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イール・ターナー

千のクラッカーの紐を一気に引っ張ったような音。瞬間的に室温が3度くらい上がる。
「今、西暦何年?」
閃光と共に目の前に現れた女が俺を指差して尋ねる。誰? 日本人? でも訊かれたから答える。
「2018年です」
俺が言い終えるが早いか女は手に持っていた長い針のようなものを俺の太もも目掛けて振り下ろす。振りかぶりの予備動作が大きかったから椅子から立ち上がりながら余裕で避けれるし、渾身といった感じの一撃を外して前のめりに大きく体勢を崩した女の背中がガラ空きだったので反射的に右肘を入れてしまう。衝撃で押し出されるように女の喉の奥から五十音で表現できない低い雑音と吐息が漏れ出る。
「あっごめんなさい、つい」
咄嗟に謝罪の言葉が口をついたが、女はそれを無視する。打撃にひるまず俺に向き直り、尚も敵意に満ちた眼差しを向けている、ので、女がいかにも次の動作に移ります、という感じで深く息を吸い込むか吸い込まないか、それくらいのタイミングを見計らって針を持つ右手首を掴んで、捻り上げる。武器も没収、そのまま腕に体重を掛けて這いつくばってもらう。
「あなたは誰ですか?」
努めて冷静でいたつもりだったが口から出てきた俺の声は驚くほど震えている。息が苦しいのは鼓動が速くなっていたからだと気づく。自室でベルセルクの27巻を読んでいたら、爆音と閃光を伴って目の前に現れた知らない女にいきなり襲われたのだ。読んでいた漫画がぼのぼのだったら。そして俺が186㎝91kgの空手経験者じゃなかったら。きっとやられていたことだろう。
「離して。もう何もしない」
女がそう言うので手を離す。女が次に何をしようとも動作の後の先を取れるように距離は詰めておく。
「えーと、警察呼びますか?」
俺は誰に訊いているのだろう。女は再び俺を無視する。
「私は、未来から来た。6年後。今から6年後に、鰻、絶滅する」
「はあ?」
「ニホンウナギ。種としては一応残るよ。完全養殖、できるから。だから、本当の絶滅ってわけでもないんけど、でも、食べられんくなる」
女はかすれた紺色の作務衣を着ている。サイズが少し合っていないのか全体的にゆったりとしたシルエットだが、それでも一目で爆乳ということがわかる。すげ〜。
「公式記録だと天然の鰻は最後の一匹が高知の馬路村でとれて、それから70年は確認されない。稚魚の漁獲も漸減して、2028年にはゼロになるから、従来の養殖法は機能せんくなる」
女の顔はかなり整っているが化粧がどこかべったりとしていて日本人ぽくなく、大学で目にするアジア系の留学生みたいな雰囲気をしている。俺が咄嗟に日本人? と思ったのはこの化粧のせいだ。しかし、変な訛りはあるけど外国人的なイントネーションの日本語ではない。外国人、多分、“漸減”とか使わないし。
「2095年、完全養殖の食用鰻が3匹だけオークションに出された。落札価格、いくらになったと思う?」
見当もつかない。俺は首を振る。
「なんと、1億2,200万円」
たけ〜。
「そして、それを3匹とも落札したのが、未来のお前、98歳の浅野幸治郎」
すげ〜。

女の話を要約するとこうだ。
・女は約70年後の未来からやってきた
・時間を巻き戻したり早送りしたりするから、その技術はタイム・ターンという
・女のお爺ちゃんは大層な鰻好きであり、病を得て余命も僅かになったので、死ぬ前に鰻が食べたいと言い出した
・70年後の未来では水産資源としての鰻が完全に枯渇しており、ごく稀に、ごく少量、卵の人工受精から人工孵化を経て成魚になるまで一貫養殖された食用鰻が入札形式で出回る
・未来の俺はなんらかの形で大富豪になっている
・未来の俺は養殖場から出品される鰻を片っ端から落札しており、落札できなくとも毎回めちゃくちゃ値段を釣り上げてきて迷惑極まりない

