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ヴェニスに死ぬべきか、生きるべきか

To be or not to be: that is the question.

残念ながらこれは『ヴェニスに死す』の紹介でも分析でもなく、ただただ「『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハが私かと思った」日記です。私って醜い初老の男だったんだ、という新鮮な驚きについて。

もともとTwitterで「シュトゥットガルトのバレエ・オペラ合同作品の『ヴェニスに死す』がとにかくやばいぞ!」という口コミを見て、慌てて鑑賞したところ実際にヤバかったんですが(黄金に輝く菩薩likeなアポロン、美少年阿修羅像、それらを見守り歓喜のガッツポーズを見せるスティーブ・ジョブズを彷彿とさせるAppleの新作発表会に駆けつけたファン(※ではない)、不気味なコレラ菌っぽい集団のダンス、、etc.)しかし物語後半になるほど「あれ…アッシェンバッハ、私っぽいな…もしやこれは…」と思い、急いで原作を読みました。(原作読んだことなかった)そして原作を読んだところ、こんなに今、私が読むべき本が他にあったか…???というぐらいナイスなタイミングだったので『ヴェニスに死す』を引きながらここ最近の自分の葛藤について書きますね。本当に「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ですね!(旧約聖書:コヘレトの言葉3:1)神の導きってすごい。


【あらすじ】

『ヴェニスに死す』のストーリー自体は非常に単純で、理性と意志の力によって整然とした文学世界を構築してきた作家であるアッシェンバッハが、ある日街角で見かけた異邦人風の人物によってめずらしく旅情を掻き立てられ、普段の自分の安定した日常生活からしばし離れバカンスを取ることを決意します。そして訪れたヴェニスで、「完璧に美しい」ポーランド人の少年タージオに出会い、彼の美に魅入られ、執拗に彼を目で追ううちに、ついに自分が彼に恋していることを認めることになります。しかしその時ヴェニスにはコレラの猛威が迫っており、コレラの流行を隠していたヴェニスの街ではあったが次第に減っていく観光客の様子を尻目に、アッシェンバッハはタージオへの思慕からヴェニスを離れることができない。そしてついにタージオとその家族がヴェニスを立つというその日に、アッシェンバッハはコレラで命を落とすことになったのでした…。

この間フォークナーを読んだ時もびっくりしたけど、トーマス・マンも文章うまくてびっくりしちゃった。流石にノーベル文学賞取るぐらいの人間は文章がうまい。私がどれほどアッシェンバッハに共感したかはこれからゆっくり見ていきますが、要は私も「完璧に美しい」(※当社比)男性に出会い、ハァこの人は顔面が大変に綺麗だな〜と感心するところから始まり、いつしか少しでも彼の姿をこの目で見たいと望むようになり、随分躊躇した後に、やはりこれは恋なのではないかと思うに至る、という非常に似た境遇に置かれているからなんですね。まさに今コレラじゃないけどコロナが流行っておりますしね。果たして私は東京に死すのでしょうか?


【美に対する後ろめたさ】

まず言っておかないといけないこととして、常々私は恋愛において「ルックスは全く重視しない、会話が楽しめること、倫理的な価値観が近いことが大事」などとのたまっているのであって、まあ平たく言えば「人は見た目じゃなくて精神が大事、お前の魂を見せてみろ」と息巻いているわけです。これは今でも変わってなくて、どんなにルックスが抜群でも価値観が全く合わなくて会話にならなかったらliterallyにお話にならないので、好意は抱けない。

それに加えて、そもそも私は「美」に対してすごく警戒心があるんですね。無邪気に美を礼賛することができない、特にそれが人間の美である場合、それを素直に好ましく思うこと自体も本当に躊躇われる。これは前回も書いたようなことだけど、自分がいかなる時と場所においてもルックスで判断されやすい性に属していることとも当然関係していると思っていて、自分がルックスで評価されることの苦しみを身にしみて感じているからこそ、自分以外の他者をルックスで評価するようなことはしたくない、いかなる形でもルッキズムに加担したくないという思いからです。単純ですね。無邪気に男性が「美女が」とか「美人が」とか言ってるのを目にするだけで傷つく。これは私がナイーヴすぎるとも言えるが、どうしたらそんなに無邪気でいられるんだろう??「美人」や「美形」をほめそやすのは何も男性に限ったことじゃなくて、女性でも同じように美人を賛美したりすることはよくあることだと思いますが、私はその気持ちも正直わからなくて苦しい気持ちになる。「美人」を賛美することは暗に「不美人」を否定することに繋がらないだろうか?「美しいということは良いことである」というあまりにも自明な価値判断は「美しくあるべき」という規範となり、我々に重い枷をはめてはいないだろうか?

