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スシ・プライド

私の父はスシ職人で、私は幼い頃から父が「スシ・プライド」という言葉を使うのを聞いてきました。父の作るカリフォルニア・ロールはとても美しく、お客さんからどうしてそれほど綺麗に仕上げられるのか、と訊かれると、父は決まってこう答えるのでした。
「私のカリフォルニア・ロールには、アボカドやサーモンだけじゃなく、私のスシ・プライドも一緒に巻いてあるからね」

父の大きな背中と細やかな仕事ぶりを間近で見ながら育った私が、スシ職人を目指すことになったのはごく自然な流れといえます。
父は独立前、日本出身のエドマエの職人から直接スシの技術を学びましたが、本場日本の地でスシを食べたことはないのだそうです。
深酒をした夜など、父はよく、遠い目をしながらこう言いました。
「日本にはきっと本当のスシ・プライドがあるのだろうな」
父のスシは本物です。しかし、本当のスシ・プライドは、その技術とはまた別の場所にあるのだと、父は考えているようでした。

アメリカには、日本を母国としなくとも素晴らしいスシを創り出す、父のようなマイスターがたくさん居ます。
今やスシの“七星”の一人に数えられるアラナシ・キノウエ氏は父の修行時代からの友人で、私の名付け親ということもあり、私がスシの道へ進もうとしていることを知ると、真っ先に声を掛けてくれました。
「もし父上の弟子になるつもりがないなら、私の職場で基礎を学んでみてはどうかな?」
カウンターに立つ父を漠然と眺めていた私にとって、超一流の現場でのスシ修行はとても魅力的でしたが、しかし、私はその誘いにどうしても乗ることができませんでした。なぜなら、私の中には最初から、日本で修行することへの熱意が燃えていたからです。
父の言う、日本の、本当のスシ・プライドが一体どんなものなのか。
それを、心の底から理解するために、私自身はなるべくアメリカのスシに染まっていない、まっさらな状態の方が良いと思ったのでした。

18歳を迎える誕生日の朝、私が日本での修行の展望について語ると、父は思いがけなくとても喜んでくれました。
「アキラ、日本のスシ・プライドを、きっと自分のものにするんだ。
何年掛かっても良い、それを手にして帰って来たら、私に修行をつけてくれ。私はそれまで、私の店を守ることを誓おう」
父は私の手を取り、その両手でしっかりと包み込みました。
それは分厚く温かく、ああ、これがスシ職人の手なのかと、私は思いました。

日本での修行先はアラナシさんが選んでくれました。
「鮨喜田」は、かつてアラナシさんがスシを学んだお師匠のお店で、エド時代から続く由緒あるスシ・レストランです。
アラナシさんは鮨喜田の四代目店主の兄弟子にあたり、私の修行について、わざわざ直筆の手紙をPDFファイルでメールして、話をつけてくれたのでした。

日本への出立の日、父は空港で、私に包丁を手渡してくれました。
それは背の部分に“アキラ・ハイビスカス”と彫られた、美しい刺身包丁でした。私の名前はアキラ・マーズバーグであり、父の名はピーター・マーズバーグであり、別に私たちの一族が南国をルーツにしているわけでもなく、ハイビスカスは全く関係がありません。
なぜ本来苗字が彫られているはずの位置に南国の花の名前が? とは、訊けませんでした。

人生の中にはそういう開け広げな質問をするのが相応しいタイミングと、そうでないタイミングというのがあって、日本への、何年掛かるか分からないスシ修行へ向かう直前というのは、どちらかというと後者の雰囲気だったからです。
もしかしたら、スシ職人の間では、門出の日に職人の名前と花の名前を併記した包丁を贈るのが常識なのかもしれません。私が知らなかっただけで、私の真のファミリーネームはハイビスカスだったのかもしれません。

ただ、その、特徴的な名入れが施された包丁は抜き身だったので、国際線のセキリュティゲートで即座に没収されてしまいました。
今考えると、父が鞄から、刃渡り25センチの抜き身の包丁を取り出した時点で係員に取り押さえられなかったのは、非常に幸運だったと思います。

腑に落ちたり、ものごとが順序よくおさまったエピソードよりも、あれ一体なんだったんだろうな、と思うような出来事の方が、根深く記憶に残ることがあります。

怪談も、「後になってわかったのですが、そこはかつて処刑場だったということです……」なんて終わり方をするものより、意味のわからない恐怖がいきなり降ってきて、意味のわからないまま終わるものの方が、寝る前に思い出して、眠れなくなったりしませんか?

その点、この父の刺身包丁の、ハイビスカスの名入れから即没収のくだりは、今でも私の中に、歪な形の染みを残しています。
日本についてからも、あれ、マジでなんだったんだ? と考えて、何度か眠れなくなったくらい。
まあ、今ではいい思い出なんだけど。

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