「だから、過去に戻って、何も知らない俺を殺して未来を曲げようと?」
「そう。でもまた失敗した」
「また?」

・女は2020年の俺と2019年の俺にも襲撃を掛けており、いずれも返り討ちに遭い撤退した

「ということは、来年と再来年、俺はまたあんたに襲われるということ?」
「多分そう」
「マジか…… ん? えーと… 2019年の俺と2020年の俺には2018年の今あんたに襲われた予備知識があるから応戦し易かったとかじゃないの?」
「それはない、ターナーと関わった記憶は、リアルタイマーの目の前からターナーが居なくなった瞬間、消える。時間の補正力が働くから」
「リアルタイマー? ターナー?」
「リアルタイマーは、私たちから見て過去や未来の時間を生きている人のこと。ターナーは、私たちのような時間を回す人のこと。タイム・ターナー」
「ださいな〜」
「来年のお前も同じこと言っとった。とにかく、私が居なくなった瞬間にお前の記憶から私は消える。干渉の痕跡も。何もかも」
「あっ、えっ? じゃあ俺殺しても意味なくない?」
「死は、別。不可逆。絶対。死だけは、干渉が確定する」
そうなんだ……。
「じゃあ俺が、その、ターナーによって殺されたら、ちゃんと未来が変わる? ということ?」
「そう。お爺ちゃんが死ぬ前に鰻を食べられる未来」
「あの、それ、俺を殺すより今の時代の鰻をテイクアウトしてお爺ちゃんに持ってってあげた方が早いんじゃない?未来には 過去のものを持っていけないとか制約があるならアレだけど…… あれ?」
女が、絶句している。完全に口が開いている。
目を見開いている。え? これもしかして“その手があったか”の顔じゃない?
「えええ???? まさか考えたこともなかったとか? 今さっきと合わせてこれまで計3回前途ある若者を殺害しようとしたのに?
タイム・ターンについて今初めて聞かされた俺でもまず最初に思いつくソリューションを? 今の今まで思いつかなかった? マジで?? 言っちゃ悪いけどそれ、めちゃくちゃバ」
「やめて。わかっとる……」
女の顔が真っ赤になっている。そして叫ぶ。
「あ〜!! 本当にごめんなさい!! 正直言っていい? 私、隙を見て、お前に針もう1回刺そうとしとった! その針、めちゃくちゃ猛毒のやつなんよ、マジ、一発で死ぬ。それ、刺そうとしてた!」
怖すぎる。
「でも、良かった! 殺さなくて済んだ! お爺ちゃんも鰻、食べれるね!」
女は興奮して大泣きしている。人を殺す覚悟というものは、おそらくだけどかなりの精神的負担を強いられるのだろう。肩の荷が下りたのだ。流石にもう命を狙われる心配はないと思うが、怖いので、とりあえず猛毒針をベッドの下に隠す。
泣き止んだ女はべったりとした化粧が落ちてめちゃくちゃ可愛い。というかメイクのせいですごく老けて見えていたけど、もしかしたら俺と同い年か、下手したら年下なんじゃないか。あんな化粧してるより絶対こっちの方がいいのに。でも、女の子に向かってそういうことは言わない方がいいのだ。
「あんた、名前は?」
「薫子」
「70年後でも“子”がつく名前、あるんだ」
「私以外で見たことないけど。お爺ちゃんがつけてくれたから、この名前は好き」

薫子を自転車の後ろに乗せて近所の鰻屋に連れて行く。ちょうどいいタイミングで、軒先で鰻屋が焼かれている。
「鰻の匂い、初めて嗅いだ。すごい。70年後、鰻屋さん、ないから」
「ここテイクアウト専門店なんだ。奢るよ。どうせ俺、将来大富豪になるんだし」
「ありがとう」
鰻の蒲焼き、2尾で6,000円。高いな〜。4、5年前はもうちょっと安かった。肝の串も2本買って、薫子とその場で食べる。苦い。でも美味い。ダイレクトにパワーがつく感じがする。そういえば俺、なんで1人で鰻の肝串食べてるんだろうな。
え〜と、部屋でベルセルク読んでて。
まあいいか、よくわからないけど、なんか清々しい気分ではある。

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