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ふたつの肖像

先日、東京国立近代美術館の展覧会「重要文化財の秘密」を観にいきました(※5月14日で終了しています)。
数々の有名な「重文」が並ぶなか、わたしのお目当ては、中村つねの油彩「エロシェンコ氏の像」でした。
インドカリーで知られる新宿中村屋の創業者であり、随筆家でもある相馬黒光こっこうの著作を通して、かねてからエロシェンコに勝手に親しみを感じてきたわたし。
今回の展覧会では、ミュージアムグッズとして「エロシェンコ氏の像」をイラスト風にデザインしたトートバッグがあると知り、これはぜったい手にいれなければ! と意気込んで上京しました。

エロシェンコは、大正時代にロシアから来日した、いわば「漂泊のアーティスト」。彼の祖父がウクライナからの移住民であったことから、自身はウクライナの血を強く意識していたと言われます。
幼い頃の病気がもとで視力を失った彼は、按摩での自立を目指し、1914年に日本にやって来ました。
エスペラント語を話し、楽器の演奏、詩や童話の創作も手がけるなど、芸術の才能に恵まれていたエロシェンコ。やがて日本の文化人たちとの交流が生まれ、新宿中村屋のおかみさんである相馬黒光と出会います。
当時の中村屋は芸術家が集うサロンでもあり、その縁でエロシェンコは同時にふたりの画家の油絵のモデルとなりました。
その一枚が、重要文化財であり今回の展覧会に出品されていた中村彝の「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵)です。もうひとつは、鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」。鶴田の作品は、新宿中村屋が所蔵しています。

中村彝「エロシェンコ氏の像」
(東京国立近代美術館のサイトより)

鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」
(新宿中村屋のサイトより)

中村彝と鶴田吾郎の二枚のエロシェンコ像について、相馬黒光がこんなことを言っています。

中村彝さんの画いた詩人らしいエロシェンコと、鶴田吾郎さんの画いた自我的で野性的なエロシェンコと、二つの肖像をならべて見る時、どちらも真実だと思います。この二つの肖像画は私がエロさんを彝さんの落合のアトリエへ伴れて行き、彝さんと吾郎さんとが両方から見て同時に描いたのでしたが、はからずも二人の芸術家がその性格の半面ずつを表現しているところ、芸術の妙に驚くものであります。

相馬黒光『黙移』

たしかにふたつの肖像画を見比べてみると、同一のモデルながら、印象が微妙に異なります。しかしひとりの人物に、穏やかな表情と、野性的な表情とがあるということは、矛盾ではありません。人間はいろんな面をもちあわせているものですよね。
黒光によれば、エロシェンコは「詩人的で空想家」であると同時に、「議論好きでエゴイスティック」な人物でもあったといいます。
この二枚の肖像画を見比べることによって、そんなエロシェンコの人間味がより伝わってくる気がします。(わたし個人的には鶴田のエロシェンコ像のほうが好きです。)

唐突ですが、ここから想起したことを述べたいと思います。

2018年6月、わたしはウクライナを訪ねました。
旅の最終日、キーウ(キエフ)の街を歩いたのですが、このとき現地のガイドさんがランチに連れて行ってくれたのが、一軒のピザ屋でした。
そこは東部戦線からの帰還兵が働くための場で、ガイドはそういう状況を見せたいという思いがあって、そのお店をチョイスしてくれたようでした。
しかし当時、知識のなかったわたしは意味を深く考えず、ミリタリー調の内装にびくびくしながら、でもピザはおいしくて、満腹になって早めに店を出て街をぶらぶらし、独立広場のあたりでお土産を買ったりしたのでした。
キーウは、歴史が息づく美しい街でした。
2022年2月24日以降、あの街に起こっていることが信じられません。けれど、振り返ってみると、街のなかに前述のような経緯のお店が存在したということは、日常につねに戦争の影があったということではないでしょうか。それをわたしはよく見ていなかったのだと痛感します。

飛躍するようですが、先のエロシェンコのふたつの肖像画と、キーウのことは、わたしのなかではつながっています。
ひとりの人物にも相反する面、いくつもの面があるように、穏やかで美しい街の風景にも、穏やかざるものがどこかに隠れている。
ひとつの事物は単純ではない。
そんな当たり前ですがつい忘れがちなことを、この肖像画のエピソードは思い出させてくれました。

さて、「重要文化財の秘密」観覧後には、エロシェンコのトートバッグをぬかりなく購入しました(写真)。この作品をグッズのモチーフにチョイスしてくださった方に感謝します!
美術館を出るとちょうどお昼どき。偶然、東京駅の地下街で新宿中村屋系列のお店を見つけたので、カリーを食べて帰路につきました。

エロシェンコは、日本を去った後も各地を放浪し、1952年、故郷に戻り病のため亡くなります。62歳でした。
その年の正月、すでに死期を悟っていた彼が友人の家に招かれた際、食後に何か歌ってほしいと頼まれて口ずさんだのは、ウクライナの詩人シェフチェンコの詩「遺言」だったそうです。