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独在論にささる哲学的批判は?ー〈Φ〉は独在論へ切り込めるのかー

永井均氏の独在論の哲学といえば、哲学を専門とする研究者以外にも広く知られた哲学の内の一つである。氏の哲学は、(基本的に)ご本人の著作をきちんと読めば、(学問的な)哲学の知識を持たずとも、一通り(議論の筋道を)理解できる。なので、寧ろ研究とは関係なく、氏の議論に関心を持った人に読まれることが多い。しかしそれは、永井哲学が誰にでも理解しやすい考察であることを意味しない。確かに、氏の哲学の問題意識は「世界にたくさんの人がいるのに、何故この人が私(という他人と全く異なる例外的な存在)なのか?」という、ごく身近な引っ掛かりにある(から大勢の人から関心を持たれる)。ただ、氏の哲学は、この引っ掛かりを非常に繊細な整理によって解明しようとするため、議論の大枠をいきなり掴もうとすると、必ず考察のポイントを掴み損ねてしまう。これまでも、(名前はふせるが)永井哲学を批判しようと試みたものの、元の議論を誤解した哲学研究者が何人も存在する。ここで問題にしたいのは、どう切り込めば有効な独在論批判が成立するのかという点だ。それが今回のノートで考察するテーマとなる。本記事全体を通して、独在論(の議論)に大きな影響を与えた入不二基義氏の批判を検討することで、有効な独在論批判がどの様なものになるのかを確認していこう。

はじめに軽く紹介を挟むと、入不二基義氏は無内包という概念を提案することで、元々の永井氏の独在論の議論の仕方に決定的な影響を与えた人である。私見だが入不二氏は、相手の議論が暗に前提してる所に狙いを定めて、よりそれを整合的に議論し直すのが巧みな方である(今回はこれ以上細かい話をしないが『哲学の誤読』や『時間は実在するか』あたりを読まれれば言いたいことが分かってもらえる筈だ)。無内包という用語にもその特徴が出ており、言わば永井氏以上に氏の議論のポイントを明確にするために出てきた概念になる。その点をきちんと説明しようとすると、それだけで丸々一つの記事を書く羽目になるので、ここではごく簡単に次の様に纏めるだけにしておこう。永井氏がずっと問題にしていた「何故(よりにもよって)この人が私?」という例外性は、それ自体が解明されるべき問題であるにも関わらず、解明したことがそのまま(各人にとっての解明に)ずれ込んでしまうというという厄介さを持つ。初め(から)永井氏の哲学は例外性の解明が議論のメインになっていたが、無内包という概念(と風間氏の質問)によって、(自覚的に)そうした厄介さまで射程が及ぶ議論が可能になった訳だ。ここまでの話だけなら、入不二氏の様な(無内包による)指摘が、独在論批判(兼独在論サポート)の成功例だったという(だけの)話で終わるだろう。本格的に考察しなければならないのは、ここから先の話になる。

入不二氏は、(勿論哲学者であるので)氏ならではの哲学的問題意識から無内包を提案している。よって無内包への切り込み方(問題の仕方)に関して、永井氏と入不二氏で差異が生じている。ただし、単に(双方の関心の違いから)差異があるという話だけでも済ませられず、(前段落にも書いた通り)入不二氏は永井氏以上に氏の考察を明らかにしようとしている。それ故に、双方の無内包の捉え方の差異を踏まえてなお、入不二氏(ならでは)の哲学的考察が、永井氏の哲学のポイントに接続可能かどうかが問題となる。接続可能であって初めて、それは永井哲学への、ひいては独在論の哲学への有効な批判になると考えてよいだろう(接続不可能であれば永井哲学とは別の哲学が行われたと理解せざるを得なくなる)。以上の企図のもとに、これから入不二氏の議論を検討し、果たしてどれだけ有効な批判と言えるのかを見ていこう。

今回検討する入不二氏のテキストは、『〈私〉の哲学をアップデートする』に収録されている「〈 〉についての減算的解釈」である。そもそも『〈私〉の哲学をアップデートする』が、永井哲学を検討するためのワークショップを書籍化したもので、「〈 〉についての減算的解釈」は永井氏と入不二氏の無内包のとらえ方の差異を整理した上で、(入不二氏の切り口から)永井氏の議論を批判した内容になっている。そのため、このテキストは本記事(のテーマ)で扱うのに一番適している。差し当たり(題名にもある)減算的解釈がどういった試みであるのかを確認した上で、順次批判内容を見ていこう。