どのような芸術家の本性にも、美を生み出す不公平を承認し、貴族主義的なえこひいきに共感と敬意を寄せる、度の過ぎた背信的な傾向が備わっているものである。
 トーマス・マン著 岸美光訳『ヴェネチアに死す』光文社古典新訳文庫/光文社/2013年 (以降引用は全て同)※kindleで読んだからページ数不明

これは三章でアッシェンバッハが初めてタージオの姿を目にし、その完璧な美しさに愕然とし、彼の姉妹たちと見比べてその様子の違いについて思案した後のセリフである。私が「美」についてどうにも素直に賛美できないのはここでアッシェンバッハが言ってる通り、美とは本質的に不公平なものだと思うからなんですよね。Far leftと呼称されるぐらい左寄りの私ですから( "Far left"とまで言われる身に覚えはないのだが)、美の不平等さには承服しかねるんですよね。これはたしかブレイディみかこがどれかの著作で引用していた Cambridge English Dictionary の definitionですけど、Leftとは〈the political groups that believe wealth and power should be shared between all parts of society〉:富と権力は、社会すべてで共有すべきと信じる political group であると。美は明らかに富であり権力なのに、再分配できないところがちょっとね。

相当雑な脱線が挟まりましたが、「人のルックスを評価するなんて言語道断・精神的なものこそ全て」的な価値観の私が「完璧に美しい」男性を好きになるなんてことがあっていいはずがない。この気持ちは一体なんなんだ? 私は彼のことを本当の意味で好きなのだろうか?(「本当の意味で」とは??)(好きとは???)「美」に目が眩んでいるだけではないのだろうか?


【おそれとおののき】

正直な話をすれば、一目見た時からもう好きだったと思う。普通に世界で一番顔が好み!と思った。どう見てもスーパーcuteウルトララブリーhandsome氏だった。あまりにも顔がイケていたので、どうにかなりたいとも思わなかったし、どうにかなるとはまるで思えなかった。あんまり会うと本気で好きになっちゃいそうだったから、なるべく会わないようにしていたと思う。好きになりたくなかったから彼に興味も持たないようにしていたし、なるべく心に壁を作っていたのに、気付けば私の目論見なんてすっかり瓦解していたのだった。彼の眼差し、微笑み、思わせぶりな甘い言葉、流暢なフランス語! もうだめ、そんなの、好きじゃん…。なんて狡いんだろう、蟻地獄のような男。ほら、こんなにも適切じゃない比喩しか出てこなくて笑えるけど、脳がすっかりだめになっちゃってるから勘弁して欲しい。(親しい友人にはお馴染みの姿ですね。)

比類のない愛らしさで頭部の美を花開かせていた、──それは、パロス島産大理石の黄色みを帯びたつやを持つエロスの頭だった。繊細で生真面目な眉、まっすぐに垂れかかる巻き毛に暗く柔らかく覆われた耳とこめかみ。

アッシェンバッハがタージオの細部を捉えて讃える描写に感心してしまったのだけど、私は同じように彼を描写しようと思ったところでとてもできない。スーパーcuteウルトララブリーhandsome氏としか言えない。そもそも彼の顔が思い出せない。一緒にいるとき、私は記憶に焼き付けられるほど彼をまじまじと見ることなんてできないから。ぼんやりとした記憶の中の、さらにぼんやりとした印象でしか彼の姿を見ることができない。彼の写真を撮ることもできない。カメラを向けるなんてそんなの失礼じゃない? とても無理だよ。まるで彼の見た目が好きみたいじゃん、いや好きなんだけど。風景の中にいる彼を画面に収めるぐらいがギリギリ。でも今マスクしてるから全然顔見えないの、はは。でもそれだから撮れるのかもしれない。雲のかかった太陽のよう。太陽自身を直接見ることはできない。

少年は言葉で言い表せるよりもずっと美しかった。そしてアッシェンバッハは、これまでなんどもそう思って胸の痛んだことなのだが、言葉は感覚の美をただ讃えることができるだけで、再現することはできないと思った。

