両親の老いの姿に四半世紀後の自分を重ねて②:高齢者が大きく環境を変化させることの是非
住宅型有料老人ホームの2人部屋(父と2人)で、母は言う。
「自分が何故ここにいるのかわからない」と。
「ここは遠いの?」と。
認知症というわけではない。認知症検査を受けたとしても(その前段階と出るかどうかはわからないが)、そうではないという判定であろうと思う。
ここは遠いの?というのは、妹の自宅から遠いのかということだろう。以前は近くだったから。しかし今も、同じ市内の、そう遠くはないところに入居している。
不本意だという意思表示なのかもしれない。
妹か私の住まいのすぐ近くに住んで、いつも誰かが入り浸っている、そんな環境なら悪くないと自分を納得させて移り住んで来たのかもしれない。もともと母は移住に消極的だった。ただ、父が強く望むから、仕方なく従った。父は、山間の小さな町の町政が『少子化対策に熱心に取り組んでいることを褒められたくて(誰から?)子育て世帯への保護を手厚くし、一方で介護福祉士養成の専門学校を廃校にし(町政の恩恵を受けた家庭の子供達は、高校を卒業したら町を離れるのはこの時点で目に見える)、町の総合病院の運営資金を削って人望あつい医師との契約を切るさまを目のあたりにして失望して故郷に愛想を尽かした(町はその後少子化克服の好例としてテレビ局の全国版特集で紹介された。高校を卒業した子達は町を出て行くのが明白でも、目先の小学生の人数が増えれば良いらしい。小さな町の予算はこうして都市部に吸い上げられていく。地方自治体への交付金を云々したところで最終的には大学や専門学校が多くて就職先の多い自治体への人材供給に貢献し、つぎ込んだ公費を回収されるのだ。私や私の弟妹もそうやって出て行ったクチだ)。
友達がいて、現役時代の輝きが後光となって尊重される住み慣れた土地を離れるにあたり、母は夢見たかもしれない。娘達のどちらかに引き取られて世話を受けるならばと。
しかし一戸建て住宅の妹の家も2人を引き取るほどの広さではなく、受験を控えた中学生と高校生がいる。私の住まいに至っては今は借り上げ社宅の3LDKの一室はガラクタの詰まったダンボール箱で立錐の余地もなく、一室は次男の部屋で、残る1LDKスペースに大人3人の家族が暮らして半年が経つ。どちらの家庭も夫はモラハラだ(私達の父もモラハラだ)。
客観的にみて、父の決心は英断かもしれない。しかしそれは2人がもっと若ければ英断でも、80代の身体で過去を一切切り離して新しい環境にというのはリスクだ。
所有している山林や土地のことも気になる。家族信託とか公正証書とかにした方が…。私がそれをいうたびに父は必ず、
「そのことはお父さんが元気なうちにちゃんとする。心配は要らない」
と言って話を打ち切った。要介護になったら、
「そのことは子供達に任せる。口出しはしない」
と言った。…なんだとぉ?! 血相を変える私を、東海地方からわざわざやってくる弟が諌める。
「今そんなことを言っても仕方がないだろう?」
と。私の大嫌いな言葉だ。『過ぎたこと』『今そんなことを言っても仕方がない』『あのときは仕方がなかった』『なるようになる』………。それらの言葉が嫌いで嫌いで先取りして心配して、全てにおいて対策しようとして、その結果が強迫症だ。心療内科通いだ。なるようになった結果は、誰にとって不都合なものになるのか?
移住がしたくて足踏みをしかねない父は、物件の契約が済むと1か月間、何の準備もせずにただひたすら移住さえすれば全てが解決すると心待ちにし、浮かぬ顔をしながら父を頼る母を連れて勝手に日を決めてやってきた(落ち着いて準備するために物件を押さえ、カラ家賃を払ってでも無理なく準備をして、それから…という最初の話だったのだが、
「荷作りは『お母ちゃん』の仕事だ。ちゃんとするように言っている」
と昭和の管理職は言う。
「冷蔵庫は空にして、前の晩から電源を切っておくんだけど、やってるよね?」とグループLINEに投稿したら、あわてて牛乳やら卵やらを車に積んだらしい。実家までは妹が新幹線とバスで迎えに行き、両親の乗る車を運転して連れてきた。
しばらくの間、両親は優雅に旅行先の別荘暮らしのような生活をしていた。
しかし、行きずりの旅行者のような立場に見えた。地域包括支援センターの人は随時訪問してくれて、介護認定の際にもお世話になったのだが。近所の人とも挨拶を交わし、穏やかな関係だったのだが。ただ、人間関係はそれ以上にはなかなか進まない。だから余計に用事を考え出して娘達(おばさんだが)を呼び出そうとする。2人とも故郷では長く管理職で頼りにされていたのだが、当地ではただの老夫婦だ。要介護状態になってからは、自宅の玄関から滅多に出ることもない。
小規模多機能のデイサービスを利用することで、そんな状態に風穴をあけて少しずつでも『行くのが楽しみな場所』として生活リズム作りができればと、私や弟妹は考えた。事実、親切にしていただく中で非常にゆっくりだが慣れていくようではあった。入浴があるので帰宅後はバスタオル2枚×2人分をはじめとして大量の洗濯物が出る。母は、退院直後はその洗濯がしきれなかった。妹が窓口になって相談し、洗剤を預けて事業所の方で洗濯をお願いすることができた。
しかし、当事者2人は自分達の生活全般に完全に受け身で、至れり尽くせりの世話を望み、週2日のデイサービスと週1回の訪問サービス、子ども…主に妹の頑張りでは、カバーできなくなってきた。両親は、
「親を業者任せにする」
と言いたげでもあった。当時私は転職した直後で、非常勤だが勤務日は朝から17時まで。通勤時間は速くても電車で片道1時間。6か月間は年次有給休暇もない。
妹と相談して、入居可能な施設をいくつか、見学に行くことにした。
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