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何かを貰って、考えた時間

生前に葬式を自己プロデュースしたくなるのは、多分不味い式に参加したからなんだろうなと思う。歴史的にも式は意味のあるものではあるけれど、とにかくオプションに次ぐオプション…、見栄の世界なのかぁとか。

明日で父が旅立って一ヶ月経つ、短い間に色んな経験をさせてもらった。
終末についてオープンに語られることが少なく、年齢も限られている世界なんだなと思った。共感し寄り添えるのも、その経験をした人だけかもしれないので、気軽に知れることでもないのだけれど。

最後に家族で向き合えた。弔問に来てくれた人の感情には共鳴したけれど、私は当事者としてあまり大きな感情の波は無かった。後になって何かわかるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。成人して離れて思ったのは、家族であっても「個人」であり、家族であったことが呪縛だった部分もあった。物理的にもそれに縛られていない時間が人生の半分に近づいたので、あまり波立たないのだとも思う。

とにかく想定がことごとく違っていて、ドラマの見過ぎのような気もしていた。それともドラマでしか経験ができない世の中になっているのかな。私が「家族」について自分自身がちゃんと言語化できていないのだと思うが、これは一人では限界があり致し方ないかなと思っている。ただ、この時間を過ごして色んな想いが巡ったことは、財産になったと思う。

過去に捕らわれ過ぎると「今ここ」を生きていけなくなる、「たら」「れば」は無し、残された側もよりよく生きていく必要があると思う、今も変わらずそう思っている。

そろそろ、自分の思う次を目指さそう。

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