減算的解釈がどの様なものであるかについて(私なりに)簡単にまとめると、永井哲学が含まざるを得ない飛躍(という問題の前提側)に目を付けて、その飛躍の隙間を、山括弧的側面を(よりピンポイントで)強調する形で埋めてみようという(正にアップデートな)試みを指す。この試みのどこが減算的なのかというと、永井哲学の前提側を、(山括弧という永井氏ならではの切り口に即しつつも)より独在論的仕組みが浮き彫りになるまで(永井氏以上に)削り取ろうとしているところだ。言わば入不二氏はこのテキストで、(永井氏以上に氏の考察を明らかにするために)元々の永井哲学の体系から、直接独在論の生命線となるところだけを摘出し、より緻密にそれを整理し直そうとしている訳だ。では、そもそも入不二氏は独在論のどこに話の飛躍があると考えたのか。それを理解してもらうためにも、ここで私からも(特に本記事で必要になる範囲で)独在論で注意すべき点について簡単にまとめておく。

先程書いた、永井哲学が含む飛躍の話からはじめると、それは事実と構造の間にある埋めがたいズレ(という前提)のことをさす。 独在論は、それについて説明されても、必ずそれを自ら考えたかの様にして捉え直さないと、問題をつかめない様になっている。何故なら、独在論は、(構造ではなく)そこからのみ世界が(一方的に)開けている現実の事実(それ自体)からしか問う途がないからだ。 しかし、言語の働きによって、正にその様に問うしかない仕組みを、(何故そうなるか込みで)累進的に構造化出来てしまう。言わば言語化(及びそれによる構造化)という仕組みによって、解明したことが問題にした事実からズレてしまうにもかかわらず、そのズレている有様まで(言語的に)構造化して解析可能になる一面があるのだ。またそれ故に、(世界の開闢は事実からしか捉えようもないにも関わらず)独在論が議論だけで(一方では)成立する。 以上により、独在論は、事実と構造に跨がる形で、現実の矛盾を先鋭化する方向に議論が進み、必然両者の間にある埋めがたいズレを飛躍(という前提)として含む。 そして入不二氏の減算的解釈は、こうしたズレを(常に)引き受ける方向ではなく、現実の山括弧面をより際立たせることで、永井氏とは別の角度からアプローチし、この飛躍(ないし現実の矛盾)を解消してみせようと試みているのだ。実際の入不二氏の議論の順番に沿って、その試みを一通り、かつ具体的に確認しよう。

「〈 〉についての減算的解釈」は大きく三つの議論に分かれている(ので以下それに応じて①~③の番号を付けている)。初めに入不二氏は、①無内包の現実性を高階化する方向と、その上で、その階層化を拒否する方向とに議論を分け、後者の立場を採用してる。 氏によると、二階以降が、現実性の更なる現実性(中心の中での更なる中心)を求める方向になる。それに対して、こうした階層化を拒否すると、中心性(や様相)の構造を(そもそも)抜きに現実性を考察出来るとのことだ(減算的な現実性)。 それを氏は、第〇階の現実性として、〈Φ〉(〈 〉)と表記されている。 次に氏は、②独在論を成立させている一方向性には「断裂」と「循環」の二側面があるとし、更に細かく議論を整理する。氏によれば、「断裂」は、(各々が存在する図に1つだけが例外になる)図を重ね合わせることで〈私〉は出来るけど、(無寄与だから)そこから世界構成までは至らないことを意味している。 それに対して、「循環」は、〈〉と《》と「」の三水準を、同じ私という表記が貫くこと(で、《私》が媒介となって、超越論的な世界構成にまで至ること)を意味している。 その上で氏は、永井氏の一方向性には、この両側面(加算と減算の重ね合わせ)があるとし、それに対して純粋現実性(〈 〉)は、(〈私〉以降の段階の間にも一方向が認められつつも)一番外側の力だからこそ、全方向性(一方向の減算)に働くと言われている。 そして最後に入不二氏は、③唯一中心分有型の解釈を行っている。この考え方は、〈私〉を唯一の中心に据え、それを分有する形で相対的な唯一中心(《私》)を考えることで、永井哲学にある(〈〉と《》との)根源的な矛盾を解消する(絶対的な唯一性と受肉した複数性をキッチリ差別化した上でそれらが合成してる様を見抜く)ことを試みている。 この試みは、その前の議論と比べて、あまり積極的な形で言われてるものではない。永井氏の議論を純粋現実性の方へ引き付けると、こうならざるを得なくなるという、一つの帰結として提示した考えになる。以上の議論を通して、永井哲学での必然的な前提を、更により細かく分解(減算)して整理し直す理路が一通り提示されている。

それでは、以下①~③について、どれだけ有効な批判たり得ているか確認し、最後に入不二氏の議論全体の批判としての妥当性、及び有効な独在論批判になるための切り込み方を確認して、本ノートを締めくくろう。

