めてもらうものの、ユダは「あなたともあろう人がなぜ娼婦とつるんでいるんだ? 今はちょっとした評判が命取りになるんだからもっと慎重になって」と諭すもののイエスは逆ギレ。そして高い香油を惜しみなく使うマリアにもユダは「もったいない!そのお金があれば貧しい人に施しができるのに!」と注意するがこれにもイエスは逆ギレ。(Strange Thing Mystifying→Everything is Alright)、その傍らイスラエルの司教たちは民衆が熱狂しているイエスに危機感を覚え、殺害計画を練り(This Jesus Must Die)、イエスはついにエルサレムに熱狂とともに迎えられ(Hosanna)、熱心党という愛国主義の極右団体みたいなとこに属してる弟子のシモンはイエスの人気を利用してローマ帝国への反乱を唆そうとしたり(Simon Zealotes)、イエスは神殿でやってるマーケットに突然ブチ切れて破壊して市民や弟子もドン引きさせたり・イエスの奇跡で病を治してもらおうと寄ってくる民衆を蹴散らしたり(The Temple)、徐々にイエスの行動も破れかぶれになり、途方に暮れているのではないかと思われる場面が続きます。そして遂にユダは、イエスの殺害を目論んでいる司教たちにイエスを引き渡すことを決意するわけです。(Damned for All Time)

◆Damned for All Time / Blood Money

Act1のクライマックス、ユダの密告です。太宰治の「駈込み訴え」で描かれた場面もまさにここですね。申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。とは言うものの、「駆込み訴え」のユダよりはずっと冷静で、本当にしぶしぶ、このままあの熱狂が続いて・イエス自身も破れかぶれになって・破滅的な事態を呼び起こすのであれば、そうなる前にイエスを引き渡した方がいいのではないか?というような、本当に微かな希望に縋って密告しているようにも思えます。ユダは「これを自分がやらなくてはいけない」という使命を自覚しているものの、イエスがこれによって殺されてしまうことまで予見できていたのかについては微妙なところで、おそらくこの時点ではそこまで考えが及んでいなかったんじゃないかと思われる。ちなみに「駆込み訴え」では最後の晩餐の様子のことも含めて訴えているので、ちょっと時系列的にはおかしいんですよね。聖書の記述的にも密告→最後の晩餐→ゲッセマネ→逮捕なので。

(前略)
JUDAS
I came because I had to; I'm the one who saw.
俺がやらなきゃいけないから来たんだ、俺しか分かっていないから
Jesus can't control it like he did before.
ジーザスはもう昔みたいに上手くやれなくなってる
And furthermore I know that Jesus thinks so too.
それに彼自身もそう思ってる、って俺はわかってる
Jesus wouldn't mind that I was here with you.
ジーザスも俺がここにきたことを咎めないはずだ
I have no thought at all about my own reward.
密告の報酬なんて全くいらない
I really didn't come here of my own accord.
本当に来たくて来たわけじゃないんだ
Just don't say I'm ... damned for all time.
だから…  地獄に落ちるなんて言わないでくれ

Annas, you're a friend, a worldly man and wise.
アンナス、世慣れた賢い友よ
Caiaphas, my friend, I know you sympathise.
カヤパ、あんたも同情してくれるだろ
Why are we the prophets?   Why am I the one?
なんで俺らは預言者なんだ? なんで俺なんだ?
Who see the sad solution - know what must be done?
他に誰がこの悲しい解決策を知ってる? 何が為されなくてはならないか
I have no thought at all about my own reward.
自分の見返りなんて何にも考えちゃいない
I really didn't come here of my own accord.
本当に来たくて来たわけじゃないんだ
Just don't say I'm damned for all time.
だから言わないでくれ、俺が永遠に呪われるだなんて
(後略)

実際の聖書では、かなりあっさりとした記述になっている。

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
 マタイによる福音書26:14-16 新共同訳

まぁ誰もユダが密告しに行った場面に同席はしていないでしょうから、まぁ多分この辺りでこんな流れで密告してたんだろうな、という想像なのではないかと思われる。ルカによる福音書では、ユダに「サタンが入った」と説明されていますが、果たしてどうでしょうかね。


◆The Last Supper

そしていわゆる最後の晩餐、過越の食事の時にいきなり「この中の一人がわたしを裏切る」とイエスがはっきりと言い出す。(※イエスはいつも”はっきり言っておく”タイプの人なので)当然ディナーは台無しとなり、十二使徒はそれぞれ「それは自分のことか」と代わる代わる言い出し場は騒然となるが、その中の一人は勿論それが誰のことなのか心得ている。

「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
イエスを裏切ろうとしていたユダが口を挟んで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ」
 マタイによる福音書 26.23-25 新共同訳

「生まれなかった方がよかった」ってイエス性格きっつ。酷い言い様だけどマルコによる福音書にも全く同じ台詞があるので信憑性は高い可能性がある。まぁマタイとマルコって大体において同じこと書いてるんですけどね…。ルカによる福音書では「その者は不幸だ」という表現にとどまっていて、ヨハネによる福音書ではイエスは弟子たちの足を洗いながら「皆が清いわけじゃないんだよね…」とかボソボソ嫌味を言っており、その後のディナー時に「はーいそれでは今からわたしがパンをあげる人が裏切り者で〜す」とか言いながらユダにパンを手渡し、そこでサタンがユダに乗り移ったと説明している。そしてユダは自分の使命を果たすために出て行くんだけど、他の使徒たちはクソバカなのでこんなにイエスが分かりやすく匂わせてるのに全然わかってなくて(えーユダ、財布持ってたけど祭りに必要なもの買いに行ったのかなあ、それか貧乏人に施しかなあ)とか思っててアホかと。人の子の話を聞け。ちなみに今回読み比べてわかったけどヨハネによる福音書が1番スピってて説教が長くてウザい。ちなみに「駆込み訴え」ではイエスが足を洗いながら嫌味を言い、パンをユダに食べさせていることからヨハネによる福音書を下敷きにしていると思われる。

それではジーザス・クライスト・スーパースターの最後の晩餐はどうかというと、十二使徒のクソバカぶりはそのままに(あ〜〜ワインうまい、最高、今までの苦労が溶けていきますねえ。将来福音書を書いて後世に名を残しちゃお…とか言ってる)、イエスとユダが直接言い争い、聖書よりも熱い二人の関係性を描いています。

(前略)
JESUS
The end...is just a little harder, when brought about by friends.
終わりは少し辛いものになる、それが友によってもたらされた時
For all you care, this wine could be my blood.
心に留めておきなさい、このワインは私の血となり
For all you care, this bread could be my body.
このパンは私の身体となる
The end! This is my blood you drink.
お前たちが飲むこのワインは私の血だ
This is my body you eat.
食べるパンは私の身体だ
If you would remember me when you eat and drink.
これから先また口にする時には私のことを思い出すだろう…
I must be mad thinking I'll be remembered.
私は気でも狂ったか?  お前達が「私を思い出す」だなんて
Yes, I must be out of my head.
そうだ、頭がおかしくなってしまったんだ
Look at your blank faces.
この間抜けな顔たちを見ろ
My name will mean nothing
私の名など何の意味もなくなる
Ten minutes after I'm dead.
私が死んだ10分も後には
One of you denies me.
お前たちの一人が私を否定し
One of you betrays me.
お前たちの一人が私を裏切る
(中略)
One of you here dining,
食事を共にするこの中のうちの一人が、
One of my twelve chosen will leave to betray me.
選ばれし12人のうちの一人がわたしを裏切る

JUDAS
Cut the dramatics! You know very well who.
お芝居はよせよ! それが誰かよく知ってるくせに

JESUS
Why don't you go do it?
なぜ行かないんだ?

JUDAS
You want me to do it!
あんたは俺にそれをして欲しいんだな!

JESUS
Hurry, they are waiting.
早く、奴らが待ってるぞ

JUDAS
If you knew why I do it
あんたが分かってくれたら

JESUS
I don't care why you do it!
理由なんかどうでもいい!

