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ペーパーバックを読む⑫

MI6:グレアム・グリーンとジョン・ル・カレ

 1904年生まれのグレアム・グリーンと、1931年生まれのジョン・ル・カレ。親子ほどの年の差の両人だが、共通点がいくつかある。イギリス人であり、オックスフォード大学で学んでいる事。そして、英国の情報機関、MI6に所属したことがあるということである。これは、007、ジェームス・ボンドと同じ経歴だ。ともに、世界中に多くの読者を持つ、尊敬される小説家だった。(ル・カレはまだ存命ですが。)そして、彼らの小説がたくさん映画化されたことでも共通している。1991年にグリーンが亡くなった時、彼ほどの高名な作家が、とうとう、ノーベル文学賞を受賞しなかったことが話題になった。グリーンは、基本的にはシリアスな小説を書く作家(日本流の表現では、純文学の作家)だったのだが、その経歴を生かして、素晴らしいスパイ小説も書いた。ノーベル賞委員会は、それが気に入らなかったのだろう。それに対して、ル・カレは、一貫して、スパイ小説の大家として知られている。
 
 私が、グレアム・グリーンの名前を知ったのは、キャロル・リードが監督した名作映画「第三の男」の原作者としてである。もちろん、古い映画だから、リアルタイムで観たわけではない。いつ、どこで観たのかも記憶にないが、あの、有名な映画音楽とともに、戦後のウイーンを舞台にした白黒の映像は忘れがたい。私は原作の小説は読んでいない。ある評論家によると、映画は名作だが、原作は凡庸だったという。いずれにしても、この映画で、グリーンの名前は世界的なものになった。日本でも、早川書房から全集が出版されている。

 我が敬愛する作家、丸谷才一さんはグリーンの小説をいくつか翻訳している。しかし、私は、英語で書かれた小説は原則として英語で読むと、高校時代から決めていたので、申し訳ないが、一つも読んでいない。全て、ぺーパーバックで読んだ。たぶん、大学時代に集中して読んでいる。"BRIGHTON ROCK"「ブライトン・ロック」、"THE POWER AND THE GLORY"「権力と栄光」、"The HEART of the MATTER"「事件の核心」、"THE END OF THE AFFAIR"「情事の終わり」、"The Quiet American"「静かなアメリカ人」等々、いずれも、それから読み直していないけれど、実に懐かしい。中でも、「情事の終わり」は、カトリック教徒でもあるグリーンの面目躍如の小説で、私は今でもナンバー1の恋愛小説だと思っている。(最近、再映画化された時、日本での題名が「ことの終わり」と訳されていたのは興ざめだった。)グリーンは、小説も面白いが、自伝も面白い。校長先生の息子として生まれたグリーンは、悩み多き、反抗的な少年だったようで、自伝の記述を信じれば、ロシアン・ルーレットで自殺を試みたことが何度かあった。後年、共産主義者になったのは、生まれ育ちが影響しているのかもしれない。そんなグリーンのスパイ小説が、"THE HUMAN FACTOR"「ヒューマン・ファクター」だ。スパイの物語ではあるが、そこはグリーンのことだから、007とは違った、いかにも文学的香気の高い作品で、この作風は、後輩のル・カレに引き継がれた。


 ジョン・ル・カレ(John le Carré)、本名:デイヴィッド・ジョン・ムア・ コーンウェル〈David J. M. Cornwell〉は、オックスフォード大学を卒業した後、教職を経て、外務省に入り、MI6に志願した。主に西ドイツで勤務。この勤務の経験を生かして書いたのが、1963年に出版した、スパイ小説の金字塔と呼ばれる「寒い国から帰ってきたスパイ」だった。職務上の守秘義務があるから、この小説の内容も、MI6の検閲を経ていると言う。