①の批判で私が特に注目しているのは、入不二氏が無内包を、中心性(や様相)を(そもそも)抜きにした現実性とすることで、その端的さを説明してる点である。予め述べておくなら、この説明には確かな説得力があると言える。独在論が「現に」という世界の開闢を事実として捉えている(し、それを基にした哲学を展開している)以上は、独在論が問うている例外性の比類なさだって言語(による様相化)装置とは袂を分かったところに由来を求めなければならなくなる(のが必然だ)からだ。ではそのことを以て①を(独在論への)有効な批判と(直ちに)見なせるかというと、話はそう単純ではない。独在論は無内包における山括弧表記(による抹消記号)に即して議論されるが、それには必ず累進構造が含まれる。そして累進構造は初めから議論がズレることを想定してなされるものであり、言わばそのズレる様をどれだけ適切に辿ってもらえるかが独在論の切り口に通じている。ここに注意するならば、「現に」という無寄与(かつ端的)な働きは、単にその由来(ないし正体)をあばけばいいものではないことが分かる。それだけでは、ズレを含みこんだ考察でなく、ズレ(ようが)ない直接的な理解へと様変わりしてしまうからだ。となると①の批判では独在論には切り込めないのかというと、またそうであるとも限らない。ともあれ①の批判が(独在論の基となる)現実そのものの事実をクリアに取り出せているのなら、そこから独在論(ならでは)の切り口へ接続させられる可能性があるからだ。〈Φ〉から現実性を問い直した際に、(たとえ概念化された現実表記だろうと)それが《Φ》との絡み合いに通じる議論を新たに設立できるかに、①の批判が有効になれるかどうかがかかっていることになるだろう。

以上①への検討を踏まえつつ、②の批判も検討してみよう。此方も予め述べておくと、私は「断裂」による指摘、即ち(例外である)〈私〉は(無寄与であるから)世界構成まで至れないという見解は、正当であると考えている。もし(世界を構成させるものとして)超越論的主体性を山括弧に認めてしまうと、現実世界が唯一であるのと同様に山括弧も唯一性から解析されてしまうことになり、本来問題にしていた筈の例外性が見えなくなってしまうからだ。またこのことを認めるならば、(〈〉と《》と「」の三水準を、同じ私という表記が貫く)「循環」も「断裂」同様無視できなくなる。山括弧表記を概念としても先取りできなければ、(概念として)同種の内のこれだけが(現に)突出しているという(例外的な)理解が不可能になるからだ(因みに独在論に循環があることは永井氏本人も言及している)。では「断裂」も「循環」も共に正当であるから、②の批判は有効であると言えるかというと、(これまた)話はそう単純ではない。入不二氏は、これら二つの合成によって(永井氏の)「一方向性」は成立していると見なし、本来純粋現実性は世界のあらゆるものに(無方向に)働くと考えている。確かに「現に」という事実が突出している以上、こうした考え方も当然可能となる。しかしそれが可能であることと、それによって問題が解析されるのかは(①の批判同様)分けて考える必要がある。②でも入不二氏は(①同様に)「現に」という無内包そのもの(〈Φ〉)の正体を(ピンポイントで)取り出すことで独在論を批判されようとしているが、受肉の手前(スクリーンそのもの)に直接目を向けるだけでは、果たしてそこから受肉の偶然性と例外性の不可思議さ(スクリーンに必ず何かが映りそれらが例外的に一致してる奇妙さ)を解析できるかが分からないのだ。②の批判が有効になるかは、純粋現実性から例外性へ接続できる理路を新たに設立できるかにかかっている(し、そのための新たな議論が必要になる)と言えるだろう。

それでは③の批判も検討し、その後入不二氏の批判全体の妥当性について言及しよう。③の批判に関しては、唯一中心分有型の解釈は、どの視点から見たときに納得可能なものになるのかに注意する必要がある。大前提として、この解釈に納得出来るのは、初めから減算的に山括弧表記を採用して考えられる人に限られる。理由は簡単で、(そもそも現実が一番外側で働くが故に)無内包そのもの(〈Φ〉)だけを先に認められる人でないと、(中心にある)〈私〉を各人が分有する様な図式を下敷きにして理解することは不可能だからだ。そうでない、例えば永井哲学に沿う人であれば、例外的な(図に落とし込み切れない)一点から無内包(及び〈私〉)を理解することだろう。ではこの唯一中心分有型の解釈を更にどう推し進めれば、減算的な山括弧表記を採用していない人からも理解してもらえるだろうか。入不二氏は「絶対的な現実性」と「受肉した複数性」の合成態から永井バージョンの〈私〉(という虚焦点)が立ち現れていると説明しているが、私見ではこれだけで説明を済ませているところが一番の問題になる。先程も述べた通り、永井バージョンの例外性は(図に落とし込み切れない)一点と不可分なのだから、合成による虚焦が何故例外的な一点なのかについての検討を更に挟む必要がある。そこを抜きに一度に(合成による)分有理解に移ってしまうと、丸々永井哲学の切り口がすっぽ抜けてしまう。以上で入不二氏の各批判への検討は終わったが、これらを踏まえると入不二氏の批判全体の妥当性については、どの様に言えるだろうか。