私にはっきりと思い出せるのは、いくつかの仕草と、片側の耳朶にあるピアスの跡だけ。初めて見つけた時、「若いときにね…」と照れるように隠した彼の姿。


【彼の清潔さについて】

しかし、向こうで嬉しそうにそれぞれの楽しみに没頭しているロシア人の家族を見つけるや、怒りを含んだ軽蔑の嵐がその顔を覆った。ひたいが翳り、口が上に引きつり、唇が横に苦々しく引っ張られ、そのせいで頬に線が走った。きびしく眉をひそめたために、その力で目が落ちくぼんで見えた。その目は怒りに暗く、憎しみの言葉を吐くようだった。

アッシェンバッハへはマジで共感しかなくて驚くのですが、私の好きな人も割と率直に嫌悪や軽蔑を顔に表す人で、私はその彼の潔癖さが、自分のポリシーに反するもの、許容しないものに対する容赦ない冷たさが好きだ。

すぐに「商業主義的すぎる」と眉をひそめるのが好きだ。英語を教えてくれてるときに、彼の嫌いな語彙や言い回しが出てくると悲鳴をあげて嫌がるところが好きだ。こんな言葉絶対使っちゃ駄目だよと彼の流儀を押し付けてくるところが好きだ。煙草が嫌いで、煙草の臭いに明らかに嫌な顔をするのに私に付き合って純喫茶に行ってくれるところが好きだ。(そして煙いとやっぱり嫌そうな顔をしながら、珈琲を飲んでくれる。珈琲が不味い場合にはさらに顔をしかめて、「僕の淹れた珈琲の方が絶対に美味しいから今度飲んだほうが良いよ」と言ってくる。良すぎるから勘弁して。)台湾料理を食べに行く約束をして、待ち合わせの場所に着くとそこには渋い顔をした彼が待っていて、その瞬間私は事態を察するのだが、「この台湾料理屋は偽物だ、食べられないよ…。本物の台湾料理を食べさせてあげましょう」と言って(美味しんぼ山岡か?)鼎泰豊に連れて行くところが好きだ。
そして政治の話をしている時はとりわけ怖い顔をする。普段エレガントな表現を好む彼が、「Fu*king China」「Fu*cking communist」とか口走るのを見るとゲラゲラ笑ってしまう。(お生憎様 私は Fu*king communistでごめんなさいね、と言うと愉快そうに笑う。)「あなたは彼らをhateしてるからね」と私が言うと「hateじゃなくてdespiseだよ」といたずらっぽく顔を歪めて訂正してくるところが好きだ。ジョー・バイデンを「にこやかでniceに振る舞いながら、背後からナイフで刺すような奴」と"sly"という語彙を私に教えてくれつつ罵るところが好き。目を見開いて「リベラル」のことを "sheep" 呼ばわりして糾弾する様が好き。わたしが彼の言動について「それって随分 "sheep" みたいじゃん」と皮肉を言うとハッとして気まずげに羊の鳴き真似をするところが好き。可愛いかよ。最近彼は自分を卑下する時に「まぁ僕は "羊" だからさあ」と澄ました顔でメェメェ言うのが好き。

顔の良さについては何も覚えてないし何も書けなかったけど、彼が嫌悪感をあらわにしたエピソードは随分出たので笑える。どうか、彼の嫌悪や軽蔑が私に向けられる日が来ませんように。でも、もしも向けられたらゾクゾクしてしまうと思う。興味を無くされるぐらいなら、彼の憎悪が欲しい。彼の強い感情が欲しい。


【憧れは認識不足の産物なのか】

相手を知り、言葉でも交わしたいと思いながら満たされず、不自然に抑圧されることから一種のヒステリー状態が生じる。そしてとくにまた相手の存在を重く見る一種の緊張関係が生まれる。なぜなら、人が人を愛し敬うのは、相手を評価できないでいる間だけなのだから。憧れは認識不足の産物である。

御察しの通り彼は英語話者で、日本語はあまり話せないので私と彼とは英語でコミュニケーションを取っているのですが、マジで未だに私の英語力がクソなので自分の言いたいことの1/5とか、ニュアンスとかで言えば1/10ぐらいしか表現できてないと思う。その割彼は私のことを"Far left"とか言って揶揄ってくるのだが、私の乏しい英語力で、そんな過激な発言をした覚えもないのにいつの間に "Far left" と呼ばれているのか謎だし不安である。

