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サーティワンにおける課題

五月は私の一番好きな季節ですが、五月の良さを味わうこともほとんどないまま今年の誕生日を迎えた。年を重ねるほど年齢を表す数字の意味のなさを感じ、数字がただ増えていくことに対してどうでも良さが加速していますが、とはいえ身体の方は私の意思など介さず粛々と老いていくのだから、もう少し気にすべきなのだろうなとは思う。文脈は違いますが坂口安吾も「恋愛論」のなかで下記のように述べているもんね。

プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互に他を裏切ることが宿命で、われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。
 坂口安吾「恋愛論」1947年

最近はもう脳における記憶媒体の容量が限界なのか、I/Oの問題なのかそれともメモリが足りてないのかわからないけど、とにかく咄嗟に何かが出てこないことが多くて頭を抱えている。肉体、私を裏切ろうというのか? My body, must you betray me with a kiss...?  はっきり言っておくが、「裏切り」は最も重い罪なので地獄の最も深いところ、第九圏のコキュートスに落とされて首まで氷に浸かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らすことになるぞ、永遠に。
では肉体が地獄に落ちる頃、精神の方はどこに行くのか?ということになりますが、精神もまた常日頃から肉体を騙し、抑圧し、裏切ることが常習になっているのであれば精神もまた地獄行きは確定なのであって、結局のところ精神も肉体も仲良く二人揃ってコキュートスに浸かる形になるわけですね。よかった、私たち、死後にも引き裂かれて離れ離れになることはないのね。

それにしても「肉体」と「精神」の対立という心身二元論は、本当に伝統的な西洋の発想ですね〜という感じですが、西洋思想の源流であるプラトンが『ティマイオス』の中で語っている心身の成り立ちの話が大変良いのでこの機会に紹介しておきますね。この話ずっとしたくてうずうずしてたので。

まず前提として、古代ギリシャはキリスト教やユダヤ教的な一神教の世界ではなかったので、神も大勢いて神の中にも序列があったんですね。その中で1番偉い取締役社長(※他に会長や株主はいません)みたいな神が、まず最も重要な核となる「神的なもの」つまり魂を作成しました。で、実際に世界で流通させるために魂を入れる物理的なパッケージについては、まぁいい感じにやっといてよ、ということで部下の神たちに一任することにしました。
部下の神たちは、社長が宇宙や天体を「最も完璧な形状」である球状に拵えたことを真似て、神が作った高貴な魂もまた完璧な形状である球体に入れるべきだろうと考えて球状の「頭」を作り、そこに魂を入れたんですね。
ところがどっこい、人間のプロトタイプとして「頭に魂が入ったもの」が早速出来上がったわけですが、それが地面をゴロゴロ転がる様子を見て、これはちょっと…流石にまずいのではないか?と部下たちは直感しました。これでは山あり谷あり・デコボコの地上においては、即座に魂が困難と汚辱にさらされてしまう…。そこで、部下たちは多少不恰好にはなるものの、魂が直接地面を転がって移動しなくて済むよう「身体」というものを作り、「頭」の下に据え付けたんですね。それにしても神がボストン・ダイナミクスに「身体」の部分を発注してなくてよかったな〜と個人的には思っています。

【身体の部分をボストン・ダイナミクスに発注されていたらこうなっていたかもしれない人類】

さて、「頭」を持ち運ぶ手段として考案された「身体」ですが、これを動かすためにもまた魂が必要でした。社長なる神が作った「魂」は「神的なもの」であり、それをプラトンは「知性」や「理性」と呼んでいますが、部下たちによって後から足された身体の方にはやむなく別の種類の魂、「死すべき魂」が導入されました。しかし「死すべき魂」には「それ自身のうちに怖るべき必然的な情念」を持っていたのでした。

 ①悪へとそそのかす「快」
 ②善を回避させる「苦」
 ③無思慮な忠告者である「大胆」および「怖れ」
 ④宥めがたい「怒り」
 ⑤迷わされやすい「期待」

西洋の古い絵画(「中世」と気安く呼ぶと中世警察が怖いので言わない)で、よく天使が頭部から直接羽が生えた状態で描かれいるので、気色悪いなぁマジで何なのって疑問に思ってたけど、多分天使は「情欲」を宿した身体を持っていないということなんでしょうね。(憶測)

