アパルトの中の恋人たちはセク後を歌っているのかどうか論争

こんにちは
山田亮一大御大生存確認記念でTLが盆正月みたいになり、音楽関係のFF様も増えたということで、前々から少し考えてたアパルト解釈の話をノートにまとめたいとおもい書き始めました。

以前、ハヌマーンの感想文をあさっていた時に、アパルトをセク後の歌だと解釈している文に出会ったんですよ。僕はこういう解釈ではなかったのでどこかでお気持ち表明したくなりました。
なりました、が、そのあとに、行きつけの飲み屋さんでハヌマーンを全く聞いたことない人に酔っぱらってアパルト講釈を垂れて満足して寝て起きて吐いて全部忘れました。

確かに、
「愛し合うというにはおぞましいほど醜い行為に果てた後で、ざらっとする後ろめたさは何だろう」
とうたわれているので、セク後っぽい気もします。
「醜い行為」に「果てる」と、セクの枕詞っぽいのが連続してますしね。

ただ、まずここでの「醜い行為」って本当にセクだけを指すんですかね。

アパルトの本質って「薄汚れた人形」に象徴されていると思うんですよ。
長いこと側にいるもんだからボロボロになってしまったその人形、これこそ二人の関係性そのものだと思うんですけど、一方で所詮人形なので中身は大したものが詰まっていないんです。
現に「夜の信号」「夜空の月」を見た時に対照的なとらえかたをしていて、あまり感性は近くないような印象を受けます。
そんな感性が違うことが強調された二人ですけど(ここはだからこそなのかもしれませんけど、僕はその手の知識をポインティの動画でしか知らないので言及しません)それでも一緒にいます。
きっと、お互い小さな日々の違和感なんかを包み込んで、それこそ薄汚れた人形の中に綿を詰め込むような調子で過ごしてきたんだろうなと想像できます。

なのでここで「醜い行為」が指しているものってセクだけじゃなくて、日々の暮らしの中で相手に合わせるために自分についてきた小さな嘘みたいなものなのかと
「そこまで興味ないのに相手に合わせるために見たアクション映画」「高いだけのレストラン」「家にいたかったのに連れ出された休日」「ゴミの日の当番」「あがったままのトイレの蓋」
こうした、相手に合わせるために少しずつしてきた日々の我慢、違和感を飼いならすための行為全般を指しているものなのかと解釈していました。

そうなってくると「ざらっとするうしろめたさ」も、相手のためについた嘘とそれを続けて今の生活を維持することへの疑問、のようにも思えてきます。

アパルトセク後解釈についてはとりあえずここまでです。
アパルトって、こういう毎日を続けることへの疑問を提起しても、それでも最後に「涙ぬぐい取るその人形に僕はなりたい」って言ってしめているところ、本当に素敵ですよね。

こういう違和感の中でそれでも生きていかなきゃいけない、それは
見えないことにしたからくりも種も仕掛けもひっくるめて、愛していたような不安のはけ口にしたようなものも全部のみこんで、それでもまだ人間でいたい、誰もがまだ人間でいたいってことなのかなと思います。

ハヌマーンのこういうところ本当に好きです。
無責任に「がんばれ」だの「やればできるだの」訴えてくるわけじゃなくて、「死ねないんだから認めなきゃ」をめちゃくちゃやさしく語ってくれているような気がして本当に救われます。

それではこんなもんで閉めます
部屋で俺思想犯アナーキーインザ1k
部屋で俺革命犯アナーキーインザ1k



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