JUDAS
To think I admired you.
あなたに敬服していたのに
Well now I despise you.
今じゃ軽蔑だ

JESUS
You liar. You Judas.
この嘘つき、ユダめ!(金切り声)

JUDAS
You want me to do it!
本当に俺にやって欲しいんだな
What if I just stayed here
それかここに残って
And ruined your ambition.
あんたの望みを台無しにしたらどうする
Christ you deserve it.
クライスト、あんたにはそれがふさわしい

JESUS
Hurry, you fool. Hurry and go.
急げ、愚か者 早く行ってしまえ
Save me your speeches,
お前の演説なんて聞きたくもないし
I don't want to know. Go!
知りたくもない。行け!
(中略)
~~~
JUDAS
You sad, pathetic man, see where you've brought us to,
あんたは哀れな男だ、俺たちをどこに連れてきたか見てみろ
Our ideals die around us and all because of you.
俺たちの理想が死んでしまったのは全部あんたのせいだ
But the saddest cut of all:
だけどその中でも1番悲しいのは
Someone has to turn you in.
誰かがあんたを引き渡さなきゃいけないってことだ
Like a common criminal, like a wounded animal.
よくある犯罪者みたいにね、傷ついた家畜みたいに
A jaded mandarin,
まるで疲れた官僚だ
A jaded mandarin,
くたびれた官僚
Like a jaded, faded, faded, jaded, jaded mandarin.
まるで今のあんたは疲れ果てた官僚だ

JESUS
Get out they're waiting! Get out!
出て行け、奴らが待ってる
They're waiting, Oh, they are waiting for you!
お前を待ってるんだ、待ちわびてるぞ

JUDAS
Every time I look at you I don't understand
あんたの顔を見るたび 理解ができなかった
Why you let the things you did get so out of hand.
なんでそんな自分の手に余るようなことをしてしまうのか
You'd have managed better if you had it planned...
ちゃんと計画を立ててたら、もっとうまくやれたはずだろ…

(後略)

出てけ!と言われて一度は立ち去ろうとしたユダがもう一度戻ってきて再度イエスを罵り、それにもイエスは出てけとしか答えず、ユダは悲しげに Every time I look at you I don't understand... と嘆く部分は本当に切ない。演出によって差があるけれど、ここでイエスとユダが熱く抱擁を交わすものもあってかなりしんどいですね。イエスは自分が神の定めによって死ななくてはならないということは知っているし、ユダがそれを実現するために密告をしなくてはならないということも知っているくせに、ここでのイエスの発言は一貫としてユダを突き放し拒絶するもので、お前の考えなんて理解したくない、ただ早く行けとだけ急かす。一見、神の子のくせに分からず屋かよと思うし、ユダに対して冷たすぎると思うけれど、全て知っているからこそ突き放すしかないのか。ユダだって自ら望んでその役割を果たすわけじゃないし、何度も「本当に俺にそれをやって欲しいんだな」と言うのは脅しをかけているというよりは、本当にやっていいのか確かめているのであって、本当はイエスに止めて欲しいとユダは願っていて、だからこそ一度出て行ったところもう一度戻ってくるし、自分を止めようとしないイエスを強く罵るけれど、それでもイエスは心を鬼にしてユダを突き放しているんだね…。そう思うと、お互いを罵り突き放すような二人の会話とは矛盾するように見える強い抱擁の意味がさらに重く、胸にのしかかってくる。

しかしこの時点でユダが「自分がイエスを殺すことになる」ということを理解していたのかが非常に微妙で、聖書では最後の晩餐までに何度もイエスが自分の死を予言していたから分かっていたと捉えることもできるかもしれないんだけど、ジーザス・クライスト・スーパースターでは明確に言及している場面がないので、もしかするとほんとうに逮捕させるだけのつもりだった、むしろイエスの命を救うつもりだったという解釈もあり得るんですよね。もしそうだとすると〈逮捕させることでイエスのことを救おうと思ってるユダ〉↔︎〈ユダが自分の殺害という罪を負うことを知っているイエス〉という致命的な認識の落差があることになってしまうんですね。〈イエスを殺すことになると理解してるユダ〉↔︎〈ユダが自分の殺害という罪を負うことを知っているイエス〉という関係性であれば、お互いに理解し合えていてまだ救いがあるんだけどな…。

いやしかし、What if I just stayed here and ruined your ambition. Christ you deserve it. とユダは言っているから、「自分がここに残ってあなたの望みを台無しにしたらどうだ、それがふさわしい」というのは〈自分がイエスを引き渡しにいかず、ここに残ればイエスが十字架につけられることもない、それがいい〉っていうこと??? すっごい皮肉っぽく言ってるけど、滅茶滅茶イエスに生き延びてほしいってこと?? はーーー…。もはや聖書でイエスが「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」って言ってるのも、自分の殺害という罪を負わせるぐらいなら、生まれてくれないほうがよかったと思うほどユダに申し訳なく思ってるということかと思えてくるよ。だって自分のことを死ぬほど好いてる人間に自分を殺させるなんて、本当に残酷だものね。


◆Gethsemane (I Only Want To Say)

そしてユダは出て行き、イエスはゲッセマネへ祈りに行く。弟子たちに「今わたし死ぬほど悲しいから頼むから起きててね、一緒にいてね」って何回もお願いしたのにクソバカたちは爆睡しててイエスは本当にがっかりするんだけど、ルカによる福音書では「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とか言ってて、急にGLAYが流れ始めたのかと思ってとまどいを隠せない。恋は真夏のように愛され眠る 君は悲しみの果てに立ち尽くしていた…。ってルカのバカ、おふざけも大概にしとけよ。マタイもマルコもシンプルに「弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。」と書いていて、弟子の程度がよくわかる。ヨハネによる福音書は同じシーンとは思えないほどずっと説教してて長い。神への祈りも長い。弟子が寝てるとは描写されてないけど絶対寝てると思う、死ぬほど説教が長いから。

ペトロ及びゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていた(中略)
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
 マタイによる福音書 26.37-43 新共同訳

しかもこれ、1回戻って弟子が寝てるのを見て起こして説教したのにまた寝てるんだぜ?  イエス、悲しかったね。
ジーザス・クライスト・スーパースターでも当然弟子達は寝ていて、ペトロ…?ヨハネ…?ヤコブ…?誰もいないのか…?マジ…?つら…ってなってて本当にあいつらどうしようもない。聖書に忠実に「この杯を過ぎ去らせてください」と祈りつつ、ここでのイエスはより自信をなくし、困惑し、疲れ果てている様子を見せ、なぜ自分が死ななくてはならないのか神に執拗に問い求める。

JESUS
I only want to say
ひとつだけ言わせて欲しい
If there is a way
もし可能なら
Take this cup away from me
この杯をわたしから去らせてください
For I don't want to taste its poison
この毒を味わいたくないのです
Feel it burn me
この身を焼くようだ
I have changed
私は変わってしまった
I'm not as sure, as when we started
私はもう始まりの頃のような確信が持てない
Then, I was inspired
あの時は啓示を受けましたが
Now, I'm sad and tired
今はただ悲しく、疲れ果てました
Listen, surely I've exceeded expectations
聞いてください、私は期待以上の働きをしました
Tried for three years, seems like thirty.
3年間の試みが、30年のように感じる
Could you ask as much from any other man?
これほどのことを他の誰に望めるでしょうか?
But if I die,
ですが私が死ぬことで
See the saga through and do the things you ask of me
物語が完成し、あなたが私に望んだことも果たされる
Let them hate me, hit me, hurt me, nail me to their tree.
民衆が私を憎み、鞭打ち、傷つけ、十字架に釘付けにするよう仕向けるのですね
(中略)

I'd have to know, I'd have to know, my Lord,
私は知りたい、私は知っておきたい、神よ
Have to know, I'd have to know, my Lord,
Have to see, I'd have to see, my Lord,
