夜を抜け出す


目が覚めると夜の底にいた。どうやら夜勤の疲れから眠ってしまっていたようだ。

カーテンの隙間から漏れた灯りが部屋の中にぼんやりと差し込み、テーブルの上にある空き缶やたばこの吸い殻を細々と照らす。また他にも、テーブルの上には洗ってない皿であるとかカップ麺の空などが所せましと放置されている。

そんなテーブルの様子は、掃除が煩雑な部屋の様子を私に思い出させる。部屋中が隅から隅までこんな有様である。面倒なことを先送りにし続けて出来上がったこの見るに堪えない有様は、私の人生の縮図のようだ。しかもそれが薄らぼんやりとしか見えないあたりなど正にそうだ。

高校まで遊び呆けたツケを今は介護施設で返している。大学受験の尽くを当然のように失敗し、敢え無く就職したのである。爺さん婆さんの糞の世話にも慣れる程には務めた今でも、もっと勉強を頑張ればよかったとか内申に響くような部活動での結果を挙げればよかったといったような後悔は、実は特にない。

遊び呆けたことを悔いてはいないからだ。後悔に妥協で蓋をして、停滞を満喫しているのである。

とりあえず今日と明日は久しぶりの休日である。といっても今日のほとんどを寝ることで消費してしまって、残る休日は明日のみとなってしまったわけだが、たとえ目減りしてしまったと言えども胸躍る休日には変わりない。

休みをどう使うか考えたいところではあるが、今は長いこと眠っていたためか小便をしたい。ベッドから体を立て、年甲斐もなく明日への期待に浮ついた足取りで、ゴミとほこりの中を進む。便所の前につくと、一つ異変に気付いた。便所の中からノックされている。





最初は単なる聞き間違いかと思ったがそんなことはなかった。今度は便所の中から「来たぞ」と男の声がしっかりと聞こえた。  
であるから、さっきあったノックの音も、その声の主がしたものであろうし聞き間違いではなさそうだ。その声は年のころで言えば私の両親と同じくらいであろう、そんな声色だった。

今、便所の中で起きていることに理解が追い付かない。便所の中に覚えのない初老と考えられる男がいるということであろうか。

シュールさで言えば他の追随を許さない。
また、物の怪や妖のせいであることも十分に考えられる。夜勤の際にそれらしいものを見たという話も耳にするし、亡くなられた利用者の方に化けて出られているのかもしれない。もしそうならば、よく私の住所が分かったものだし、明後日からは一層の丁寧な介護によって、死後は私との関わりを是非とも断っていただけるように努めよう。

私が気味悪がっていると便所のドアが開いた。便所のドアが開くことにこれほど緊張するのは、これが最初で最後になるだろう。

そこには、年のころで言えばやはり私の両親を彷彿とさせる男が立っていた。背丈は私より少し小さいくらいで、恰好はスーツ姿である。髭などは生えておらず、髪の毛もまたその通りだった。顔にはしみとしわを年相応にこさえている。

また、利用者さんの霊であるという線は薄くなった。少なくとも私はこの人に見覚えがない。

「初めまして。俺はわけあって、とある商品をおまえに売り込みに来た。といっても代金のことは気にしなくていいぞ。お前は商品を選ぶだけだ」

便所にいた男は開口一番にそう言い放った。もう何が何だかわからない。利用者さんであった方がまだマシであった。勤務態度を改め、今後こういった怪奇現象に出くわさないように努めることができるからである。生前の恨み辛みが関係なく、努力のしようがない分よっぽど質が悪い。そもそもこの男は果たして霊なのだろうか。男の有様は確かに幽鬼のそれに通ずるところもあるが、ただの不法侵入者ではないのか。

もう何が何だかわからなくなっているところにその男は続けた。

「口をきいてくれてもいいだろうに。俺が怪しいのは認めるが、お前に害が無いことは保証する」

「すいません。寝起きで頭が冴えてないのもありますが、何より今起きていることに理解が追いつかなくて」

それを聞いた男は両腕を組み「そりゃそうだ」と深くうなずいた。会話が成立することに一先ず安心した私は続けた。

「あなたは何者ですか?商品がどうとかおっしゃっていましたが、どういうことでしょうか?」

「まあ待て、便所でする話じゃない。如何せん説明することが多くてな。あとあれだ、お前小便したいんだろ?まずは用を済ませちまえって」

促されるままにひとまず小便をすることにした。

小便を終えて薄暗い部屋に戻ると、男はどこからか見つけてきたのであろう小汚い座布団にあぐらをとり、肘に膝をつけて頬杖をして待っていた。

私がベットに座るのを見た後、男は冷蔵庫から勝手に出したのであろう缶ビールを一口飲んで
「よし、んじゃまず、俺が誰かってことだがな、俺はただのしがないセールスマンだ。それ以上のことを話す気はない」
と言い放った。