そして、神々は、やむをえない場合を除き、まさにこれらの情念によって神的なもの(知性)を穢すことがないようにと畏れ憚って、死すべき種族を神的なものから離して、身体の別の住居に住まわせた。そして、それを隔離するために、頭と胸の間に頸を置くことで、両者の境界にあたるものとして地峡のようなものを作った。こうして、神々は、胸の中に、あるいは、胸郭と言われているものの中に、魂の死すべき種族を縛りつけようとしたのである。
 プラトン『ティマイオス』白澤社,2015年,P124

というわけで首は「神的なもの」と「死すべき種族」を引き離しつつ繋ぎ止める架け橋となっているわけです。そうするといかにキリンが恭しくその「神的なもの」を死すべき身体から離して高く掲げているかわかりますね。そう言われると私も首を長く、細くしたい気持ちになるな、なんとなく。(プラトンは人間以外の四つ足の生き物などはそもそも「神的なもの」=理性たる魂を用いていないとお考えのようですが。)(ちなみに『ティマイオス』は痛烈な水棲生物へのdisによって幕を閉じており、謎の終わり方で笑える。「四番目の、水の中に棲む種族は、もっとも愚かで無知な人から生じた。形を作り変える神々は、彼らはもはや純粋無呼吸には値しないと考えた。彼らの魂は、ありとあらゆる過誤によって、不純な状態にあるからである。そこで、微細で純粋な空気を呼吸させる代わりに、水の濁った深みへと突き落として、それを呼吸するようにさせた。魚類や貝類や、その他すべての水の中に棲む種族はこのように生じた。極度な無知に対する罰として、最果ての住居を割り当てられたわけである。」)
ティマイオスを読むと、プラトンは輪廻転生的な考えを持っていたように思える。「知性と愚かさを失うか得るかによって」すべての生き物は姿や場所を帰ることになるとのことで、今人間のわれわれもあまりに無知で愚かでいるとネクストステージは水中になると。「私は貝になりたい」ってそういうことだったんですね。(違う)

え〜っと私はなんで『ティマイオス』なんか読んでたんだっけ…。もともとは年を取るということについて、老いて身体が衰えるということから「精神」と「身体」の関係について考えてたんだった。
「精神」と「身体」問題、最近は昔ほど思い悩まなくなったというか、単に身体に向き合うことを放棄していたんですけど、やっぱりそれはそれでよくないし、ちゃんと身体のことも考えないとなというところ。
プラトンも読んでると色々と思うところはあるものの(ナチュラルな女性蔑視など)、あれだけ魂(理性)と身体を質の違うものと定義して徹底的に身体を蔑視していると思いきや、美は善であり・美とは釣り合いであるということから魂と身体の釣り合いが大事であると説いているので、やはりプラトンは賢い、というかよく釣り合いの取れた人だなあと感心させられる。
でもやっぱり、「大事なことは、身体を伴わないで魂だけを動かすことも、魂を伴わないで身体を動かすこともしないことだよ」とプラトンに説かれても、なんか突然意識の高いヘルシーライフを送るヨギーからの言葉みたいな感じがしてしらけちゃうよね。絶対白湯飲んで、毎日瞑想してるんでしょ。いや、いいんだけどさ。

私は昔から「精神」と「身体」の乖離について悩まされてきたというか、「身体」というものに対してどう折り合いをつけていいのかずっと悩んでたんですよね。それはやはり自分が女であるというのも大きな要因であって、ナチュラルに見目で判断されることが多い中で、ファッキン・ヘテロセクシャルたる私が異性に受け入れられるために所謂「異性ウケ」する見目、身体に自身を近づけようとすると、それがどんどん自分と関係のないものに近づいていく感覚。そしてそういった「身体が自分と関係ないものになる感覚」を助長させていたのは、「その見た目なのに内面は×××だね」という時には賞賛であり・時には侮辱である無邪気なジャッジメントだったと思う。こういう無邪気な感想をくれるの、よく考えるとほぼ男性だったな。一体どういう立場から・どういう意図をもって発せられる感想なんでしょうね。怖すぎ。それはさておき、「身体」について考える時よく思い出す文章があって、多分前にもどこかで引用したんだけど改めて引用してみる。