理解したい、私はあなたを見たい、神よ
Have to see, I'd have to see, my Lord,
If I die what will be my reward?
私が死んで、私に報いはあるのか?
If I die what will be my reward?
Have to know, I'd have to know, my Lord,
I'd have to know, I'd have to know, my Lord,
Why should I die? Oh why should I die?
なぜ死ななくてはいけない? なぜ私は死ななくてはいけないんだ?
Can you show me now that I would not be killed in vain?
無駄死にではないと、今ここで示してください
Show me just a little of your omnipresent brain.
見せてください、あなたの全知の片鱗でも
Show me there's a reason for your wanting me to die.
見せてください、なぜ私に死を望むのか
You're far to keen and where and how, but not so hot on why
どこでどのように死ぬかには熱心なのに、理由はどうでもいいのか
(後略)

If I die what will be my reward?
ここでイエスが「もし死んだら私の報いはなんなんだ?」と言っているのが
ユダがイエスを密告しに行く時(Damned For All Time)に
I have no thought at all about my own reward.
「自分の報酬なんてまったく考えちゃいないんだ」と繰り返し言ってるのと対比になるなあと思ってじわっとしてしまった。

あとここでイエスが I want to see, I have to see と繰り返し言っていて、日本語字幕で「私はあなたが見たい」となってるのがなんか不自然だな…と思って、英語の「I see」的な、理解する、理解したいという意味なんじゃないかなーと当初捉えてたんですが、トマス・アクィナスの本を読んでたらもしかすると本当にそのまま「あなた(神)が見たい」という意味なのかもしれないと思い直しました。

「承認の確固たること・確実性(certitudo)」に関する限りにおいては、信仰は「認識(cognitio)」なのであり、それゆえ、「コリントの信徒への第一の手紙」第十三章[第十二節]「我々は今は鏡を通じて謎において見ている」と言われているように、信仰は「知(scientia)」や「見ること(visio)」と言われることもできる。アウグスティヌスが『神を見ることについて』において次のように述べているのもそのような意味である。「もっとも確実だと信じているところのものもまた我々は知っていると不適切ではない仕方で言われるのであれば、我々の感覚には現前していないとしても、信じられている事柄もまた、我々は精神によって見ていると正当にも言われるのである。」
 トマス・アクィナス『定期討論集 心理について』p14,a.2 ad 15 (山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』p124より孫引き)

コリントの信徒への手紙の13章、有名な「愛は忍耐強い。…」の下りなのでたしかに私も読んだことあった。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見るようになる」(新共同訳)ですね。ちょっとglobeのFACEの歌詞っぽい(いちいち引き合いに出す曲が古い)。ここで「鏡におぼろに映ったもの」と言っているのはプラトンでいうところの洞窟に映る影のようなもので、われわれは神が作った被造物(鏡)を通して間接的にしか神という存在を知ることができないということ。トマス・アクィナスによると、キリスト教徒の究極目的というのは神の直視、神を見ることだそうなんですよね。しかしイエスは「真の神であり真の人」であるというのが正統教義で、人であると同時に神であるイエスは神を見ることができていたとされているので、ここで「神が見たい!!」と執拗に問いかけてるジーザス・クライスト・スーパースターのイエスはやはり相当人間よりに描かれていますね。


◆The Arrest

さて、いよいよゲッセマネでの祈りが終わったイエスのところへユダが帰ってきます。そして…

JESUS
Judas, must you betray me with a kiss?
ユダ、キスでわたしを裏切ろうというのか?

イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
 マタイによる福音書 26.48-50

はい、そうなんです。ユダは接吻を持ってイエスを裏切ったんです、、、!び、B……おっと やめておきます。must you betray me with a kiss? って、キスで裏切らなくてはならないのか?ってことじゃん。裏切るにしたって、よりにもよって、キスで裏切らないといけないのか?って言ってるわけですよ。はーーーーー…。
それではここでキリスト教シンボル辞典を引いてみましょう。

・口づけ(baiser)
⑴「雅歌」で、乙女が若者について最初に言う言葉は「どうかあの方が、その口で、わたしに口づけしてくださるように」(雅歌1:2)である。キリスト教の伝統では、この肉の口づけを霊的な結合の意に解してきた。父と子が交わす口づけから精霊が発する。受肉とは、神の言葉が人類に与えた口づけである。魂は、至高なる神の口づけを求めてやまない。地上を歩む人間は、精霊の口づけによって支えられる。
⑵初期キリスト教徒たちは平和の口づけによって挨拶を交わす習わしであったが(ローマの信徒への手紙16:16)、それに加えて、聖遺物に、とりわけ聖金曜日には十字架像の御足に、口づけする習慣も生まれた。
⑶結合のしるしである平和の口づけとは逆に、ユダの口づけ(マタイによる福音書26:49、マルコによる福音書14:44-45、ルカによる福音書22:47-48)は不和、決裂、裏切りのしるしである。
 ミシェル・フイエ『キリスト教シンボル辞典』P.59

私は思うんですけど、「ユダの口づけ」は不和、決裂、裏切りのしるしだなんて解説されてるけど、実際のところここでの口づけも⑴の意味そのまま「霊的な結合」のしるしとして取れると思うんですよね。だってこれによって「イエスの死を捧げる」という神の意志が実現されることになるんだから、これは見えざる神の働きの受肉と言えるのでは? ユダは裏切ったのではなく、神の意志に従って為すべきことを為し、この世に平和をもたらしたという意味では「平和の口づけ」だとも言えるかもしれないし、ユダのキスについて語釈を別立てにしてまで裏切りのしるしとするのはいかがなものかしら。イエスだってこれが為されなくてはならないということは理解していたのだから、イエスとユダだけがわかっていた、ということがこの口づけによって両者に通じ合ったのでは??? と私は解釈したい。通じ合ってて欲しい。ちなみに知らなかったけどキリスト教の伝統では、旧約聖書の「雅歌」の若者と乙女ってイエスとマリア(マグダラのマリアのこと?)の対話だと解釈されてるんですって。イエスとマリアが恋人だったっていうのは一応公式なんだっけ…。公式とちょっと解釈違いだな…。


◆Juda's Death

とても辛いお知らせになりますが、イエスに口づけをした後、彼が逮捕され有罪になったのを見届けたユダは自ら命を絶ちます。実はユダの自殺についての記述は四福音書の中でマタイによる福音書にしかなく、マルコとルカとヨハネはユダが裏切ってイエスを突き出したところまでしか書かず、ユダのその後については無視を決め込んでいる。

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこでユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
 マタイによる福音書 27.3-5 新共同訳

四福音書のなかではマタイによる福音書にしかないけど、聖書の中でもう一箇所ユダの死について言及されている所があってそれがルカが書いた使徒言行録のなかの冒頭、下記。

ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
 使徒言行録 1-18 新共同訳

どういうこと? ルカはさぁ、ちょっと偏向報道じゃないですかね。ちなみにマタイによる福音書ではユダが死んだ後祭司長たちが神殿に投げ込まれた銀貨を拾って「これは血の代金だから神殿の収入にするわけにはいかない」と言って畑を買い取り外国人の墓地にすることにした、と書いている。どっちが正しいのかわかりませんけど、マタイの証言の方を私は取りたいですね。
それではジーザス・クライスト・スーパースターにおけるユダの最期をご覧ください。

JUDAS
My God! I saw him.He looked three-quarters dead!
神よ!彼を見たぞ、ほとんど死にかけじゃないか!
And he was so bad I had to turn my head.
酷すぎてとても見ていられない
You beat him so hard that he was bent and lame,
歩けなくなるぐらいまで彼を激しく打つなんて
And I know who everybody's going to blame.
皆がこれから誰を非難するかは分かってる
I don't believe he knows I acted for our good
俺たちのために俺はやったんだと彼が理解してくれてるとは思えない
I'd save him all this sufferin' if I could
できることならこの苦しみから彼を救いたい
And I acted, for our good
俺は俺たちのためにやったんだ
And I'd save him if I could
救えるなら彼を救いたいよ