ただのセールスマンがなんの前触れもなく便所の中に潜み、ドアを内側からノックするわけがない。そもそも、仮にも客であろう私に対して普通のセールスマンがあんな偉ぶった態度を取るものか。
ただ、そういったことを言った結果、男の機嫌を損ねてしまい奇々怪界な妙技を繰り出されて蛙にされてしまう等の摩訶不思議な被害を被ってしまうことが考えられないわけではなかった。  

よって、太々しさと奇怪さをこねくり回してできたようなこの男へ、私が抱いた当然の否定や疑問の数々は一先ず腹にしまっておく。
男は頬杖をときつつも缶ビールはきちんと握りしめ、身振り手振りも使って話し始めた。
「んで、その商品ってのがな、お前の青春だ」
「は」
あまりに突拍子のない話だったので、不意にすっとんきょうな声が出てしまった。
「つまりは、お前がもう一度青春を体験する機会を商品として渡しにきたんだよ」


「ゲームか何かのセールスでしょうか?」

「それくらいのつもりでいてくれた方がいいかもな」

男は群青色の深みを持った言葉を言い放つと、ぐびぐびと缶ビールを飲み干し、よっこいせと年季の入った重そうな腰を上げて、次の缶ビールを冷蔵庫に取りに行った。

ゴミとの境界が限りなくあいまいになった冷蔵庫を男は何の躊躇もなくあさる。そこにいる男は、便所から出てきたセールスマンのふりをした怪異というよりは、酔いのまわった浮浪者に見えた。一度疑いがひょっこりと顔を出すとそれは、ティッシュが水を吸うように私の心の中にじんわりとしみこんでいく。だぶだぶになってしみったれた心はもう元には戻らない。何より、偶の休日を酔っぱらいのじいさんの妄言に付き合ってつぶしたくない。 糞じじいの相手は平日だけで充分である。私はこの男を早々に追い返す手順を考え始めた。

やがて戻ってきた男は「もうないのな」と言いながら、座布団にあぐらをとり話し始めた。

「というかその様子だと俺のことは何も聞いていないのか?」

「思い当たることは何もないですね」

「そうか。まずはそこからだな」

「セールスマンなんでしたっけ?」

「そうだな。お前に結婚相手を選ばせてやる。お前の両親からはそれなりの額を先払いでもらってるからな」

にこにこと口角の上がったその顔からは、よほど満足のいく額だったのであろうことや、人様の色恋沙汰に金をもらって首を突っ込めることに対する汚い満足感がにじみ出ていた。

しかしその笑顔の中にはどこか無邪気さも残っていた。そのなんとなく可愛げな笑顔を見たわたしは、これから言わんとしていることに対して少しためらいができてしまった。生唾をごくりと飲み込み、きちんと気持ちを固める。

そしてその固めた気持ちを言葉にしていく。

「先ほど言っていた青春が云々はどうなったのですか?そもそも今までした話はあまりにも荒唐無稽で、とてもじゃないですが信じられないですよ」

「そうか」

そうつぶやいた男はのっそりと立ち上がり、私が今座っているベットの方に近づいてきた。そうして私の後ろのカーテンを開けた。

私のカーテンは何年かぶりの仕事のようで、まとったほこりをふるい落とし、久しぶりの仕事に張り切って臨んでいるように見えた。

私が薄汚れてほこりまみれになっていたカーテンに気を取られていると、ガラスの外側にはしんと黒の中に沈みこんだ夜の世界が広がっていた。

「いきなりどうしたんですか」

「外をみてみろよ。例えばあいつとかな」

 そうして男が指さす方を見る。 

通りの電柱の前には自転車にまたがった人が止まっていた。ただ少し違和感がある。両足を地について止まっているのではなく、二輪が地面に固定されているかのような状態だった。両足はペダルにおいたままだ。

「器用な人もいるものですね」

「いやいや、そういうことじゃ無くてな。俺が仕事をするときは世界の時が止まっちまうんだよ。」

「そんな馬鹿な」

「そうだな、それじゃテレビでもつけてみろよ。多分珍しいものが写ってるぞ」

 ザッピングによって全局での一時停止が確認できた。

「あ、一応言っとくが俺の素性とは一切関係ないぞ。なんかたまたまなんだよ。俺が仕事の為に客のとこに行くと止まってんだよ。こんな感じでよ」

「こんなこともあんだから、俺が言ってる様なこともあながち嘘じゃない気がしてきたろ」

 男は急に取り繕い偶然を装った。

私の住むアパートは線路のそばにあり、夜中であっても貨物列車の通る音が聞こえてくるものだが、そういえば今夜はそんな音は一切聞こえてこないことに気づいた。 草木も何もかも眠ってしまったかのように静かな夜である。これは不気味だ。