アニェスは羨ましい思いで年とった男たちを見ていた。彼らは老い方が違うと感じていた。彼女の父親の身体はごく僅かずつ父親自身の亡霊に変化したり、非物質化したりして、もはや投げやりに人間の姿をとった霊魂のように、この世にとどまっているにすぎない。それにひきかえ、女の身体は役に立たなくなればなるほど、身体になってゆく。重く、そしてかさばって。解体の運命にある古い手工業の工場にそれは似ているが、その工場にたいして、ひとりの女の自我が最後まで管理人としてとどまっていなければならないのだ。
 ミラン・クンデラ『不滅』集英社文庫,1999年,P164

言わんとしていることが凄くわかって、女の身体を持って老いていく運命にある私としてはしんどくなるんですが、今読むと「女の身体は役に立たなくなればなるほど」という一文を男性であるクンデラが書いてると思うと、女の身体の価値を利用価値としてみている男性の視線が感じられて吐きたくなるな。でも事実、だいぶ先とはいえ待ち構えている更年期障害のこととかも考えると、重く、かさばり、身体はより一層私の足を引っ張ることになるんだろうなということは予想がつく。その一方で男性の身体がその実在性が弱まり・透明化していくとされているのは、思うに己を振り回す欲望(主に性欲)が弱まって、身体に引き摺り回されることが少なくなるということを言いたいのかしら、と想像する。私は女性の身体しか持っていないので、男性にとって男性の身体がどんなものなのか、男性の性欲がそんなに女のものとは違うものなのか、理解しようがないんですけどね。なんというか男性って自分たちの性欲を、女のものとは違う特別なものだと思ってる節がありますよね。まぁ私もそういう世界で育っているからこそ、男性の性欲が女性のそれとは違ったもののように捉えているとも言えるんだけど。

更年期障害については、前にイヴォンヌ・レイナーの『特権』という映画で取り上げられていて、更年期についてのインタビューがメインに据えられ、女性にとっての老いという問題だけでなく、経済的格差や人種差別についての問題提起にもなっていて非常に良い映画だった。曰く、「閉経時に尊厳を保つのは体制と戦うようなもの」とのこと。そしてそのインタビューの中で「5年間汗をかき続けた」という発言を聞いた時、自分が幼い時に母がやたらとだらだら汗をかいていたのを思い出し、あれは更年期障害だったのかと、ぶん殴られたような衝撃を受けてぼろぼろ泣いてしまった。きつかっただろうに、何も知らず、無神経にからかったりして、本当に申し訳なかった。きっと誰にも気遣われず、母は一人で汗をかき続けた。映画の中で更年期障害の対処としては、子宮を切除してしまうか、女であり続けるためにホルモン剤を摂取するか、という選択肢を提示しつつ「誰も男を一生ホルモンづけにして、男らしさを維持しようとは思わない」と言う。中には「男らしさ」を維持しようとする男性もいるだろうけど、女性は自らを健やかに保つために己の女性性を完全に切除してしまうか、あるいは女性性を自然な状態より過剰に摂取する必要がある、と思うと本当になんだろうねこの不公平さは、と思っちゃうな。つい最近炎上してるホリエモンの「低容量ピルで働き方改善」もさ、本当に最悪で批判が追いつかないという感じだけど、根本的にはこれも男性が女性の身体を持っていないということに由来する部分もあるだろうし、なんかもうね。お互いに絶対に理解できないのだからこそ、想像力を最大限働かせましょうね、と言いたいところだが実際にはそんな甘い話ではないので、本当にどうしたらいいのかなぁと日々悩み続けています。
ところでどうでもいいことだが、上記の『特権』を見てボロボロ泣いてしまった話を当時デートしていた精神科医の男性に話したところ、「どうして泣いちゃったのかな?」という最低な精神分析がスタートしそうになり頭が真っ白になった。見える、見えるぞ、「どうして泣いちゃったのかな (*´-ω・)ン?」語尾にキモい顔文字が見える。こういう不気味な歩み寄りを受けると、「精神分析みたい。埋めた子供を掘り起こせば謎は解けるとでも思っている」というクリス・クラウスの文章をすかさず思い出しますね。(『アイ・ラヴ・ディック』新潮社,2000年)結局彼とは「人間は分かり合えない」という結論に達して解散しましたが、人間と人間が対話し、分かり合うというのは本当に難しいですね。