Christ, I know you can't hear me
クライスト、あなたには届かないと分かってる
But I only did what you wanted me to
だけど俺はあなたが望むことをしただけなんだ
Christ, I'd sell out the nation
クライスト、俺は国だって売渡すよ
For I have been saddled with the murder of you
あなたの殺害という罪を負うためなら
I have been spattered with innocent blood.
俺は罪なき人の血を浴びてしまった
I shall be dragged through the slime and the mud.
これから俺は汚名にまみれるだろう
I have been spattered with innocent blood.
罪なき人の血をかぶってしまった!
I shall be dragged through the slime and the mud!
この先ずっと不名誉な汚名にまみれるんだ!

⬇️ ※マグダラのマリアの歌う I don't know how to love him のリプライズになってる
I don't know how to love him
どうやって彼を愛したらいいかわからないんだ
I don't know why he moves me
どうしてこんなに彼に心動かされるのかわからないよ
He's a man, he's just a man
彼は人だ、ただの人なのに
He is not a king, he's just the same as anyone I know
王様なんかじゃない、俺が知ってる他の人間と何も変わらないのに
He scares me so
俺は本当に怖い
when he's cold and dead, will he let me be?
彼が死んで冷たくなったら、俺は解放されるだろうか?
Does he love, does he love me too?
彼はーー、彼も、俺のことを愛してくれていただろうか?
Does he care for me?
俺のことを気にかけてくれているだろうか

My mind is in darkness.
俺の心は真っ暗闇の中だ
God, I'm sick. I've been used,
神よ、吐き気がする 俺は利用されたんだ
And you knew all the time.
あなたはずっと分かってたんだな
God, God I'll never ever know
神よ、俺は知る由もない
why you chose me for your crime.
何故あなたが俺を選んだのか
your foul, bloody crime
あなたの忌まわしい、血塗られた犯罪に
You have murdered me, you have murderd me
俺はあなたに殺されたんだ あなたは俺を殺した
Murderd me
俺を殺した
Murderd me
俺を殺した
Murderd me
俺を殺した

〈ユダは自分がイエスを殺すことになるということをどの時点で理解していたのか??〉というのはここまで見てきた通り非常に微妙で難しい問題ですが、Juda's Death における彼の動揺ぶりを見ると、やっぱりここで初めて気付いたのか??という感じがしてしまう。でもここで初めて気付いたんだとすると、最後の晩餐でのイエスとの口論・抱擁と、裏切りの口づけがすべて絶望的な認識的落差の下で行われたことになってしまって非常に悲しいな。イエスは全部わかっていたけど、ユダは何もわかっていなくて、何も通じ合ってなかったということになってしまうから…。

Christ, I'd sell out the nation
For I have been saddled with the murder of you
ここの訳が難しくて、
・あなたの殺害という罪を負う「ために」国を売りはらう
・あなたの殺害という罪を負う「ぐらいなら」国を売りはらう
という2通りの訳が映画の日本語訳を見る限りでもあって、後者の方がすんなり理解できる感じがすると思うんだけど「for」ってやっぱり「〜のために」というのが主な意味だし、後者として読める語釈が全然見当たらないんですよね。前者の意味で訳してるのがほとんどだし、前者の方がより「(他の誰でもなく)俺が」「あなたの殺害という罪を負う」んだという強いこだわりを表してるとも言えるし前者の訳でいいのかな…。翻訳、マジで難しいですね。関係ないけど『風と共に去りぬ』のレット・バトラーの最後のセリフが旧・大久保康雄訳と新・鴻巣友季子訳でほとんど真逆と言ってもいいぐらい違ってたのでたまげたんですけど、翻訳ってやっぱりそういうことが起きてしまうわけですよね。難しいですね。

I shall be dragged through the slime and the mud.
この部分もまたいろんな和訳があって「泥の中を這いずって行く」「地獄に落ちる」とかあるんだけど、どうやら drag through the mud で「顔に泥を塗る、辱める、名を汚す」みたいな意味があるようなんだよね。なので「汚名を着せられる」というような訳が適切なのかなあと思いつつ気になったのが「shall」で、一人称のshallというのは推量を表すので「これからずっと自分は汚名にまみれるだろう」という予想を述べているということでまぁいいんだろうけど、『ヘミングウェイで学ぶ英文法』によると「shallは主語の意思をも超越する神や権威・権力者が決めた義務であるというような強い束縛感を表します」というようなニュアンスがあると書いてあったのを思い出し、まさに神に定められた宿命なのだものね、あなたの裏切りと永遠に語り継がれることになる汚名は…!と思ってしんどくなってしまった。神によって ユダは shall be dragged through the slime and the mud なんだよ、残酷すぎるな…。

そして  I don't know how to love him!これはマグダラのマリアが歌ってた歌のリプライズになるわけですが、ここでユダははっきり「I don't know how to love him」そして「Does he love me too?」って言ってるんですよ。やっぱり明白にLoveじゃん…。と胸を打たれるわけですが、日本語字幕だと結構ここごまかして訳してない場合が多いんですよね。こんなはっきりloveって言ってんのに無視すんのかよ!BLを認めないってか??と思いながらモヤモヤしたのでこうして訳す羽目になりました。

そして圧巻なのはやはり最後の神への呪詛ですよね。はっきり You have murdered me って、あなたが私を殺したんだって告発してますからね。聖書の記述のように自分のやったことに後悔して死んだという単純なことではなくて、あくまでユダは神の命じた使命を自分は果たしたんだと分かっているんだけど、それでも愛する人を殺してしまった事実に変わりはなくて、絶望しながら、そんなことを自分にさせた神を呪いながら死んでいく…。思うにユダは、イエスを裏切り・殺すという行為が神の意志であったということは(少なくとも)この時点で理解しているんですけど、イエスが神の子であるということは信じていなくて、最初から最後までイエスはただの人だと思って愛していたから何故イエスを殺さなくてはいけないのかを理解できず、神を知りながら、神を呪っているんですよね。


◆Trial Before Pilate

聖書ではピラトから「お前がユダヤ人の王だということは本当なのか?」と問われ、イエスは「それはあなたが言ったことだ」とのみ答え、それきり口をつぐんでしまう。ピラトは特に罪も犯していないイエスを死刑にするわけにはいかないから鞭打つだけで釈放しようと提案するものの、イエスを讃えていたはずの民衆たちが「あいつを殺せ!十字架につけろ!!」と騒ぎ立てるのでピラトは困惑し、イエスに話を聞こうにもイエスは沈黙、周囲の民衆の「十字架につけろ!」と言う声は高まるばかりで結局イエスを死刑に処することにする。本当に民衆の手のひら返しにゾッとする場面ですよね。ジーザス・クライスト・スーパースターでもほとんどその通りなんだけど一箇所興味深いところというか、私があーーと思ったシーンがあるのでそこだけ引用。

(前略)
PILATE
Where are you from Jesus?
お前はどこから来たんだ、ジーザス?
What do you want Jesus?
一体何を求めてるんだ、ジーザス?
Tell me.
話してくれ
You've got to be careful.
もっと慎重になった方がいい
You could be dead soon, could well be.
死ぬことになるぞ、きっとそうなる
Why do you not speak when
なぜ話そうとしないんだ
I hold your life in my hands?
お前の命がわたしの手の中にあるという時に?
How can you stay quiet?
なぜ沈黙していられる?
I don't believe you understand.
分かっていないようだが

JESUS
You have nothing in your hands.
あなたの手の中には何もない
Any power you have, comes to you from far beyond.
あなたの持つ力は、あなたを遥かに超越したところからきたものだ
Everything is fixed, and you can't change it.
全てはもう定められたこと、あなたが変えることはできない
(後略)

Any power you have, comes to you from far beyond. Everything is fixed, and you can't change it.
というのはまさに、
「自分の行為は自分の意思に由来するものではなく、その背後には神のより大きな意思が働いている。自分の行為は神の計画に沿ったものであり、神の秩序を到来させる奉仕である」