 私が最初に読んだル・カレの小説は、ショーン・コネリーの主演で映画化された、"RUSSIA HOUSE"「ロシア・ハウス」だった。とても、エンタテインメントとは思えない難解な英語で、ストーリーも面白いと思えず、読み通すのにずいぶん苦労した。そのせいか、ル・カレの小説はその後、長らく敬遠していた。まとめて読んだのは、つい3年前のことである。退職後に時間の余裕ができたので、この世評の高い作家の作品をようやく読む気がでたのである。まず、代表作と思われる "The Spy Who Came in from the Cold" 「寒い国から帰ってきたスパイ」を読んだ。出版から半世紀もたってから読んだわけだが、まったく古びていなかった。ベルリンの壁崩壊後、もうスパイの世界は過去のものになり、リアリティを失ったと思われていたのだが、近頃は、新冷戦時代の到来かと言われている。そんな世界情勢のせいかもしれない。このスパイ小説は、現代の物語だといっても通用すると思った。007などとは全く違った、リアルで緻密な、息が詰まるような謀略とその謀略を見破ろうとする尋問が、淡い恋の物語とともに展開する。最後に主人公の運命を決めたのは、その恋だった。さすがに長く読み継がれる名作だけのことはある。ずいぶん遅くなったけれど、読んでよかった。でも、相変わらず、ル・カレの英語は難解だった。物語も、最後までどう展開するのか予想できず、と言うよりも、何を書いているのか理解できず、この小説が名作だとされていることを知らなかったら、途中で投げ出したかもしれない。でも、最後に、感動が待っていたのだから、投げ出さないでよかった。

 これでル・カレの面白さがわかったので、引き続いて、いわゆる「スマイリー三部作」を集中して読むことにした。「スマイリー三部作」とは、1970年代に出版された、初老のイギリス情報部幹部、ジョージ・スマイリーを主人公にした"Tinker Tailor Soldier Spy"「ティンカー・テイラー・ソルジャー、スパイ」、"THE HONOURABLE SCHOOLBOY"「スクールボーイ閣下」、"Smiley's People" 「スマイリーと仲間たち」の3作である。まず読んだのは、"Smiley's People" だった。何も考えずに選んだら、完結編だった。読む順序を間違えたのである。「裏切りのサーカス」という映画にもなった、"Tinker,Tailor,Sodier,Spy"を先に読むべきだった。そしたら、この小説ももっと面白く読めたかもしれない。いや、やっぱり違うな。ル・カレの小説はもともと面白く読めるというものではない。そもそも、私の英語能力を越えている。普段読んでいるアメリカ製のミステリなどとは違った、まるで純文学のような面倒な英語なのだ。つまり、知らない単語がたくさん出てくるという事。しかも、これがル・カレの作風ではあるのだが、前半は伏線ばかりでアクションがなく、あいまいな心理描写や、わけのわからない会話が延々と続くし、しかも、三部作の最後だから、著者は当然お馴染みの人物や出来事だと思って書いているのに当方は無知なのだから、話についていくのが大変だった。それでも、「寒い国から帰ってきたスパイ」がそうだったように、最後まで物語について行けば、きっとカタルシスが待っているはずだと思ったのだが、それも訪れることはなかった。あれ?宿敵カーラをやっつけないの?やっぱり、第一作から読むべきだった。

 と言うわけで、次に読んだのが、"Tinker Tailor Soldier Spy"。やっぱり難物だった。映画はあんなに面白かったのに。ル・カレと言う作家は、読者サービスなどこれっぽっちも考えないようだ。スパイ業界の「専門用語」を何の説明もなく多用するし、人物の背景や性格描写もほとんどしない。話があちこち飛ぶので、今、誰が何をしているのか、時々わからなくなる。実に疲れる。私の主義とは違うが、ル・カレは日本語訳で読んだ方がいいかもしれない。でもひょっとすると、今でもル・カレが尊敬されているのは、この難解な文章のせいかもしれないと思った。自分が読んでいるのは、安っぽいスパイ小説じゃないんだよと、読者に優越感を持たせるのだ。

 次には、当然、「スクールボーイ閣下」を読むべきだったのだが、ル・カレの難解な英語に疲れたこともあって、小説ではなく、評伝を読むことにした。ル・カレは、2016年に、"The Pigeon Tunnel: Stories from My Life"『地下道の鳩―ジョン・ル・カレ回想録』を刊行しているのだが、私が読んだのはそれではなく、ADAM SISMANという人が書いた"John le Carre: The Biography"という評伝だった。日本語だと上下二巻本になる詳細長大な伝記だ。ル・カレはまだ存命だから、当人の全面的な協力によって書かれた、言わば公式の本格的伝記だった。作家は嘘をつくのが仕事だから、自伝だからといっても、だからこそ、無意識の記憶の変容だけではなく捏造もある。そこを、著者のシスマンは、綿密な調査によって修正して、確実な事実に基づく伝記に仕上げた。そして出来上がった伝記は、小説よりも面白いものだった。ル・カレ、本名デヴィッド・コーンウエルの生涯は、まさにドラマに満ちあふれたものだったのだ。