え〜〜〜と、タイトルを「サーティワンにおける課題」とした通り、誕生日を迎えたところで今年の目標というか、今年テーマに掲げて勉強したい課題について整理しようと思ったのに長々と身体について書いてしまった。こうやって本来書きたかったことからどんどん脱線するの私は好きなんですけど、当て所なくさすらいつづけるのも如何なものかと思うので今年はもう少しちゃんと構成を持ったものを書けるようになりたいな、というのは一つの目標ですね…。

今年に入ってからのテーマは主に
⑴ BL(そして百合)
⑵ 信仰と宗教
⑶ 異議申し立てとしてのスピリチュアル
という感じなので、これらに沿って読書を進め、適宜文章という形にしていけるといいなぁと思っています。

⑴ BLについては、そもそも何故こんなにも女性のあいだで「BL」というコンテンツは人気なんだろうかという疑問からスタートしたテーマではあるんだけど、私も私で最近は何かにつけ「BLだ…」と胸を打たれてしまうので、どちらかというと後者の私が「BL」だと思った関係性の事例を取り上げ、そこに私は何を見出し・何に胸を打たれたのかひとつひとつ見ていくような形にしたい。すでに薄々気づいていることとしては、私が胸を打たれているものは別に「BL」という語に一般的に想定される「男性同士の恋愛あるいは関係性」ではなくて、それは女同士でも男女間であってもいいものなのに、「何故か男同士の関係性で見つけやすい現象」なので、では何故それが男同士で生じて、女同士や男女の間ではなかなか見つけられないんだろう?という話にもなってくると思う。更に言ってしまえば、私が「BL」に見出して羨ましく思うものを、ファッキンヘテロセクシャルの私としてはいつか自分と男性の間にそれを見出したい、というところにつながるんですよね。まぁ、今の所ファッキンヘテロセクシャルだと思ってる自認も勘違いかもしれないので、検討を重ねていった結果、全然想定しているところとは違う地点に着地する可能性も大いにありますね。

⑵ 信仰と宗教については、よくごっちゃにされるけれど、私としては明確に違うものだと思っているのでそのへんをもう少し知識をつけた上で自説にまとめたいと思ってるところ。簡単に言ってしまえば、「宗教」は共同体の問題だと思っているので、それ故の限界と可能性について考えたいですね。あとはシンプルに私は宗教とか信仰とか神の話が大好きだから。この間友達と話していたら突然相手が「もう神と愛の話しかしたくない!」と言うので思わず笑ったけど、私も基本的に神と愛の話しかしたくないし、⑴と⑵をあわせて神と愛の話ですね。

⑶ 宗教とか信仰とか神の話が大好きなんだから自然なことかもしれないが、スピッた話も好きなんですね。これは⑵とも繋がる話だけど、やはり「宗教」というものが「権威」になり・それを元にした「共同体」を作った時、どうしてもそれでは救われない人々、疎外される人々というのが出てきてしまうのであって、そうした人たちを救うオルタナティブな選択肢として「オカルト」や「スピリチュアル」が機能した/するのではないかという話。権威への異議申し立てとしてのオカルト。あとは私の好きな「スピの者」についても書きたい。

というわけで長々と脱線しましたが、適度に運動して身体の面倒も見つつ、ガシガシ勉強して文章を書いていくぞ、という所信表明でした。

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