見出し画像

おふだを刷る

今住む地域に家を建ててもう5年になる。5年間、地域住民の一員として自治会費を納め、資源ゴミの鍵の当番(そういうのがある)や秋祭りの旗持ち(そういうのがある)などの持ち回り仕事をしてきたが、今年はとうとう組合長の役が回ってきた。

組合長の仕事のひとつとして、地域の小さな神社でおこなわれる行事の準備と参加がある。地域の神社は町の中心にある大きな神社の分社という扱いで、毎年5月のはじめに宮司さんを呼んで、ムラの安寧や五穀豊穣をお祈りしてもらっているのだそうだ。
お祈りの後にはムラに至る16本の道の入り口に、祝詞を上げてもらったお札の挟まった竹棹が立つ。地域の住民たち向けにもひと世帯に1枚、こちらもお祈りの込められた細長いお札とお餅が配られる。お札によってムラに悪いものが入らないようにバリアをして、さらに家々にもお札を行き渡らせることで、地域全体を神社の力で守るのだという。

行事の前日には、8つの地区の組合長が朝から神社に集まって準備をする。境内を掃除し、お社の祭壇のお皿に鰹節、昆布、するめいか、塩、米、酒などのお供えを盛り、しめ縄についているあのカクカクした紙を新しいものに取り替える。そして、神社の中でお札を刷る。

お社の中、祭壇の床下のブリキの箱には、いったいいつから存在するのか分からないくらい古い木製の版が、古新聞に包まれて保管されている。先述した“入り口”の竹竿に挟むお札用の大きな長方形の版と、各世帯に配布するお札用の細長い小さな版の2種類。木版にはそれぞれ「これぞお札」みたいな書体で豊作と安寧への祈願と神様の名前が彫り込まれている。
木版は凸版なので、浮き出た文字の部分にハケで墨汁を塗り、その上にお札サイズの書道用紙を乗せることで「印刷」できるわけだが、これがなかなか難しい。
墨汁が多すぎると滲んで文字が潰れる。少なすぎると文字が欠ける。墨が適量でも、バレンで均等に擦らないとうまく転写されない。また組合長の役は8〜15年に一度のスパンで回ってくるので、そもそも誰にも細かい技術の継承がなされていない。マニュアルがないので古くからの自治会長からなんとなく毎年どんな感じでやっているかの話を聞き、昨年刷られたお札をお手本として、何人もの大人が首を傾げながら試行錯誤する。

集落バリアのお札(大)は竹竿用と神社用とで約20枚、家庭用のお札(小)は約120枚。ああでもないこうでもないと失敗を重ねるうちに次第に版に墨が馴染んで、だんだんと要領がつかめてくる。
「今のいいんじゃないですか」
「墨汁塗るの、3回に1回で大丈夫ですね」
「この感じでいきましょうか」 
「バレンにも正しい向きがありますね」
どこに出しても恥ずかしくない成功作のお札が刷れる確率が上がり、神社に静かな熱気が立ち込める。最終的に墨汁を塗る人、紙をセットする人、バレンで擦る人、刷り上がったお札を並べて乾かす人の分業制でお札が量産された。ただ残念ながら、この流れるような作業も来年にはまた失われた技術となるのだろう。

正直なところ祭壇の下から木版画セットが現れたときには「刷る」ってマジで「刷る」ってこと? 手で? 令和に? 120枚? と思ったのだが、明確な手順書がない中での試行錯誤は否が応でも連帯感を生むので、この作業自体に各地域の親睦を深める意味合いがあるのかもしれない。
(余談だが、僕はニトリなどの大きな家具屋さんで婚活パーティをするのが一番いいと思っている。4〜6人の男女でベッドとか本棚とかでっかい家具を協力して作るのって、ただお酒飲んで話すよりも性格の合う合わないとか、要領の良し悪しとか、全部わかる気がしませんか)
あと、実際にお札を刷りながら浮かんだのは、なんというか、「これは霊的なパワーが宿って然るな」という感想だった。

映画「千と千尋の神隠し」の終盤に、カオナシと仲間たちが銭婆の元で髪留めをつくるシーンがある。その際に銭婆が、モノに力をこめるには手作業じゃないとダメよ、みたいなことを言っていたが、今回のお札なんかもまさにそれで、霊的パワーというものが存在するとして、あの手間が、面倒くささがその力の源なのだと思う。(お札を刷り終えた後、先端を割った竹にお札を挟んで水引きで結わえる作業もあったが、こちらも完全に“おまじない”を実践している感覚があった)

翌日の行事本番、宮司さんによる祈祷の後、お札とお餅を各世帯に配るのも組合長の仕事である。僕の組合は全部で15軒もあって一軒一軒回るのは非常に手間だが、放っておくとお餅はカビるしお札はシワになるし、なるべく早く配り終えないといけない。ただ行事の準備と参加が面倒なことはみなさんよく知っているようで、訪問した各家からは丁寧にねぎらいの言葉をもらった。面倒くささはありがたさである。

ここまで書いて、なんか地域の伝統行事……って感じで普通に受け入れていたけど、振り返ると最初から最後までめちゃくちゃ宗教行事だと思う。
敬虔なクリスチャンがいきなり引っ越して来たらどうなるんだろう……? まあ盆踊りとか秋祭りとかもこういう行事の延長ではあるし、それらひとつひとつが神社へ信仰を表すものだとしたら、そして信仰がそのまま神様のパワーに繋がるとしたら、うちの地域の神様はかなり元気なはず。ここまでやってんだから、我々住民をしっかりお守りいただけたらと思う。これからもよろしくな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?