それにしても、英語でコミュニケーションを取ることの弊害は(コミュニケーション自体碌にとれてないというところはさておき)、話した内容をちゃんと覚えていられないということである。短いセンテンスであれば正しい英語の文章としてそのまま覚えていられるのだが、ある程度入り組んだ長い発言になると、言ってることはわかるもののそれを文章として捉えて保存することができなくて、日本語に翻訳したふんわりとした印象しか残らず、この自分の「翻訳」が挟まっていることによって、だいぶ恣意的に彼の発言を歪めている可能性が大いにあって恐ろしい。たとえば彼の一人称を「僕」としているけれど、実際に彼は「僕」とは一度も言っていないし(「日本語の一人称で使うなら「僕」だね」とは言っていたが)ここで書いてる彼の発言も全てわたしの創作で、彼は一言もそんなこと言っていないのではという気すらしてきて怖くなるな。まぁそもそも恋愛なんて自分の幻想を相手に投影するものだからね… とか言っちゃおしまいですよ。彼の言ったことを、正しく彼が言った通りに留められるようになりたいし、恋で曇った目ではなくクリアな視界でちゃんと彼を認識したい。

でも、もし仮に彼と私のコミュニケーションが英語ではなく、日本語だったらどうだっただろうか? もっと早い段階で、私たちの間には共通点が全然ないとわかってこの熱情はすぐに冷めていただろうか? 私がこれほど彼に焦がれているのは、私が彼を全然理解できていないからなのだろうか?


【あまりにも貴重】

もう遅い!しかし本当にもう遅いのだろうか。踏み出し損なったこの一歩は、もし踏み出していたら、ひょっとして良い方向に、気楽な方向に、心を冷まし癒してくれる方向に導いてくれたかも知れない。しかし、老いていく男はそんな冷却など望まなかった。陶酔があまりにも貴重だったということこそ肝心なのである。

そしてこちらが私がまるで「老いた男」であるということに気付いて愕然とした箇所になります。もしかしたら心を冷ますチャンスは今までに何度もあったかもしれない。正直やっぱり無理だと思って、隙を見て諦めようとしたこともあった。大分落ち着いて、すっかり自分のいつもの生活パターンに戻れたかと思った。でもやっぱりこの「陶酔」はあまりにも貴重だった。ここからもう一歩踏み出したら何か変わるかも知れない。良い方向にであれ悪い方向にであれ、いずれにせよ蹴りがつけば今よりスッキリして楽になるだろう。それでもこの状態を終わらせたくなくて、この関係性を壊したくなくて、じりじりとした距離を未だに保っている。

先日、二人で飲んでる時にどうしても触れたくなって、黙って手を差し出して彼に「お手」を要求した。(今思い返すと完全に「お手」だった。)彼は「ん??」という感じで少し躊躇った後渋々お手をしてくれたのだが、手を握りながら "treading water" だと言ったと思う。その場では意味がわからなくて、彼もうまく説明ができないと言って誤魔化したけど、今調べたら definition は "to stay floating upright in deep water by moving your legs."  あなたは必死に溺れないようにしているということ? 足元に深い水を感じて? 

あっ待って definition (b) がありました。"to make no progress in a particular situation, especially because you are waiting for something to happen." こっち??? Are you just waiting for something to happen????   狡い男。


【デーモン】

それでも彼が苦しんでいたと言うことはできない。頭と心は酔いしれていた。その足取りは、人間の理性と威厳を踏みにじって喜ぶデーモンの指示に従っていたのである。

このくだりを読んで思わず笑ったのには訳があって、前に自己流でタロット占いをしていた時に、(このまま彼を好きでいていいのだろうか、この恋はこの先どうなるのだろうか…?)と念じてタロットをひいたところ、出たのがまさしく「悪魔」だったんですよ。爆笑した。キーワードは「呪縛」。

【現在の状況】:誘惑が迫っている/とらわれたまま進歩しない/現状に甘んじている/わずかな気の緩みですべてを失いかねない/欲望まかせ/無秩序な環境

【人の気持ち】:わかっていてもやめられない/所有欲を刺激される/甘えや依存心の強さ/しかたがないと言い訳をする/まんざらでもない

【問題の原因】:理性が働いていない/「もっと欲しい」という欲望を抑えられない/タブーへの憧れ/誘惑されるとあらがえない意志の弱さ/刺激を求める心

【未来の行く末】:誘惑される/なにかどうしようもなく心を奪われる/無意識に依存する/魔がさすような出来事/一瞬の気の迷いで全て失う/長引く
 LUA『78枚のカードで占う、いちばんていねいなタロット』日本文芸社

