漫画と「文学」の差——続・編集後記

『Melt』編集部の学生がVol.2の制作を振り返る「続・編集後記」。本誌で書ききれなかったことや今改めて思うことをnoteに投稿します。

文:『Melt』編集部(W.Y)

『Melt』Vol.2に掲載した五井健太郎「神[エリ]にさよなら——藤本タツキ『さよなら絵梨』試論」では、『さよなら絵梨』という作品が、藤本タツキによる「虚構性礼賛の宣言」となっていると論じられています。詳細はもちろんVol.2を購入して読んでほしいのですが、私の文章を先へ進めるため、ここでは五井さんの論を簡単に紹介したいと思います。

五井さんは『さよなら絵梨』の構造に、「虚構的なものに賭けようとする作者、藤本タツキの倫理と呼べるようなもの」を見出しています。『さよなら絵梨』は、絶えず物語が物語自身の虚構性を自白していくことによって、似たような展開を繰り返しています。この円環構造のなかにおいて藤本タツキは、皆が望むような「よくある」プロット(作中作)を用意することで読者を深く没入させ、しかし同時にその没入を妨げることで読者を突き放し、裏切っていく——。こうした構造は、虚構としての物語が持つ力を評価し、それに賭けているからこそ、「その力が人を没入させてしまいすぎないようにする」という、藤本タツキの倫理的な身ぶりを示しているのだと五井さんは指摘しています。

作品・作者の宗教化や、狂信/神を生み出すことを拒否し、虚構をコントロールしようとする。なんてダイナミックなことに挑んでいるのだろうか。五井さんの引いた補助線に沿って『さよなら絵梨』、そして藤本タツキを読み解いたとき、私はそう感じました。

みずからが作り出す物語の虚構性(が持つ力)に自覚的で、読者が自身に向ける評価や反応をじゅうぶんに理解したうえでそれを裏切る。私は、五井さんが「真に恐ろしい」と評価する藤本タツキのこの手管は——彼が特に優れていることはもちろん——漫画というジャンルだからこそ成しえているのではないか、とも考えました。

(いきなり文学の話をしますが……)批評家・矢野利裕によれば、2010年代の日本の「文学(文芸誌に載るようないわゆる純文学系の小説)」で重要視されているのは、〈物語批判〉の態度だといいます(「〈物語〉に向き合う必要性」『文学+』3号)。現在の「文学」の世界では、作品の「多義的な意味づけに価値が認められがち」なので、「単線的でプロット(筋)と構造が明確」な「全体の主題が見出しやすいもの」を指す意味においての〈物語〉は、あまり評価されないというのです。

この背景には、「文学」は言語芸術として小説表現の洗練を追い求めることが大事なのだ、つまり「〈物語〉は、映画やマンガなどの他の表現においても描けるのだから」、「むしろ、言葉の「運動」性によって〈物語批判〉をおこなうことこそ「文学」の本領なのだ」という考え方が共有されていった経緯がある、と矢野は指摘します。大事なのは、「お話」のおもしろさや作品に表れる思想より、文体のおもしろさ(独自性)や美しさ、「語り」「視点」の方なのです。

矢野は、こうした潮流が、「文学」が「社会性・政治性をじゅうぶんに描けないことにつながっているのではないか」といいます。「文学」は、社会的な問題を示すことはできても、「社会的・政治的な〈闘争〉の契機を失っている」のです。加えてもう一点、矢野は、「文学」におけるその高度な問題意識が一般読者を遠ざけてしまっているとも指摘します。“お近く”の文芸誌を眺めればわかってもらえると思いますが、各誌毎号組まれる特集はどれも難しい内容です。ある程度事前知識や背景にある理論・思想を理解した人向けである場合がほとんどです。評論も多く掲載されていて、一般読者が取っつきやすいかと言われればあまり頷けません。創作のページを開いても、勧善懲悪やあまりに普遍的な恋愛・家族愛などは読めません。そこには「考えさせられる」作品ばかりが載っています(もちろん、エンタメ小説が載る雑誌が他にあるので、難しいことをやる——例えばマイノリティの物語を繊細に描く——のが文芸誌の役割だと言われればその通りだと思います)。

しかし、「考えさせられる」作品に対して、本当に「考えさせられました」と感想を言うと、叩かれてしまいます。でも、なぜ多くの人は「考えさせられる」としか言えないのでしょうか。あるいは、なぜ「文学」はそうとしか言わせることができないのでしょうか。

「文学」はいじわるです。難しい問題を題材に話が進んでいっても、最後になにか回答を出してくれるわけではありません。出すことを避けてさえいます。しかし、答えを出してくれないから仕方なく「考えさせられた」と言うと、どこからともなく「まったく浅い感想だなぁ」という声が聞こえてきます。いったいどうしろというのでしょうか。

そりゃ、みんな漫画を読んでアニメを観ます。部屋の本棚には『チェンソーマン』が全巻揃っていて、今期のテレビアニメを楽しみにしていることでしょう。多くの人の「お近く」に文芸誌など存在していないのです。この言い方は決して「難しい小説を読めない人が、分かりやすいお話をしてくれる漫画やアニメに“逃げている”」と言いたいわけではありません。漫画やアニメ、映画の方がよほど〈物語〉に真っ正面から向き合っていると感じているからです。

一般読者が遠ざかっているこの現状を矢野は、「社会と「文学」を結ぶ回路」が失われてしまったといい、これを回復しなければならないといいます。対照的に、「〈物語〉を構築する意志が強いジャンル」がゆえに政治や社会に関心のある人が求めるものとして、映画や漫画、アニメ、エンタメ小説を挙げています。いかにして「文学」が一般読者に選ばれるか。矢野は、「単線的な〈物語〉や一義的な意味づけを恐れず、社会的・政治的な「回答を出す必要」があるのではないか」と主張するのです。

とは言っても、漫画やアニメは社会的・政治的な問題に何かしらの回答を出しているが、「文学」はそれができていないからダメ、と単純な図式にしてしまうことにも抵抗があります。漫画やアニメのなかにも「回答」を受け手に委ねるような作品はありますし、そもそも「漫画」「アニメ」と簡単に括って語れるものでもないでしょう。それは「文学」も同じです。ただ、現状、回答を出さなくても許されるのは「文学」の方なのだと思います。「文学っぽさ」と多くの人が感じるようなアレです。一方、計算された盛り上がりもなく、主人公の熱い思いがこもった「回答」もない漫画やアニメは、つまらないのです。売れないのです。

藤本タツキの『さよなら絵梨』には分かりやすい回答はないかもしれませんが、しかし五井さんが指摘したように、物語という虚構の力を信じているからこそ、そしてその力を恐れ/畏れているからこそ、ああいう芸当をやってのけるのです。ここに、現代の「文学」との差を感じます。

分かりやすい物語は、大きな物語は、陰謀論を生み出してしまう。「文学」はそれに与するべきではない。そういう態度で「文学」が物語を批判している間に、虚構の力をきちっと自覚したうえで、その虚構性を内包する物語で物語を批判しつつ、でも物語=虚構に可能性を見ている藤本タツキのような漫画家が大衆の支持を集めているのです。この事態は、重く受け取るべきなのだと思います。

「文学」に興味があって「文学」を学んでいる私が、今回の制作をきっかけに「続・編集後記」という名を借り、漫画と文学それぞれの「物語」への向き合い方を比較してみて自分なりに考えたことを書きました。漫研をきっかけに、漫画が好きで漫画を描いている学生と触れ合ったからこそ、自分の足元を再確認できた感覚です。これが、学科横断的に集まって何かをつくる際の大きな魅力のひとつなのだと思います。

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