これまでの話を読んでもらえれば分かる通り、入不二氏の減算的解釈は、永井哲学が成立するために、本来下敷きになければならない要素を都度取り出している。私からは、入不二氏の批判による理解が、永井哲学の例外的な理解から(単なる)直接的理解へ様変わりしてる点を問題視したが、これは必ずしも悪いことではない。(見方を変えれば)それだけ永井哲学を成立させている各要素を、我々が十分共有できる水準まで整理してくれているということでもあるからだ。また、入不二氏の批判全体にわたって重要になる〈Φ〉に、そうした整理の成果が凝縮されているともいえるだろう。〈Φ〉から独在論を捉え直すことで、〈私〉の特異性を、山括弧による表記そのものから解析できる可能性が生じたのだから。ただ、とは言え〈Φ〉に目を付けて議論を進めるだけでは、まだ独在論批判(ないしアップデート)として不十分であることも認めなければならない。既に(①の批判を検討する際に)書いた通り、独在論を成立させているものが何であるのかを直接明らかにすればいいとはならないからである。独在論は、それがどの様な問題であるのかを(その理解できなさ込みで)如何に理解させるかがあくまで肝となる。よって、独在論を成立させている要素を突き止めたなら、それが(独在論をどう成立させるのかだけでなく)独在論ならではの切り口をどう説明することになるのか、その見通しがたって初めて有効な(かつどれほどの)批判であるのかが明らかになる。入不二氏の減算的解釈がどこまで独在論にささるのかは、(〈Φ〉から)例外性への(今後の)議論にかかっていると言えるだろう。それでは最後に、どう切り込めば有効な独在論批判が成立するのかという問いに答えて本ノートを終了しよう。

入不二氏の議論への検討を基に一言で答えるなら、独在論を成立させている要素を一から洞察し、そこから(独在論ならではの)例外性に見通しを立てたら、(立てられた分だけ)有効な独在論批判になると言える。またこの答えからも分かる通り、独在論へ有効な批判を向けようと考えるなら、とまれ一通り永井氏の議論の理解に最後まで沿う必要がある。独在論が、最後まで考察の筋道を辿って、初めてどういう特異さを扱っていたのかが分かるようになる構造をしている以上、その手続きを省略して批判しようとしたところで、元の問題と別の考察がなされてしまい、かみ合わなくなることは避けられない。ところで永井氏は、元々の論脈に忠実に沿うことを「ひたりつく」という造語で表現しているが、有効な独在論批判を行おうとする人ほど、元々の永井氏の考察にひたりつくことが絶対に必要になるとも言えるだろう。ただしこの様に述べると、有効な独在論批判を行うためには、(究極的には)異論を差し挟めなくなるのではないかと訝しむ人が出るかもしれないが、その様なことはない。元々の論脈を踏まえないと有効な批判は出来ないとは、裏を返せば論脈を踏まえた上でなら、どの様な批判のアプローチも可能になるということでもある。永井氏の論脈は(例外的な)特異さの理解にあるのだから、理解した特異さに対して、どうそれを解明しようとするかに制限をくわえられる心配はない。

本ノートで問題にしたことには既に(一応の)答えは与え終わったが、最後に一点添えておきたい。誤解を恐れず言えば、永井氏の哲学をきちんと理解した人ほど、寧ろそれを批判せずにはいられなくなる節があると私には思われる。初めの方で述べた様に、氏の哲学は、事実と構造に跨がる形で、現実の矛盾を先鋭化する方向に議論が進む。それにより、氏の哲学は読み込めば読み込むほどに、問われているものの異様さが際立ち、氏の議論だけで納得できる理解に落ち着くことはない。そうなれば必然的に、また一からその(問われていた)異様さについて考え直すことになり、それが同時に永井氏の哲学への検討、或いは批判となる。本ノートが、そうなるにあたっての一助になれば幸いである。

後日、ここから先で入不二氏のアフターソートの議論への検討も(有料部分にして)行う予定です。→入不二氏のアフターソートの議論を検討した有料部分を更新しました。

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