恐ろしいことに、この男は便所から出てきたセールスマンを装った怪異のようだ。すると途端にこの男の笑顔が邪気をはらんだ不気味なものに見えてきた。

しかし、ならばこの男の話も嘘ではないのだろう。私の休みが無駄に消費されることも無さそうである。こうなれば最後まで付き合うしかないだろう。

「すごいですね。疑ってすいませんでした。信じます。しかし、私の結婚相手と青春はどう関係がるのでしょうか?」

男はさっきまでの気だるげな動きが嘘のような身軽さで、すたこらと座布団に戻り、意気揚々と話し始める。

「それはな、凄いぞ」

男は内の衝動を抑えきれないといった具合に身を乗り出しテーブルを両の手でバンとたたき、話を続けた。

「お前にもう一度青春時代、つまりは学生時代をやり直させてやる。タイムスリップとかその類だ。しかもどの時代からでもいいぞ。そこで誰かと付き合っちまえって」

乗り出した体を元に戻し、再びあぐらをとって男は続ける。

「記憶はもちろんそのままだ。それなら女の一人や二人、ひっかけんのも楽だろうよ。お前にだって気になる女くらいいたんだろう?」

「えー、結婚相手というのは、これだけ有利な条件で学生時代をやり直すのだから、付き合った相手とは当然うまくいくだろうし、そのままゴールできるだろうということですか?」

「そう言うことだ。おし、んじゃいつにする?」

「ま、待ってください」

「ん?」

「私に対して何かペナルティの様なものはないのですか?例えば私が学生時代をやり直していることを誰かに話したら、その瞬間に今の時代に戻されるとか」

「特にはないな。話してもいいが、多分誰も信じないぞ。気味悪がられて距離を置かれるだけじゃないのか」

どうにも腑に落ちないようで、「んー」と唸りをあげたあと男は続ける

「あれか、今の知識があるからそれを使って未来を変えちゃいけないんじゃないかとか気にしてんのか?」

私は頷く。

「お前がこの商品を受け取った結果、未来を変えちまっても問題はないぞ。正しい未来なんてないんだから、なるようになるのが一番だろ。お前が生きてる今が一番正しいなんて、誰が何が保証してくれてんだ?」

広義での、今の私の否定であった。仄暗い今に一筋の光明をさすような夜明けに似たこの一言を、私は誰かに言ってもらいたかったのかもしれない。

「明日のシフトはいってくれる?ありがとう!そう言ってくれると思ってたよ」「また結婚かー。まあでも俺らはじじいになってもずっと一緒だもんな。俺ら陰キャ同盟は永遠だもんな」「受験は結果じゃないからね、その頑張った過程が大事なんだよね」「怪我ならしょうがないよ。部活は今年で終わりだけど、体はこれからずっと使っていかなきゃいけないからね」「ごめんなさい。気持ちはうれしいですが今の関係のままがいいです」




それから私は、やはり考える時間が必要だから返事はまた後日ということで、いったん男には帰ってもらった。私が返事を伝える意思を便所の前で見せれば、男はまた現れるそうだ。

男は「入口も出口も同じとこにあるんだ」と言って、便所の中に入っていった。便所でサヨナラのあいさつをするのもこれが最初で最後だろう。私はサヨナラのあいさつを交わした後に、好奇心で便所のドアを開けてみたがそこにはやはり誰もいなかった。

男を見送った後、私はまた眠った。そうして私はそこで夢を見た。

夢の中の私は、高校二年の夏だった。隣の席には私が思いを寄せた女性がいる。私と彼女は学期初めにその席になってからというもの、毎日の何気ない会話が積み重なって、じりじりと互いの距離を縮めていた。少なくとも私はそう感じていた。夢の中でも、その日の英単語の小テストに自信がないから二人でこっそりカンニングでもしてしまおうかと話していた。いたずらじみた事に胸躍らせ、柔らかく笑う彼女のなんと魅力的なことか。あの男への返事は決まっている。

私は電車が通る音で目を覚ました。外からは鳥のさえずりが聞こえる。

桃色の夢から覚めた私の目の前には、暗くよどんだ今が現れた。こんがらがっている日々のように、そびえたつ部屋はゴミ屋敷の有様である。
男から変な影響でも受けているのか、今日一日を使って部屋の掃除をしようと考えた。

そうして掃除をしている私は昨晩のことを考えていたが、恐らく私はあの商品を受け取ることはないだろう。

今の私が人生をやり直したところで何か変わるのだろうか。あの頃から私は変われた自信がない。ならばやり直したところで何も変わらないだろう。未来がどうなるか分かっている分あの商品には魅力があると言っていたが、そんなもの当時から薄々わかっていた。あの子は私のことを好きではない。それをどうこうできる器量があるなら、今すぐにでも私は幸せになれる。

ならば今から変われば何も問題はないだろう。部屋の掃除に俄然やる気がでる。

そういえば、まだ商品を受け取っていないのだから、クーリングオフは効くと考えられる。その金で美味い物の一つでも両親には食べてほしい。



奇妙な道程だったが行きついた答えは平凡なもので、今よりも少し立派な自分になろうというものだった。割と日の当たるこの部屋を黙々とただ片付けていく。煩雑で薄らぼんやりした部屋は、多少は整頓され明るくなった。


私は夜をぬけだした。今はまだ何でもできる昼間じゃないか。何をしたものだろう。

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