問題の原因、「理性が働いてない」その通りですね。めちゃくちゃ当たってる気がして笑える。これ一発で自分のタロットの才能を確信しましたね。よかったら占います。


【己の醜さに絶望する】

恋する者の例に漏れず、彼は相手に気に入られたいと願った。そしてそれが不可能かも知れないという苦い不安を感じた。彼は自分の服に気分を若返らせてくれる小物を付け加えた。宝石を身に付け、香水を使った。昼間はたびたび身繕いにたくさんの時間を費やし、おしゃれをして、高揚し、緊張してテーブルに着いた。自分を魅了した甘やかな若さを前にすると、自分の老いてゆく体に吐き気を催した。灰色の髪や尖った顔立ちを見ると、恥ずかしさと絶望に突き落とされた。

はい、そしてこれ。タージオに出会う前、ヴェニスに向かうフェリーの中でアッシェンバッハは若者の中に混ざった「偽物の若者」を見つけ、無理に自らを飾り立て若く見せようとする醜い老人にぞっとして侮蔑の目を向けていたわけですが、恋をした彼は愚かにもまるで同じ振る舞いをしてしまうんですね。いやしかし……本当に死ぬほどわかるとしか言えないですね。泣いちゃう。「恋する者の例に漏れず、彼は相手に気に入られたいと願った。そしてそれが不可能かも知れないという苦い不安を感じた」「自分を魅了した甘やかな若さを前にすると、自分の老いてゆく体に吐き気を催した。灰色の髪や尖った顔立ちを見ると、恥ずかしさと絶望に突き落とされた」本当に、本当に…。

私は彼に気に入られたいと願った。そしてそれが不可能かも知れないという苦い不安を感じた。前よりも身繕いに時間を費やすようになった。それでも、自分を魅了した甘やかな美しさを前にすると、恥ずかしさと絶望に突き落とされる。しかもさ、彼は男性で、当然素顔で、それでもあんなに美しくて、私は彼の隣に立てるように少しでもマシになりたくて化粧をするわけだけど、なんだか不正を犯しているような、何か不自然でグロテスクな行為をしているように感じてしまう。それでも私はそれを止めることはできない。

前にルッキズムについて話をした時、彼は(一部過激な部分があるものの)良心的な人なので「ルックスで人をジャッジすることなんてしないよ」と言ったわけなのですが、それと同時に「とはいえ美しいものには魅了されてしまうよね、shamelessly に」と言っており、"shamelessly" という言葉がそれからずっと心に残っている。私もまさに今 shameless な人間と化しているわけだけど、「美に魅了される」ということはやはり shameless なことなのだろうか。私はとても怖い。あなたの美に惑わされている shameless な人間は、私の他にどれぐらいいるの? あなたはそんな人間にはもううんざりしているだろうか。

アッシェンバッハが身繕いに心を砕き時間を費やすことの滑稽さは、それが本来の彼自身が持つ美質と一切関係がなく、かえって彼の良さを減じてしまうという悲哀にあると思うんだけど、私もまた同じように、自分のルックスに拘泥してそこにリソースを費やすというのはあまり正しい行為ではないなと分かっているんですよね。私はアッシェンバッハのような実績のある高名な作家でも何でもないけれども、自分なりにいろいろ勉強してきて積み上げてきた細やかなだけど大切ものがあるというのにそれを投げうって、自分のフィールドではないと諦めて半ば見下げてきた「美」に今更取り組もうなんて間違ってると思いますよ。しかも彼も「あなたの intellectual なところが好きだよ」と言ってくれているというのに、それでも私は鏡を睨みつけることを止めることができない。だってあなたは unsightly なものが嫌いでしょう。unsightly なものに眉をひそめるあなたの顔が目に浮かぶよ。私はわたしのことがとても恥ずかしい。彼と向き合っていると、時々恥ずかしくて顔を覆いたくなる。机に突っ伏して泣きたくなる。(一度実際にやった。)私の一体どこがintellectual なんだ? あなたはちっともわかってないよ。


【太陽が忘却させるもの】

彼の記憶は、青年期にすでに受け取り、このときまで自分の炎では一度も煽ったことのない極めて古い思想を掘り起こした。そこには、太陽がわれわれの注意力を、知的な問題から感覚的な対象に転じさせる、と書かれていたのではなかったろうか。つまりこうだ、太陽は知性と記憶を大いに麻痺させ、呪縛する、その結果、魂は深く満たされて自分の本来の状態を忘れ果て、陽光の恵みを受けたものの中でも最も美しいものに驚愕し、それを賛美し続ける。それどころか、肉体の助けを借りなければ、より高い考察に進むこともできなくなるというのだ。