 ル・カレは1931年生まれ。大岡信、谷川俊太郎、小松左京、山田洋次といった人々と同年だ。もう90歳に近い。イギリスの中産階級の生まれ。彼もまた、多くの優れた文学者と同じような、「出生の秘密」にともなう、心に大きな傷を持って育った少年だった。夏目漱石が幼少時に里子に出されたように、江藤淳が幼くして母親を亡くしたように、ル・カレも幼くして母親が家を出て、母のいない少年時代を過ごした。とにかく父親が凄い。まさにモンスターだ。生まれながらの詐欺師。まるでトランプのような人物だったようだが、詐欺罪で牢屋に入ったかと思うと大成功を収めたりして、幼いル・カレとその兄は、王侯貴族と乞食の生活をジェットコースターのように繰り返す生活を送った。母親はそんな夫に愛想をつかして、子供をおいて家出して、他の男と再婚した。ル・カレは、そんな父親に翻弄されながらも、パブリックスクール、スイスの大学を経て、オックスフォード大学に進学する。父親からの送金が途絶えたため、一時、大学を中退して、イートン高の教師になるが、復学してオックスフォードを卒業した。彼の得意は、ほとんどネイティブ同然に話せるドイツ語と、フランス語などの語学力だった。大学を出た彼は外務省の情報部門であるMI5の職につく。MI5は、ジェームズ・ボンドの活躍するMI6と違って、主に国内で地味な情報活動をする受け身の仕事だった。能力が満ちあふれていたル・カレは、仕事のかたわら小説を書き始める。それは、冷戦時代にふさわしいスパイ小説だった。そして、3作目である「寒い国から帰ってきたスパイ」で大成功を収める。その頃、ル・カレはMI6に移籍して、海外勤務を始めていた。なんて書いていくと、長くなるから以後の話は省略。とにかく、この父親というのが半端じゃない。後年、ル・カレが国際的なベストセラー作家になってからも、ル・カレの父親であることを利用して、あるいは自らがル・カレに成りすませて、世界中で大金を借りまくったくらいの人物だから。でも、作家ル・カレを産んだのは、この父親だったのかもしれない。ル・カレは、この父親を何度も殺したいと思ったそうだが。


 ル・カレは、サマセット・モーム、グレアム・グリーンの系譜を継ぐ作家だ。特に、グリーンの事はル・カレ自身も尊敬していて、「寒い国から帰ってきたスパイ」はグリーンの推薦文のおかげで世界的なベストセラーになった。他にも、スイスでの学生時代、トーマス・マンの講演会に出かけて、楽屋で握手を求めたなんていうようなエピソードが満載で、とても楽しい読書だった。功成り名をとげてからの記述は駆け足で読んだのだが、ただ、最初の奥さんとの離婚の事情や数々の女性関係についても正直に書かれているのは好感と興味を持った。長身でハンサムなル・カレはとても女性に持てたようだが、イギリス人によくあるホモセクシャルを疑われたこともあったようだ。他にも、本の印税でいくら儲けたかとか、原作の映画化の時、出演した大物俳優たちがどういう人物だったかなども。とにかく面白い本だった。

 実を言うと、このシスマンの伝記があまりに面白かったので、「スクールボーイ閣下」を読むのを、すっかり忘れてしまった。この文章を書くために、過去の読書記録を調べている時に、その事がわかった。「スクールボーイ閣下」は香港を舞台にしているそうである。古い作品ではあるが、現在の香港の混乱した情勢を考えると、今読む価値はあるかもしれない。それと、もう一つの発見。年老いたル・カレは、「寒い国から帰ってきたスパイ」から半世紀を経て、その続編とも言える、"A LEGACY OF SPIES"「スパイたちの遺産」を書いて、そこに、スマイリーも登場させていたという。知らなかった。「スクールボーイ閣下」とともに、これも読まないと。


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