という思想そのものだなと思った。これは増田一夫先生の最終講義でこの間知ったばかりのことなんですけど、そうした神の計画というものを「神のエコノミー」「救済のエコノミー」などと呼ぶらしいんですね。そうした神の計画に基づいた、教会を含む地上の制度や実践の全てを「エコノミー」と呼んでいたものが時の流れとともに数々の歪曲を経て、今では生産活動の最適化や利益の極大化を目指す実践=「経済」を表すようになった…というのはまったく関係のない脱線になるのでこれ以上言及するのは避けるけど、まさに今回ジーザス・クライスト・スーパースターを見ていて私がしみじみ感じたのは、この神の意志、神の計画というものを理解していたのはイエスとユダだけだったのだな、ということ。(ユダが一体どの時点で理解していたのかということはさておき…)

◆Superstar

そしていよいよイエスは十字架にかけられることになりますが、ここはジーザス・クライスト・スーパースターの完全オリジナルシーンで、ミュージカルのクライマックス。死んだはずのユダがキメキメのステージ衣装で降りてきて、十字架を担いでゴルゴダの丘を上る(※演出によって差あり)イエスに歌を捧げます。

VOICE OF JUDAS
Every time I look at you I don't understand
あなたの顔を見るたび 分からなかった
Why you let the things you did get so out of hand.
何故自分の手に余るようなことをしてしまうのか
You'd have managed better if you'd had it planned.
きちんと計画していたらもっとうまくやれたはずだろ
Why'd you choose such a backward time in such a strange land?
どうしてこんな大昔のおかしな国を選んでしまったんだ?
If you'd come today you could have reached a whole nation.
もし現代に来てくれたら全世界にだって届いたのに
Israel in 4 BC had no mass communication.
BC4年のイスラエルにはマスコミだってなかったしね
Don't get me wrong.
誤解しないで
Don't you get me wrong.
誤解しないでくれ
Don't you get me wrong.
誤解しないでくれ
Only wanna know.
知りたいだけ
Only wanna know.
ただ知りたい
Only wanna know.
知りたいだけなんだ
I only wanna know.
俺はただ知りたいだけなんだ

CHOIR
Jesus Christ, Jesus Christ,
ジーザス・クライスト、ジーザス・クライスト
Who are you?   What have you sacrificed?
あなたは誰? あなたは何を犠牲にしたの?
Jesus Christ Superstar,
ジーザス・クライスト・スーパースター
Do you think you're what they say you are?
あなたはみんなが言う通りの人だと思うの?
(後略)

Every time I look at you I don't understand 〜 You'd have managed better if you'd had it planned.
の部分は The Last Supper でユダが1番最後にイエスに言ったことの繰り返しになっていますね。ユダがやたらイエスの plan(計画)の無さに言及するのが、「神の計画」の話と相まって気になるところ。Juda's Death でははっきり神に対して何故自分をこの犯罪に利用したんだと訴えているのだから、神の計画どおりになったということは分かっているはずなのにイエスを責めるのは妙な感じがしてしまうなぁ。単に understand, hand, planned で脚韻を踏んでるだけかもしれませんが…。

あーーー待って、What have you sacrificed? ってありますよね。sacrifice は「犠牲にする」「神にいけにえを捧げる」という意味ですが、ここではもちろんイエス自身がいけにえとなって命を神に捧げているわけですけれども、ユダもまたいけにえではないですか?  イエスといういけにえを捧げるためのいけにえとなったのがユダだったわけじゃないですか。これはもちろん神の意志だったわけだけれども、What you have sacrificed の中にはユダが含まれているってことを暗に歌ってない??
そしてこの曲で You と呼びかけているのはイエスであると同時に神でもあるんじゃないかと思うんですよね。父、御子、御霊の三位一体なわけだし、人の子であったイエスが死をもって今まさに神の元へ帰ろうとしているからこそ、イエスに神を重ねて、I only wanna know 私は知りたい、教えてほしい、とここでもまた神へ執拗に問いかけているんだなぁという感じがする。完全に独自解釈だけど。


◆The Crucifixion

Superstar が終わった後、ついにイエスが十字架につけられ、高く掲げられる。初めて見たときは普通にちょっと気分が悪くなりましたね、やはりどう考えてもミュージカルのクライマックスの盛り上がったところで人間が十字架につけられて高く掲げられて死ぬというのは異常。
ここのイエスのセリフは四福音書すべてから引用されていて、イエスの今際の言葉コンプリートボックスという感じで非常に豪華(?)ですね。ここの訳は基本的に新共同訳の該当箇所からの引用にしました。

Father forgive them.
父よ、彼らをお赦しください
They don't know what they're doing.
自分が何をしているのか知らないのです。 >ルカによる福音書23:34
Who is my mother?  Where is my mother?
私の母とは誰だ? 私の母はどこにいる?※ 
>ヨハネによる福音書19:25-27(※ここだと思うが表現がちょっと違う)
My God, my God, why have you forsaken me?
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか 
>マタイによる福音書27:46、マルコによる福音書15:34
I'm thirsty.
渇く。 >ヨハネによる福音書19:28-30
It is finished.
成し遂げられた。 >ヨハネによる福音書19:28-30
Father, into your hands, I commend my spirit.
父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。 
>ルカによる福音書23:46

My God, my God, why have you forsaken me?  は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でお馴染みのセリフですが、私が初めに見たバージョンだとたしかに forsaken だったと思ったのが、他の映画版やサウンドトラックに収録されてるバージョンだと forgotten になったりしていて、おやおや???となった。日本語の聖書もいくつか翻訳があるように、英語の聖書の翻訳にもよるのかな?と思って複数の英語版聖書の該当箇所をチェックしましたが(英語版は翻訳が多すぎてどれが1番スタンダードな聖書なのかもはやわからなかったものの)、やはり forsaken が1番多く、abandoned, deserted, left などは見受けられたものの forgotten としているものは見当たらなかったんだよね、もちろん英語版の聖書は多すぎるので見落としてる可能性も高いけど。forgotten はさすがに、イエスを一人の人間として描いたのだとしても「神の子」が嘆く言葉としてふさわしくない気がしますね。さすがに神が忘れるわけはないだろ。
それにしてもすべての福音書からセリフをかき集めているからちょっと不自然で、イエスの態度にぶれがあるように見えますね。それぞれの福音書でバラバラに描かれたイエスのセリフをつながりもなく寄せ集めることによって、聖書においてすらイエスの見え方は全然違うのだということを表したかったのかなと思います。


◆John Nineteen: Forty-One

そして1番最後の曲。この曲は歌詞もないし、曲名の意味も(??)と思っていたんだけど、よく考えるとJohn=ヨハネによる福音書19章41節ってことじゃん!!と気づいたので引用しておきます。

イエスが十字架につけられたところには園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
 ヨハネによる福音書19:41 新共同訳

「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」、あーーこれがイエスの死によってもたらされた、神と人間との新しい契約の始まりのしるしなんですね…と思った。(※独自解釈)


【解説・感想】

一通り歌詞を最後まで見終えたので、各曲のところでも私の勝手な解釈を挟んだりしたけれども、もう少しジーザス・クライスト・スーパースターを理解するために追加の聖書的解説と、私の独自解釈のまとめをします。

◆「契約」とは何か?

John Nineteen: Forty-One のところでこれが新しい契約のしるしか〜〜とか言ってましたが、そもそも聖書の「旧約聖書」と「新約聖書」というのは、これはそれぞれ「旧い契約」と「新しい契約」という意味なわけです。この「契約」という概念がイスラエルの宗教思想の軸になっていて、旧約聖書だけでも280回以上も使用されているとのこと。その最も基本的なものが、シナイ山のふもとでモーセを通して結ばれた「シナイ契約」(出エジプト記19:24  その契約の条項が有名な「十戒」)と、ダビデ王朝の永遠性を約束した「ダビデ契約」(サムエル記下7章)の二つ(ダビデ契約は初耳だった)。しかし人間が十戒を守らなかったため、神は「新しい契約」を結んで人間との関係を正し、完成することを約束されたーーというのが旧約聖書の内容。そしてその約束された救世主がイエス・キリストであり、イエスの死によって「新しい契約」が結ばれ、新約聖書の時代が始まった、というのがキリスト教なわけですね。