前回note書いたのが5月の誕生日の頃で、あの時は「こういうテーマについて勉強して、どんどん文章書くぞ!」みたいな意気込みに溢れていたというのに、もう7月。何してたと思う? 気を失ってた。知性と記憶は大いに麻痺して、すっかり呪縛されていました。ほら、タロット占いで「悪魔」(呪縛)が出てたでしょう、その通りになったよね。6月は結構会うことができたし、デート中私の感情が暴発して・机に突っ伏して泣いたり・好きって言ったり・強引に迫ったり・また突っ伏したり・破茶滅茶なことを喚いたりして、多少進展したような気もするものの、相変わらず本が読めない状態が続いているのでとりあえずこれを書いてしまうことにしました。この文章だって書き始めたの5月末ですからね。いつまでこうなのかな?  私はこれで良いんだっけ…恋愛ってこんなことで良いんでしたっけ…と思って『ヴェニスに死す』にも出てくるわけだしと思って『パイドロス』を読みました。

はじめにパイドロスが恋愛について「自分を恋してくれる人がそばにいても、むしろ自分を恋していない者のほうに身をまかせるべきである、それは一方の人が狂気であるのに対して、他方は正気だからである」という趣旨の話をするんですね。で、私は「あ〜〜本当にね、恋なんてどうせ冷めるんだし、そんな一時的な熱情に身を任せるなんてやっぱり間違ってるよね。狂気狂気。」と思って、私はもっと早くに『パイドロス』を読むべきだったな、『饗宴』を今まで読んでたのが間違いだったなと反省したんですが、その直後ソクラテスはこのパイドロスの持ってきた説を全否定して全然違う持論を展開し始めるんですよ。「その話は狂気が悪いものだということが無条件に言えるなら根拠をもっていたかもしれないが、神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」とソクラテスは主張します。さらに「この狂気こそは、すべての神がかりの状態の中で、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、最も善きものであり、また最も善きものから由来するものである」と言い切るものだから、うっかりこの恋という名の狂気がソクラテスによって承認されてしまったんですね。おいソクラテス、頼むよ、私をもっと反省させろよ。いいの?これで。


【なぜなら美は】

なぜなら美は、パイドロスよ、ここをよく注意してくれよ、ただ一つ美だけが神のものであると同時に肉の目で見えるものなのだ。だから美は感覚を授かったものの道なのだ、可愛いパイドロスよ、芸術家が精神に至る道なのだ。ところで、愛する者よ、おまえは、精神に至ろうとすれば感覚を通過するしかない者が、いつか叡智と本物の男子の威厳を獲得することができると思うだろうか。それともむしろ、これが魅力的であっても危険な道だと、ほんとうに罪深い迷い道で、ここを行けば必ず道に迷うと思うだろうか。というのは、おまえには、私たち詩人が美の道を行けば、必ずエロスが道連れになって案内人を気取るということを知っておいて欲しいからだ、そうなのだ、私たちが私たちなりのヒーローで、したたかな戦士であるとしても、私たちは女みたいなものなのだ。なぜなら私たちの刺激剤は情熱で、私たちの憧れは愛と決まっているからだ、ーーこれが私たちの喜びであり、私たちの恥辱なのだ。さてこれで、私たちが賢くなることも、威厳を持つこともできないということをわかってもらえただろうか。私たちが否応なく道に迷う、否応なく放埓で、感情のアバンチュールを求めてやまないということを。私たちの文体の巨匠然とした身構えはインチキで、烏滸の沙汰なのだ。

「これが私たちの喜びであり、私たちの恥辱なのだ。さてこれで、私たちが賢くなることも、威厳を持つこともできないということをわかってもらえただろうか。」
はい、トーマス・マン、マジでよくわかったよ。
このすぐあとにアッシェンバッハはコレラによって命を落とすことになるのですが、本当にさあ、デートしたいのに新型コロナがまた流行りだしてますからね。本当に信じられない。あんなに家から一歩も出ないで引きこもってたのに、彼にご飯に誘われれば間違いなく行きますからね。私もうっかり疫病にかかって死ぬかもしれない。果たして私は東京に死すのでしょうか。

そういうことだ、私たち詩人をそこへ導くのだ、なぜなら私たちは上昇することができないからだ、放埓に身をもち崩すことしかできないのだ。だから私は行こう、パイドロスよ、おまえはここに留まれ。そしておまえの目に私の姿が見えなくなったら、その時こそおまえも行くがいい。

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