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いい世界?それは本当に理解できるの?

はじめに

「自分にとっていい世界とわるい世界、選べるならどっちがいい?」こう聞かれたら誰でも「いい世界」と答えるだろう。「いやいやそんなことはない、自分はろくでもないやつだから自分をひどい目にあわせてくれる世界の方がいい。」と答える人も中にはいるかもしれない。しかしその人は、自分がひどい目にあうことが、自分にとっていい(自分に相応しい)ことだと考えている訳で、その点でやはり「いい世界」と答えたことになる。この様に、誰にとっても自明な質問は、最早各人の人格面(価値観)とは関係なく、言葉の意味だけで答えが決まってしまう。ところで私達は、こうした自明の理解を、現実内の具体的な内容を盛り込んだ理解へと変化させられるだろうか。「いい世界」を自由に創造できたとして、それを一から作り上げることが出来るだろうか。

「そんなの簡単だ。」と答える人もいるかもしれない。例えば、先程の「自分をひどい目にあわせてくれる世界」を望む人なら、具体的に何が起きれば自分は苦しむかを色々考えるだろう。しかし、その人が本当に「いい世界」を創造するなら、そもそも自分がろくでもないやつにならない世界の仕組みを考える筈である。となると、今までの自分や世界とは別様の在り方を探る必要があるが、従来の理解を抜きに「いい世界」を構想しようとしたところで、完全に従来の理解を脱却するのは不可能だ。もっとストレートに自分にとって「いい世界」を(具体的に)創造する場合も同様である。何かしらの欲望のより快適な満たし方は想定出来ても、完全な(それ以上はない)満たし方は想定出来ないだろう。この様に、一方で私達は「いい世界」を自明な言葉として運用しながら、それに具体的な内容を与えると「(少しでも)マシな世界」へと理解が様変わりする。

本noteでは、何故「いい世界」は「(少しでも)マシな世界」へと理解がズレてしまうのかについて考察する。この考察によって、私達が「いい世界」を、本当に、或いはどこまで理解出来るのかを見定めていこう。

本論:「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」の失敗から分かる理解のズレ

さて、本論の考察を開始する前に、「何故「いい世界」は「(少しでも)マシな世界」へと理解がズレてしまうのか」について、予め想定される簡単な答えを確認しておこう。それは、「人間は不完全で、比較的にしか考えられないからだ。」というものである。人間が有意味に何かを想定したり思考したりする範囲は限界があるため、(さながら神の様に)完全な「いい世界」を(具体的なまま)考えられないという訳だ。しかしこう答えるなら、「いい」が「マシ」へズレる原因は能力にあり、能力の限界さえなければ、「いい世界」は具体的に想定可能ということになる。本当にそうだろうか。そもそも能力以前に、「いい」という捉え方自体に問題はないのだろうか。ここを明らかにするには、「いい世界」を想定する場合、どの様なプロセスを経るかを検討する必要がある。

そこで本論は、赤野工作氏が連載してる『The video game with no name』シリーズの内の、第18回の「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054880928816/episodes/1177354054881564268)を検討しながら進めていく。『The video game with no name』シリーズとは、未来に架空の駄作ゲーム(いわゆるクソゲー)を想定し、それのレビューを行うというものだ。未来らしくゲームのシステムが格段に進歩し、それ故何かしらの理想を実現した筈のゲームが、何故人々に拒絶されたのかを面白おかしく紹介してる。その中のゲームの一つである「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」(以下ムリハ)は、本noteで問われている「いい世界」の想定がゲーム作成として考えられたものだ。以下この内容を掘り下げていこう。

ムリハは、月にも人々が住む未来で作成された月で最初のゲーム(という設定)だ。月という、言わば地球上の国々(やその中の社会)に蔓延っている様々な「よくない」ものに、まだ汚染されていない世界が誕生したなら、どういう世界観のゲームが提供されるかという話である。上のリンクから読んでもらえれば分かるように、各国が「よくない」ものがゲーム内にないか審査し、それらを取り除いたゲームとしてムリハは完成する。どの様なゲームになったか。核や暴力や性描写は抜かれ、登場人物はロボットや骸骨だけになり、しあわせビームで撃たれた相手は幸福で満面の笑みになるというものだ。「いい」ものを作ろうとすれば、必然的に「よくない」ものを除去することになり、結果、歪で不自然な世界しか残らなくなったという訳だ。この話から何が分かるだろうか。