◆贖い/いけにえ/捧げ物

えっ何でイエスが死ぬと新しい契約が結ばれたことになるの?と思いますよね。契約のために人が死ぬなんて日本の捺印文化も霞む野蛮さでビビりますが、やはりここはその背景となる文化・旧約聖書での扱いについて見てみる必要があるでしょう。

・贖い:
旧約では
⑴人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと
⑵身代金を払って奴隷を自由にすること
⑶家畜や人間の初子を神にささげるかわりに、いけにえをささげること
などの意味がある。旧約聖書の中で神が特に「贖う方」と呼ばれているのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す
・いけにえ:
家畜を殺して神にささげた捧げ物。神殿で行われる宗教儀式の中心をなすもので、目的によって使用される動物と方法が異なっていた(捧げ物)。
・捧げ物:
神を礼拝するときにささげる動物の犠牲や穀物などの供え物を指す。詳しい規定はレビ記1~7章に記されている。動物の犠牲の中でまず牛、羊、山羊などを全部焼いてささげる「焼き尽くす捧げ物」がある。次に、捧げ物の肉の一部を奉献者やその家族が会食する「和解の捧げ物」や、罪科によって破られた神との契約の関係を正す「賠償の捧げ物」などがある。穀物の捧げ物には、初穂、パン、麦粉の菓子、ぶどう酒、油、香などが当てられていた。イスラエルの民は、これらの「捧げ物」を供えることによって神を礼拝するとともに、神の聖性に対する鋭い感覚を養い、罪の清めを祈求し、神と交わることの喜びを学んだ。しかしながら外面的儀式を重視するあまり、内的心構え(回心、礼拝の心など)を軽視する危険にもさらされていたので、預言者たちがそのことを厳しく指摘した。
 すべて新共同訳聖書:用語解説より

…まぁ要するに「神に捧げ物を貢いでご機嫌をとって許してもらう」習慣がベースとしてあるということですね。これは多分多くの宗教にあるものでしょう。しかし「捧げ物」について読んでて思い出したけど、旧約聖書の神ってかなり横暴で、人類初の兄弟殺しの罪として名高い「カインによるアベル殺し」も原因は捧げ物なんですよね。アダムとエバがエデンの園を追われ、産んだのがカイン(兄)とアベル(弟)で、カインは農耕をしてアベルは羊飼いになり、カインは野菜(※土の実り)を捧げ・アベルは肥えた羊を捧げたところ、神はえーーっ羊うれし〜〜とアベルの捧げ物には目を留めたが、野菜?んーちょっとテンション上がんないな(笑)と言わんばかりにカインの捧げ物を無視するんですよね。ひどい。そしてカインは激しく怒ってアベルを殺してしまう。(創世記4:1-16)神、偏食かよ。たしかにお肉は美味しいけど、野菜もちゃんと食べて下さいね。

それはさておき、イエスは今まで散々神との契約を破ってきた人類の罪を償う、賠償の捧げ物としてささげられたいけにえであったということですね。酷い話ではありますが、カインとアベルの続きでそのまま創世記読んでたら「ノアの洪水」の後に神がノアと交わした契約にこんな記述がありました。

また、あなたの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流すものは人によって自分の血を流される。人は神にかたどって作られたからだ。
 創世記9:5-6 新共同訳

おそらくあまりにも人間は人間の血を流しすぎて、人間の命を賠償として捧げなくてはいけなかったということなんでしょう。神の子だけど。このノアとの契約は「祝福と契約」と記されてるんですけど、祝福と呪いじゃんという感じだし 祝福と呪いってセット売りなんですねというか もしかして祝福というのは方便でシンプルに呪いなんじゃないかと思ったり。
そして私が今回ジーザス・クライスト・スーパースターを見て気づいて愕然としたのは、先に述べた通りユダもいわば「いけにえのいけにえ」だったのだなということ…。

(あとこれはマジで全く関係ない脱線になるけど、「焼き尽くす捧げ物」って「ホロコースト」の語源なんですよね。ホロコーストについて調べていたときにたまたま語源は「焼き尽くす捧げ物」であるという解説を読んで(Wikiですが)、ユダヤの神聖な儀式にそなえる捧げ物を指す言葉を転じて、ユダヤ人の大虐殺を指す語として使ってるなんて怖すぎる…と心底震えた。ジョルジョ・アガンベンは「ホロコーストという語を使用することはユダヤ人犠牲者を神への犠牲、ナチスを祭司、焼却炉を祭壇として扱うことにむすびつき、結果としてナチによるユダヤ人殲滅政策を正当化することになる」と批判してるそうで、ごもっともだと思います。なので、できるだけ「ホロコースト」という語は使いたくないものだなと個人的には思っています)

◆三角関係について

冒頭でわたしは「イエスとユダとマグダラのマリアは三角関係なの?調べてみました!」とか言ってたけど、なんかもう考えれば考えるほどマグダラのマリアについて言及する必要性が感じられなくなったな。確かに序盤のイエスは俺の理解者はマリアだけ…とか言ってイチャイチャしてたりしてそれにユダが怒ったりするし、マグダラのマリアが歌う「I don't know how to love him」のrepriseをユダが死ぬ時に歌うし、まぁある種の三角関係的なものを見ることもできなくもないんだけど、私が思うにもっと重要な三角関係があって、それは皆さんもお察しの通り、神、イエス、ユダの三角関係です。
この三角関係を極限にシンプルに図にすると下記のようになります。

無題のプレゼンテーション


一目瞭然ですね。それにしても神の理不尽さすごい。それはもうイエスにしてもユダにしても「どうして??」でしかない。だからクライマックスの Superstar で繰り返し歌われる内容も I only wanna know なんだと思う。しかし二人を比べると、ユダは Juda's Death で最期に I'll never ever know と言って、知ることを諦めて死んでいくけれど、イエスは十字架にかけられても死ぬ間際まで Why have you for saken me? と神に「何故」と問うことをやめずに死んでいったのだなと、そこに二人の違いが見える。われわれ人間が神に対して取り得る唯一の態度は、「何故?」と問うこと、そして問い続けることだけなのかもしれないと思った。たとえ答えが得られなかったとしても。

◆神の声について

実はジーザス・クライスト・スーパースターでは2箇所だけ、神の声ではないかと思われるコーラスが入るシーンがあるんですね。
1箇所目はユダが密告した Damned for All Time / Blood Money の最後、ユダがイエスを逮捕するための時刻と場所を告げたあと。どこからともなく、その場にいる誰でもない声で Well done Judas. Good old Judas. と響く。
2箇所目は、Juda's Death のラストでユダが首を吊って死んだあと。1箇所目とまったく同じ声で Poor old Judas. So long Judas.  と言う。
映画(2000年版)ではユダヤの民衆と思われる集団がスーッと現れ、その人たちがコーラスしてたりするので民衆、民族の声という解釈もあるのか?と思ったりするけど唐突で不自然だし、やはりここは自分の計画を遂行したユダに対する神の声と解釈するのが自然ではないかと思います。それにしてもGethsemane (I Only Want To Say) であんなに問いかけて、十字架にかけられて絶命する直前まで神の声を、神の応答を求めていたイエスに対しては一切何も答えていないんですよね。あくまで神の声が出てくるのは上記2箇所、ユダに対してだけ。ユダ自身には聞こえていない様子だけど、それでも観客はこの声を聞くことで舞台には上がらない神の存在を知ることができる。

◆イエスとはどんな人だったのか

キリスト教の正統教義ではイエスは「真の神であり真の人」とされていると言いましたが、実際には滅茶滅茶いろんな態度があるんですよね。教義論争では「神ではなく人」とみなす立場や「人ではなく神」とみなす立場もいて、それらは当時「異端」とされたわけですが。とはいえ現在の実証的な聖書学では「史的イエス」と「信仰のキリスト」とを区別して、「人間」としてのイエスと信仰の対象としての「神の子」であるキリストを切り分けて捉えようとする姿勢が根強くあるそうです。そういう意味では、イエスを一人の人間としての弱さも含めて描いたジーザス・クライスト・スーパースターもそんなに無茶苦茶な立場でもないのかもしれないですよね。敬虔なキリスト教徒からは冒涜だっていう批判もあったようですけど。
神の意志も自分の身に起こることもイエスは最初から全部わかっていて、それでも人間だからやっぱり怖いし「自分が死んだところで何になるんだ」という不安と怒りがあって、それが時々噴出してしまう不安定さが魅力ですね。「悟り」と「迷い」という矛盾を抱え込んでしまっているところが。
イエスの魅力ということで、全然関係ないけどサリンジャーの『フラニーとズーイ』でイエスについて語られている箇所を引用します。

だってなんてったって、イエスは聖書の中でもっとも知性的な人物であり、それに尽きるんだ。簡単な話じゃないか! 彼はどこの誰よりも遥かに抜きんでている。誰よりもだ。新約聖書にも旧約聖書にも、たくさんの人物が登場する。賢人やら、預言者やら、使徒やら、お気に入りの息子たちやら、ソロモンやら、イザヤやら、ダヴィデやら、パウロやらーーでもさ、ものごとの成り立ちをイエスほど正しく把握していたやつが他にいるだろうか? 誰もいない。モーセも駄目だ。モーセの名前を出したりしないでくれよ。彼は好人物だし、神とも美しい関係を保っていた。たしかにね。でもさ、そこがまさにポイントなんだよ。彼は関係を保ってなくちゃならなかった。一方イエスにはわかっていたんだ。どうやったところで神からは離れようもないってことが。
