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不安と向き合う姿勢

生きるということは、わりと、怖い。
「これまではどうにかやってきたけれど、これからも無事かどうかわからない」と、そんな不安に刺激されながらなんとか日々をしのいでいくもの。
若い頃は、そんなに不安を覚えるのは私が未熟だからだと思っていた。他の人が自信たっぷりに見えた。他人から何かの攻撃を受けると、自分がダメだからだと思ってますます不安になった。

それが、年月を過ごすにしたがって、どうやらそうではないらしいと思い始めた。
皆、不安らしい。ただし。
その自分の不安を解消するために、他人を利用する人たちがいて、彼らの行為は利用される立場の人の不安を助長する。
他人を不安にすることで、自分の不安を解消しようとする。
まるで、他人が引っ張っている荷車の上に、自分の重荷をこっそりと載せるように。
小狡い。
しかも、そういう言動を、社会的に尊重されている立場の人や、けっこうないい歳をした人がしている。
自分よりも弱い立場の人や、自分よりもはるかに歳下で人生経験も少ない人を相手に、恥ずかしげもなく。
そして、自分の社会的な優位性を背景に、相手が文句を言えないことを承知でやっている。ときには行為者自身も無自覚に。やっていることは社会におけるパワーハラスメントだ。
「これくらいやってくれていいじゃないか」「見逃してくれたっていいじゃないか」という、彼らの声に出さない声が聞こえて、ほんとに汚いなあと思う。なさけないと思う。見ているこっちが恥ずかしくなる。被害に遭うこっちが、あとで行為者は自分の小ささを恥じるであろうから、気の毒になるから指摘しないでおいてやろうか武士の情けで、と思う。

しかしながら恥じないんだなこれが。
鈍感になってしまって羞恥心すら失ってしまったのか?と思うと、さにあらず。自分が不安に駆られているということがバレるのは沽券にかかわる重大事であるらしい。
だから、そのことにも目をつぶってもらえることを暗に要求してくる。
そして、ターゲットがあくまで自由意志で、自発的に、自分の魂胆に沿うことをしてくれることを言語非言語を駆使して伝えてくる。
ターゲットこそいい迷惑である。

実は、『エライヒト』たちの、厚顔無恥で悪質な甘えやもたれ掛かりは社会に蔓延している。見ていて、被害に遭って、不快感で疲労困憊する。
そしてまた、『エライヒト』たちのそんな身勝手な願望について、ターゲットが気がつくことを『エライヒト』たちは実は非常におそれていると思わざるを得ない。なぜなら彼らは、図々しくもたれ掛かる傍らで同時にマウントを取ってくるから。

社会において尊重される立場にいる彼ら・けっこうないい歳をした彼らの姿と二重写しになって、無茶苦茶な駄々を捏ねている幼い子どもの姿が見える。「だってこれがほしいんだ!」「これくらいやってくれたっていいじゃないか!」「ゆずってくれたっていいじゃないか!」「気がつかないフリしてくれたっていいじゃないか!」と叫んでいる。


………ひとこと言わせろ。
「みっともないぜ!自分の重荷は自分の持ち物だろうによ!」


この稿、加筆予定。

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