ごく簡単に述べるなら、「よくない」ものを抜きに、一から「よい」ものだけで新たな世界を想定したところで、その理解は成立しえないということだろう。ただしこれは、単に「よくない」ことと「よい」ことは互いを補ってる(から片方だけを抜けない)という話ではない。極端な話、どの様な世界であれ、ムリハというゲームが(一応)作成可能だった様に、一度出来てさえしまえば、その後からそれを理解する途はひらける。しかし、どんな世界だろうと、それを理解するための尺度は必ず必要になる。となれば、「よい世界」は、ともあれそれが完成した途端に私達の理解をはなれ、「よい世界」の住人は、私達の想像が及ばない彼岸で新たな尺度に捉われることになるのだ。私達がこのジレンマに嵌まる有様を如実に表していたのが、ムリハだったと言えるだろう。

また、以上の話を踏まえれば、「いい」が「マシ」へズレる原因は私達の能力(の限界)が元である訳ではないこともよく分かる。能力がどうであれ、既存の尺度から全く別の尺度に移る際に、既存の側から(限界の向こうに)成立するのが「いい」ものだからだ。このことは、例えば「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」にある以下の文章にもよく表れている。

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ニュースに流れる愛月者たちの勇ましい言葉を聞いていると、笑いが止まりませんよ。


「月は地球の落書き帳じゃない」

「月には地球のような馬鹿げた問題は存在しない」

「地球の政治的事情で月の文化を歪めることは許されない」


今の月世界の住民たちが地球を非難する言葉はどれも、かつて月世界の住民たちが本作を非難していた時の言葉に、そっくりそのまんまなんですから。


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ここの話が象徴的だが、勿論地球と月世界の住民のどちらが能力的に上かなんて話は本質的ではない。にも関わらず、月世界の住民たちからすれば、やはり地球は(ムリハ同様)馬鹿げた問題ばかりなのだ。月世界として新たな世界と尺度が成立したとたんに、それは既存の尺度から干渉不可能な「いい世界」となったのだ。勿論月世界から新たな世界が捉えられることがあれば、地球同様のジレンマに嵌まることになり、「いい世界」が実現されることだろう。

おわりに

それでは、一部本論の繰り返しになるが、「はじめに」で提示された問いに答えて本noteを締め括ろう。先ず、何故「いい世界」は「(少しでも)マシな世界」へと理解がズレてしまうのかだが、それは「いい」ものの成立は、既存の尺度から全く別の尺度に移る際に、既存側に(限界の向こうから)知らされるものだからだ。元より「いい」ものが既存の延長線上から隔絶してるが故に、「マシ」な理解へ変化するのである。

次に、私達が「いい世界」を、本当に、或いはどこまで理解出来るかだが、(本論で検討した様に)「いい世界」が成立する仕組みを理解することは、私達にも出来る。しかし、だからこそ私達は「いい世界」を具体的な内容として理解することは出来ない。言わば私達は、内容として理解不可能なものを仕組みとして理解することで、言語化し、自明な理解に据えていたのだ。

最後に、笹澤豊の『〈権利〉の選択』(2021、ちくま学芸文庫)から、以下の文章を引用する。

  〈権利〉という内実に〈ライト=正しいこと〉という名前が付けられる
  とき、この思想は、それ自体「正しいこと」として受けとられ、この思
  想の根拠と正当性を問うまなざしは、それによって遮られてしまう。〈
  ライト〉の思想が支配する社会では、この思想の正当性は自明の前提と
  され、この思想がなぜ正しいのか、と問うことは無意味な問いとならざ
  るをえない。(218頁、太字は傍点)

こちらの文章は権利思想を扱ったものであるが、ここに書いてある様に、それ自体が正しく自明と理解されるものは、その根拠を問うことが無意味となる。既存の尺度を支える側になり、その正しさの出目が隠蔽されるからだ。しかし、(『〈権利〉の選択』でもやられている様に)どうそれが自明なものとして理解されるに至ったのか、その仕組みを解析することは出来る。ささやかながら、本noteで筆者が試みたのも、そうした解析であり、それがどれだけ成功してるかは読者諸賢の判断をあおぎたい。



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