 J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳

わたしこの部分が好きすぎて、ほとんど誰も知らない・そこそこ人数のいるクリスマスパーティーで朗読しましたからね。I must have been out of my head って感じですね、はは。ポイントはもちろん、モーセは神と美しい関係を保っていた、保っていなくてはならなかった、だけどイエスはどうやったところで神からは離れようもないってわかっていたということですね。フラニーとズーイは台詞が長すぎてとても全部を引用できないんだけど、ズーイはこの後も喋り続けていて、再度イエスのことを「最も優れて聡明で、最も慈愛に満ち、かつ感傷性から最も遠くにあり、模倣性から最もかけ離れた傑物だった」と絶賛してるんだけどここもまた印象深くて、「最も優れて聡明で、最も慈愛に満ち、かつ感傷性から最も遠くにあり、模倣性から最もかけ離れた傑物!!!」と復唱したくなる。特にわたしの心に残ったのは「感傷性から最も遠くにある」という部分で、感傷性から遠く離れるなんてわたしにはひどく難しそうだなと早速心を痛めつつ、そもそも「感傷性」とは一体なんなんじゃい、と思っていたらサリンジャーは別のところでこれについても彼なりの回答を用意してくれていました。

何しろ間抜けなぼくのことだから、『感傷性』ということについてのR・H・ブライズの定義を紹介したーー『ある対象に、神が注いでいる以上の愛情を注ぐとき、これを感傷的態度と言う』と。神が仔猫を愛することに疑問の余地はないが、テクニカラーの毛糸靴をはいた仔猫は、十中八九、愛さないのではないか。ああいう独創的なタッチは、神も脚本家にまかせているのだ、と、わたしは(きいたふうなことを?)言った。Mはよく考えたあげく、ぼくに同意したらしかったけれど、この〈知識〉は嬉しいものではなかった。飲物を搔き回しながらぼくとの違和感をかみしめていた。彼女は、ぼくに対する愛が行ったり来たり、現れたり消えたりするのを気にしている。仔猫に対する気持ちのようにいつも愉しいとは限らないといって、その実在性を疑うのだ。愛が悲しいものだということを神は知っている。人間の声がこの世のすべてのものの神聖な本質を汚すのだ。
 J・D・サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」野崎孝訳

「感傷性」というのは、「ある対象に、神が注いでいる以上の愛情を注ぐこと」ですって。こんなに良い定義があったのかと思ってびっくりしたんですよね。じゃあ神は被造物に対してどれぐらい愛情を注いでくれてるっていうんですか?となるし、わかりにくいといえばわかりにくいかもしれませんが…。ジョン・アップダイクの『アップダイク自選短編集』に収録されてる「鳩の翼」という短編が、そんな悩みを抱え、死を怖がっている男の子が神の愛を見出す話なのでよろしければそちらをご一読ください。(アップダイクを布教したい人)「鳩の翼」はこれがベースにあるんだろうなぁというイエスの説教が聖書にあるんですが(マタイによる福音書6:25-34「思い悩むな」)、その説教は『フラニーとズーイ』でフラニーが小さい頃読んで無茶苦茶怒って「それがきっかけでイエスを全的に愛することができなくなった」とズーイが指摘してる箇所になるので話がややこしくなりますね!しかし私はイエスに腹を立てたフラニーの気持ちもとてもよくわかるんだよな。えーとお伝えしたいこととしては、アップダイクはとても良いですよということです。
というのは冗談で、ジーザス・クライスト・スーパースターのイエスは、迷ったり弱音を吐いたり自暴自棄っぽくなったりして人間らしい弱さを見せてはいるものの、それでもなお断固としてユダを突き放し・神からの使命を果たさせるあたり、「神が注いでいる以上の愛情」を注いでいないと言えるし、「感傷性から最も遠くにある」傑物だというのは本当だったんだなって思ったんですよね。ユダは本当にえらい人を好きになってしまったね。

◆愛とは…

「愛が悲しいものだということを神は知っている」とサリンジャーが言っていましたが、BL、BL言ってたわけですし最後にLove、「愛」について考えたいと思います。

神とイエスとユダの三角関係の図を書いててふと思ってしまったのが、三角関係って三位一体では…?ということである。三位一体というのはキリスト教信仰の中心的な教えの1つで、「父」「御子(=イエス)」「御霊(=聖霊)」の3つ合わせて一体(唯一神)である…というかなり意味が不明の教義です。(ギリシャ)正教会なんかでも、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」と言っていて、「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調されるらしいので、とにかく〈そういうことになっている〉ものです。

「父」と「子」の部分はそのままなので特に問題ないと思うんですけど、ユダが「御霊」なんて言ったら時代が時代なら異端審問にかけられそうな思いつきですね。さすがにユダが御霊だという主張ではなくて、御霊がユダに入った(働きかけた)のでは?ということです。ルカとヨハネは「サタン」が入ったと福音書に書いていたけど、いやそこはサタンじゃなくて聖霊だったんじゃない?というのが私の考えです。やめて、異端審問にかけないで。

無題のプレゼンテーション (3)

トマス・アクィナスは「歴史上のすべての哲学者のなかで、最も体系的な愛についての理論を構築した人物と言って間違いない」(山本芳久『トマス・アクィナス  理性と神秘』P.183)らしいので(マジ?)、トマス・アクィナスによる愛の理論とやらを参照しつつ、聖霊の働きと愛の関係について考えてみます。

トマス・アクィナスよりさらに前の時代の神学者でありスコラ学における最重要人物の一人であるペトルス・ロンバルドゥス(1095頃-1160)は、「caritas(カリタス=愛)は霊魂のうちに創造されたあるものではなく、精神のうちに住みたもう聖霊そのものである」と述べています。ちなみに「聖霊」とは神の「位格」の一つであり、キリストのように目に見える仕方でこの世界に現れることはないが、人間の心の奥深くにおいて働き、人間が善い在り方をすることができるよう導く存在だと言われています。ロンバルドゥスは愛=聖霊そのものと言いたいのではなく、希望や信仰、その他の何らかの「徳」の習慣を介して愛が訪れるのではなく、何らの習慣も介しないで聖霊から直接来たるものだという意です。「恋はするものではなく、おちるもの」みたいな話ですね。江國香織はロンバルドゥス派だったということです。(違う)

ではトマス・アクィナスはどう考えていたかというと、この考えを批判しています。つまりロンバルドゥスの意見によれば「愛は聖霊によってもたらされるもの」であり、そこに人間の自由意志は介入していないということになり、人間は聖霊の操り人形のような主体性・自立性のない存在となってしまう。トマスは自発性のない愛など「愛」と呼ぶに値しないとし、ロンバルドゥスの「カリタス」の理解では逆に聖霊の卓越性を弱めていると指摘しています。

[人間の]意志は愛する働きへと聖霊によって次のような仕方で、つまり意志自身もまたこの働きを生ぜしめるものである、という仕方で動かされるのでなければならない。
 トマス・アクィナス『神学大全』第二部の第二部二十三問題第二項(山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』P.201より孫引き)

トマスも聖霊によって動かされるという部分は否定しておらず、ロンバルドゥスとの違いとしては、人間の意志の自律的で積極的な役割を認めるという点にある。「動かされる」と言っても一方的に動かされるがままになるということではなく、そこには自由意志の動く余地があり、人間の主体性は失われていません。基本的にトマスは「カリタス=愛徳」以外の信仰に関わること全般においても、神からの「恩寵」だけではなく必ず人間側の「自由意志」の働きを重視しており、信仰は「神秘」によるものだけでなく「理性」が必要であるということを説いているのです。

それではユダについて改めて考えてみると、散々ユダの裏切りは「神の意志」によるものであったと私は擁護してきたわけですが、それだけではそれこそユダはただの操り人形だったということになってしまう。しかしトマス・アクィナスの考え方によれば、たしかにユダは「聖霊」によって動かされたが、ユダ自身の自発的で主体的な意志もあったのであり、そこには確かに「愛」と呼べるものがあったのだと言えるわけです。ユダは死ぬ間際、God, I'm sick. I've been used と「自分は神に利用されただけだったんだ」と絶望していますが、違うんだと言いたい。あなたは神に利用されたんじゃなく、イエスを愛していたのは、ちゃんとあなたの意志だったんだと言いたい。

でもさぁ、その結果が「愛する人を殺すこと」になったんだから、ユダが自分の意志を否定して「神に利用された」ことにしたい気持ちもわかるよね。流石に救いがなさ過ぎるので、もうちょっとユダを励ますものが欲しい。あなたの愛は間違いじゃなかったと言える根拠が欲しい。

我々は、欲望の愛においては、我々にとって外的であるものを我々自身へと引き寄せる。というのも、まさにその愛によって我々が他のものを愛するのは、それらが我々にとって有用であるか快適である限りにおいてだからである。だが、友愛の愛においては正反対である。というのも、我々自身を、我々にとって外的であるものへと引き寄せるからである。なぜならば、その愛によって愛する者へと、我々は我々自身へのように関わり、彼らに何らかの仕方で我々を分かち与える・共有する(communicare nosmetipsos)からである。
 トマス・アクィナス『ヨハネ福音書講釈』第十五章第四講(山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』P.217より孫引き)

