eastern youthさんの夏の日の午後って曲が好きすぎるというお話

※この文章は2021年8月に某歌詞講評サイトさんに投稿したやつのコピペです。週1くらいでノート更新しようと思ってたんですけど今週はだるかったのでコピペで済ませます。
あと、これを読むうえでの注意点で言えば、この記事の内容は好きなんですけどテンションがキモいです。そこだけ気を付けてください。

投稿文章タイトル:
【青春を終わらせてくれた曲 夏の日の午後】

「青春を感じさせてくれる曲」というと何を思い浮かべますか?

それは例えば、
『好きなあの娘が好きだと言っていただけで、よく分からないけど聞いていた流行りのあの曲』
『気乗りしない一日の始まりに学校へ続く坂で聞いていたうるさいあの曲』
『雪の帰り道に自転車を押しながら聞いていた悲しくさせるあの曲』

では「青春を終わらせてくれた曲」というとどうでしょうか?
「青春の終わり」というとなんだかさみしい気持ちになりますよね。
あとそもそも何をもって終わりとするかみたいな話もありますし、この手の話に聞き馴染みはない気がします。

ただ、僕にとって「青春を終わらせてくれた曲」というのは明確にあります。
それがeastern youthさんの「夏の日の午後」です。

■夏の日の午後をはじめて聞いたとき
夏の日の午後をはじめて聞いたのは大学5年6月の終わりです。
当時の僕は、留年中の学費を稼ぐために半年間大学を休学していました。
4年間で妥協と依存と腐敗に浸食された当時の僕は、自分の生活のためのアルバイトですら続けられず、2か月でやめてしまっていました。
そこから昼も夜もない日々が続き、時間と金の空費であらゆるものが鈍っていた、そんな感覚をなんとなく覚えています。

そんなときに夏の日の午後に出会いました。
今となっては、はじめて聞いた日は何をしていたのか、どうやって夏の日の午後までたどりついたのかすら覚えていません。

ただ、
ゆるみきった僕を周りの空間ごと切りつけるような力強い金属音と、
季節ですら僕らを戒めるという哀愁が詩の全体から立ち込めていた、という事だけは覚えています。

この曲が節目となって何かが変わりました。

この後、半年で大学は卒業し、社会人として何とか働き始められました。
青春の終わりです。
それから毎年夏になるとこの曲をきいています。
僕の中では夏といえばすっかり「夏の日の午後」になってしまっているようです。

■夏の日の午後解釈
そうして毎年なんとなく夏にこの曲をきいている時ふと、「僕はなぜこんなにもこの曲から離れられないのか」と考えるようになりました。

この問いへの端的な答えとしては、
「ただそこに寄り添ってくれる曲」だからなのかなと思います。

というのも、
夏の日の午後の特徴として

<にわか雨と濡れた歩道 傘持たず走る街の角 追いつけない追えば逃げる影に>
<真夏の太陽は罪を溶かして背中にそれを焼き付ける>
<明日を呼べば雲垂れこめて 甘い夢を見れば雷ひかる>

のように歌詞の中では無機質に夏の日を書いている一方で、
その詩の届け方、歌い方と演奏については、情感たっぷりに今にも泣きだしそうに声を張って歌いながら金属音のきいた力強い演奏を響かせています。

「詞の中に無機質に描かれた夏の日と、情感あふれる詞の届け方」
決して、作詞者の吉野さんが感じたことをはっきりと言葉にするのでなく、その歌い様で表現された
「郷愁」「哀愁」「未練」「熱気」「後悔」「気怠さ」「やるせなさ」「我慢」「憤り」等々...
のどれでもありどれでもない、けれどもこの曲を聞く人には確かに届いている、
夏の日の午後のあの少し悲しい気持ちは余すことなく確かにそこにあります。
それは、はっきりとは書かれない感傷の言葉たちを、
夏の日の午後という曲にどのように見出すのかは聞き手の僕たちにゆだねている、という事でもあるのかと思います。

僕は苦しいときに音楽を聴きます。
そんな時に、無責任な励ましの言葉を聞きたくはないですし、
かといって、他人が吐いたありふれた言葉に僕だけのもののはずの苦しみを当てはめたくはないです。

夏の日の午後のように、感傷の言葉を使わずにただ感じさせる曲は、
僕にとってはとても居心地がよいものだったのでいつまでも離れられずにいます。

感傷的な言葉を僕たちに押し付けてくるのではなく、
あくまでそれを感じさせる、
これこそが
「ただそこに寄り添ってくれる曲」
と表現した理由であり、
僕がこの曲から離れられない理由になります。

■夏の日の午後
実はこの曲は2度、僕の青春を終わらせてくれました。
1度目は初めて聞いたとき、
2度目は夏の日の午後のあの少し悲しい気持ちについて考えさせられたときです。

この曲を聞きなおすたびに「夏の日の午後のあの少し悲しい気持ちはどこから来るのだろう」と考えるようになりました。
夏に対して特別悲しい思い出もありませんし、今の生活に何か夏由来の不満があるわけでもありません。
昔の僕の夏はもっと乾いていて色素にあふれていたような、そんなことを覚えているだけにいったいいつから夏に対してこんな気持ちを抱くようになってしまったのか。
不思議でしょうがなかったです。

恐らくそれが、「夏の日の午後のあの少し悲しい気持ち」の正体なんだと思います。

思い出の中の夏は色素にあふれて輝いていて、僕たちは常にどこか乾いていて、それでも満たされていた。
こんな記憶が今を照らすから目の前の夏が少し曇ってしまってどこか悲しい気持ちにさせられるんです。

このような今と昔の違いを意識してしまい、その時に僕のなかで完全に青春が終わりました。

■最後に
eastern youthさんたちの曲の多くは、「気が付いたらこんな有様になっちまったが、生きてるだけでいいじゃねえか。みんなそんなもんだし俺もそんなもんだ」
というメッセージが込められたものが多いかと思います。

夏の日の午後にある
<罪も悪も我とともにありて>
という詞がですが、まさにそんなイースタンユース節が込められている気がして、
「これまでの人生の後ろめたいことは今そこにある、自分だけで背負えてるんだからまだマシじゃないか、俺もそんなもんだよ」
という風に解釈していました。

僕が初めて夏の日の午後を聞いた大学5年のあの夏の日の午後は確かに僕にとっての「罪と悪」ですが、同時にそれは今でも僕と一緒にあります。

こんなどうしようもない、誰に伝わるとも思えない僕の後悔のきもちに対して、夏の日の午後という曲は、励ましの言葉をかけるでもなく、努力を促すでもなく、『我とともにあって』くれます。

夏の日の午後のあの悲しい気持ちを抱くことがあっても、
明日を夢見たら雲が垂れ込めてきて
甘い夢を見たら雷が光るように
どれだけ僕が季節に戒められるような、閉塞感と自責からくる物悲しさに襲われようが「夏の日の午後」とeastern youthさんはずっと『我とともにあって』くれます。

このことは、誰にもどうすることのできない僕の中の不安を少し消してくれました。
夏の日の午後は確かに僕の青春を終わらせましたが、その代わりにいつまでも僕のそばにあってくれます。
これほど頼もしい曲を他に知りません。
 
これからもずっとこの曲は、ある時には僕を戒めて、またある時には僕を勇気づけてくれるかと思います。
それが僕の青春を終わらせた曲です。


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これ、書いてある内容は好きなんですけどテンションがキモいんですよね
反応くださいー


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