「自分にとって有用であるから愛する」というのは、イエスといれば名声に預かれる、いずれ天の国に迎え入れられる、といったようなユダ以外の弟子たちの態度がまさにそうじゃないかと思う。それに比べてユダは I have no thought at all about my own reward なのであって、Every time I look at you I don't understand と言いながら自分の理解の外にあるイエスにどうしようもなく惹かれている。ユダは自分の幸福のためにイエスを利用したのではなく、イエスを密告したことすらイエスのためを思って行動したわけだから、あなたの愛は本当に「友愛の愛」だったと思う。
トマス・アクィナスが愛について語るときに、「愛するとは誰かに善を意志する(望む・願う)ことである」というアリストテレスの言葉を引用したという。そしてトマスはそのことを「我々が隣人において愛さなければならないのは、その人が神のうちに在るように、ということだからである」と表現している。「その人が神のうちに在るように」! イエス自身ですら迷って自信をなくし、自分が死ななくてはいけないという神の意志を疑っていたのを、イエスが神の元へいけるように導いたのは、まさにあなたの「愛」だったわけだ。ユダは正しく愛の行為を果たした。

って アーーーーなんて最悪なんだ。これがキリスト教の「愛」なのかよ。ユダのことは慰められたかもしれないけど私は納得できない。「何らかの仕方で我々を分かち与える」、ユダは自分の命も、永遠に語られる汚名という形でも自分を犠牲にしたわけで、自己犠牲=愛みたいなのは本当に虫唾が走る。キリスト教っぽさ抜群だけど。こんなの絶対おかしいよ。イエスとユダが死ななくて済む世界線にたどり着くまで歴史を繰り返し試行してほしい(異端)。トマス・アクィナスは「自己犠牲」がキリスト教の愛であるというのは一面的な理解に過ぎないと言って、むしろ「自己」を遥かに超え神に届くような射程を持っていると言い、あくまでキリスト教は「肯定」の思想であるとのことなんだけど、通俗的な理解としてはやっぱり「自分を犠牲にしてでも尽くす」みたいなのがキリスト教的愛とされてるんじゃないですかね…。

蓮實:ところで愛という話なんですけれども、愛という話はすぐに通俗化する。キリスト教が通俗化したわけですね。最も偉大な通俗化であるがゆえに、それ以外の愛の形式というのをわれわれが考えられないような形で通俗化してしまった。キリスト教以外に愛の物語というのをつくった宗教というのはないでしょう。ごく低次元の宗教として。仏教には愛というのはないんでしょう。
柄谷:ないですね
蓮實:つまり共同体宗教が通俗化した愛をどこで救出するかということですが、キリスト教的な愛しか物語として持っていない人たちーーつまりわれわれなんですけれども、いま、愛を具体的な体験として生きることをあらかじめ奪われているようなところがあるでしょう。
さっきもいった意味で、事件に対する脅えというのが比較的通俗化されていない形での愛だということだと思うんです。そうすると、愛の問題は、どこかで神秘に近づいちゃうところがあるんです。ところが僕は愛は神秘だとは思わない。つまり非常に具体的なもののわけでしょう。具体的であると同時に、考え詰めれば必ずパラドックスに陥るところのものであって、自然じゃないんですね。文化的にパラドクサルなものとして、愛というものがある。
 柄谷行人・蓮實重彦「闘争のエチカ」『柄谷行人蓮實重彦全対話』P459-460

本当に引用ばっかりしてごめんね、という感じですが蓮實重彦がここで話してたことを急に思い出して、床に突っ伏してジタバタしてしまった。「共同体宗教が通俗化した愛をどこで救出するか」というのが改めて胸に迫ってきたんですよね。愛、救出できるだろうか。どこから?どうやって?


【ジーザス・クライスト・スーパースター比較/参考文献】

そんなにいうならジーザス・クライスト・スーパースター見てみようかな〜という奇特な人のために、今回私が見た3バージョンの比較をしておきます。劇団四季とか、ミュージカルも他のバージョンあるだろうし見てみたいけどとりあえずネットで手軽に見れるもののみ。

・ジーザス・クライスト・スーパースター (字幕版) 1973

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https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00JEZB8JO/ref=atv_dp_share_cu_r
→イエスの神っぽさ★★★★★
 舞台のそれっぽさ★★★★☆
 字幕の正確さ★★★★☆

イスラエルを舞台に撮影してるので、1番聖書っぽい雰囲気。ヒッピーのコミューンっぽさがあり、イエスのカルト宗教の教祖っぽさというか、超越した神々しさは今回見た中では1番。最後の晩餐の後ユダが去るときになぜか羊の大群に追われて行ったので爆笑してしまった。あと日本語字幕が1番忠実に訳されてる感じがする。

・ジーザス・クライスト=スーパースター (2000) (字幕版) 2000

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https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00HMD8QMM/ref=atv_dp_share_cu_r
→イエスのかわいさ★★★★★
 ユダのねちっこさ★★★★★
 字幕の正確さ★★☆☆☆

イエスがかわいい好青年。アイドルっぽさは1番だけど、あんまり頭は良くなさそうな感じ。ユダがイエスへの当て付けとしてマグダラのマリアへ見せる態度とか、なんかすごいねちっこい。イエス→ユダへの歩み寄りも1番描かれてる作品。舞台が謎。字幕も微妙。

・ジーザス・クライスト=スーパースター アリーナ・ツアー (字幕版) 2013

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https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00K2NDQTW/ref=atv_dp_share_cu_r
→イエスのいい人っぽさ★★★★☆
 ユダのユダっぽさ★★★★★
 字幕の正確さ★★☆☆☆

1番最初に見たバージョン。映画じゃなく、実際のアリーナでの舞台を撮影したもの。1番現代的に再解釈されていて、イエスは左翼活動家として描かれていてなるほどと思った。ユダがなんというか1番ユダって感じがした。イエスは賢くていい人そうな感じ。字幕は2000年版の映画とほとんど一緒だったと思う。このヘロデ王が1番イケてて、バク転が見所。

【参考文献など】
・『聖書』新共同訳、日本聖書協会、2001
→旧約・新約セットなので家に一冊あると便利。紙が薄くてページをめくるのが心地よい。後ろに用語解説や地図とかも載ってて優しい。アプリだと単語で検索できたり、他の翻訳に即座に切り替えられたり、聖句からおしゃれ画像を作れたりしてすごい便利だけど、書籍の方は四福音書の記述が他の福音書だと何章何節にあたるか書いてくれてて福音書を読み比べたいときには親切。

・太宰治「駆込み訴え」『走れメロス』新潮文庫、新潮社、1967年
→青空文庫にもあるので思い立ったときにすぐ読めて便利ですね。イエスとユダのBL的解釈の元祖といえばこれでは? 副読本にすると言いながらあんまり言及できなかった。この内容にまで突っ込み始めると文字量倍増、収拾がつかなくなりそうだったので…「好き」という気持ちの激しい移り変わりがリアル(?)ですよね。

・ミシェル・フイエ著/武藤剛史訳『キリスト教シンボル事典』文庫クセジュ、白水社、2006年
→キリスト教に詳しくなくても、西洋の文化芸術によく出てくるシンボルがどういう意味なのか・何に由来するのか解説してくれる事典でパラパラ読んでも楽しい。アダムとエバが食べた「禁断の果実」は実はりんごじゃなくてイチジクという説が有力らしい。すっごいりんごのイメージだったけど、たしかに言われてみればイチジクの葉で股間隠してたもんね…!!ってびっくりした。楽しい。

・山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書、岩波書店、2017年
→西洋中世の最大の神学者であり哲学者であったトマス・アクィナス。割と読みにくくて苦戦したけどトマス・アクィナスの入門として。アリストテレスと既存の神学を融合させようとした、かなり進歩的な人だったんですね。

・J.D.サリンジャー著/野崎孝、井上謙治訳『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモアー序章ー』新潮社、新潮文庫、1980年
・J.D.サリンジャー著/村上春樹訳『フラニーとズーイ』新潮文庫、新潮社、2014年
→サリンジャーはいいよね。やっぱりキリスト教の理解を深めてから読んだ方がもっと面白い。

・柄谷行人、蓮實重彦『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、講談社、2013年
→楽しい。蓮實んのチャーミングさ。

【おわりに】
最後にまたトマス・アクィナスを引き合いに出しますが、「愛のあるところ、そこに眼がある」という彼の格言があります。「恋は盲目」の反対で、愛しているからこそ見えてくる物事の深層があるということですが、今回ジーザス・クライスト・スーパースターを何度も見て、何度も歌詞を読み返してその意味が非常に実感できた。私は今まで何かについてオタクだったことがなかったんだと思う。このブログも書き進めては読み返すたび新たな気付きがあり、何度も行ったり来たり書き直して死ぬほど時間がかかってしまった。キリスト教については中高大とキリスト教系だったし馴染み深くてなんとなく分かってる気になっていたけど、ジーザス・クライスト・スーパースターを見て本当に衝撃を受けたし、そりゃ西洋文明の皆様がキリストや神について頭を悩まし続けてきた意味がマジでわかったよという感じ。これからも神に対し「なぜ…」と問い続けていきたいと思います。

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