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韓国の旅 #10

18年ぶりの釜山 2011年


 振り返ってみると、私の定年生活最初の年であった2011年には、3回も海外旅行をしたことになる。4月にソウルに行き、9月に北京、そして10月には釜山へ行った。全て東アジアのご近所の都市ですね。釜山については、私が希望したわけではなかった。妻が、その翌月に、韓国は初めてという知人の女性達を「引率」して、船による釜山旅行を予定しており、その下見として釜山に行くのに同行を仰せつかったのである。本番の旅行では、大阪南港発の「パンスターフェリー」を利用する予定だが、今回は時間の節約のため、博多からの高速艇を利用することにした。釜山で2泊、帰ってから、福岡で1泊という予定である。新幹線で博多駅に着き、駅前からバスに乗って、博多港国際ターミナルに向かった。ターミナルは、まだ新しい立派な建物だった。ここから、高速艇の「BEETLE」や、フェリーの「ニューかめりあ」が発着している。ここで出国手続きを済ませ、高速艇に乗船した。高速艇はJR九州が運行する「BEETLE」ではなく、共同運行の韓国艇「KOBEE」だった。驚いたことに、荷物検査もなく乗船することができた。高速艇は、対馬沖を航行して、博多と釜山を2時間55分で結ぶ。時速80キロ、なかなかのスピードである。私たちは2階席だったので、よくわからなかったが、1階に降りてみると、波をかき立てて進む姿は迫力があった。船に弱い人は、波を見ているだけで酔ってしまうだろう。この日は、波の高さは2メートルということだった。高速艇の乗船感覚は飛行機とよく似ていた。乗船中、ずっとシートベルトをしていたのも、内部の広さの感覚も似ているし、その揺れ方も、飛行機で軽い気流の乱れがあった時の感じと同じだった。ジェットフォイルの水中翼船だし、飛行機会社が造った船だから、乗り心地が似ているのは当然なのかもしれない。

 午後2時半に博多港を出発した「KOBEE」は、ほぼ予定通りの5時半に釜山港国際ターミナルに着いた。その直前に、先に博多港を出た「ニューかめりあ」を追い抜いた。埠頭には、巨大な関釜フェリーが、日の丸の旗を船尾にたなびかせていた。なかなか、外国に来たという気分がわかなかった。海に山が迫り、山の中腹まで建物が建ち並ぶ釜山港の様子は、神戸や長崎に似ているが、釜山港は、コンテナ取扱数の国際比較では世界のトップクラスであり、日本の港湾が束になってもかなわない巨大な港なのだ。港に林立する、キリンのようなコンテナ用クレーンの膨大な数を見ただけでも、その事が実感できた。

 ターミナルで入国手続きをし、(ここで簡単な荷物検査があった。)ターミナルの前からシャトルバスに乗って、釜山駅に向かった。このあたりの行程は、妻が事前にネットで調べてあったので、スムーズだった。今回の釜山での宿は、釜山駅のすぐ横にある、「東横イン釜山駅店」だった。そう、日本のビジネスホテルが、釜山にいくつも店舗を展開しているのだ。ここはそのひとつだった。今回の旅行は、あくまで下見のためだから、万事倹約のためにここを選んだというわけではない。実は、来月の本番でも、ここに泊まるのだそうである。さすがに女性たちは堅実である。ホテルは、世界各国から来たビジネスマンらしい人たちで混雑していた。なにしろ、朝食付きで1人1泊、3千円である。

 釜山は2度目だった。初めて来たのは1993年だから、18年前である。日本では細川政権が始まった(すぐに終わったが、)年、韓国では、釜山を地盤とする金泳三が大統領になり、軍人出身者による開発独裁的な政権から文民的な体制に向かって、韓国が変貌を遂げようとしていた時代である。すでに5年前にソウル五輪を成功させ、韓国は繁栄に向かっていたが、まだまだ貧しい時代だった。日本に20〜30年は遅れていると言われていた。その時の旅行は、ソウルに1泊、慶州に1泊、釜山に1泊という短いものだった。特に、釜山はあいにくの雨で、あまり楽しかったという記憶がない。あれから、ソウルには何度か行く機会があり、街の発展と変貌ぶりを見てきたが、なにしろ、釜山は18年ぶりである。全く違う街になっているに違いなかった。

 「東横イン」にチェックインした私たちは、すぐ横にある釜山駅に、夕食を食べに出かけた。今回は原則としてケチケチ旅行だから、食事も簡単にすませるつもりだった。釜山駅は、ソウル駅と似て、まるで空港のような、鉄とガラスの巨大な内部空間を持つ建物である。でも、日本の駅のように、デパートやホテルと一体にはなっていなかった。乗降客が1日どれほどなのか知らないが、やや閑散とした印象だった。広すぎるせいかもしれない。駅の内部をざっと見て回って、結局、階上のフードコートで食事をすることにした。注文は、ハングルを勉強している家内がした。(相手は日本語ができた。)私は海鮮鍋、妻は、石焼きピビンパを注文した。味は、まあこんなものだろう。蟹入りの鍋は、ちょっと辛かった。

 このままホテルに戻るにはまだ早いので、釜山一の繁華街、西面(ソミョン)へ行くことにした。前もって、今回の旅で大いに活用するつもりの、釜山の地下鉄事情を確認しておくためもあった。地下鉄の釜山駅は、鉄道の釜山駅とつながってはいなかったが、すぐ近くにあった。ここで、私と妻の明暗が分かれた。私がソウルで妻に買ってもらって、今回持参してきたICカード、T-moneyカードが釜山でも使えたのである。ところが、妻が持っていたカードは古いタイプのカードなので、釜山では使えなかった。だから、妻は地下鉄に乗るたびに、チケットを買わないといけなかった。販売機には、日本語表記もあるので、買うのは簡単ではあったが、何度もなので、面倒なことだった。

 ソウルほどではないが、釜山の地下鉄網はかなりなもので、主要な場所には地下鉄で行けるようになっていた。駅の転落防止用セキュリティ設備も、ソウルと同じく、日本の地下鉄よりずっと進んでいる。車内の風景もソウルに似ていた。物乞いや物売りの人間が頻繁に現れる。これは、ソウルよりも多いように思った。ある男は、突然現れて、車内で座っている乗客の膝の上に、なにやら印刷物を置いていった。しばらくして回収に現れた。当然ながら、何が書いてあるかわからない私は、記念に持ち帰って、後で解読しようと思っていたので、回収されたのは残念だった。

 西面に着いた。さすがに繁華街で、人が溢れている。特に何か目的があったわけではないので、たまたま通りがかった、ロッテデパートとロッテホテルを覗いた。デパートは閉店間際だったので、すぐに出て、ホテルのロビーを見物した。普段の旅なら、たぶん、ここに泊まっていただろう。それは当然ながら、東横インとは比較にならない、豪華なロビーだった。西面の見物はそれだけである。この街は、梅田のように、地上だけではなく、地下街が発達しているなというのが第一印象である。でも、今回の旅では、西面を見物したのは、この時だけに終わってしまった。私たちは、すぐに釜山駅前のホテルに戻った。本格的な釜山見物は翌日からである。


 東横インは朝食付きである。朝食会場は実に国際的な風景だった。東洋人も中東の人間も西洋人も、狭いところで同じものを食べていた。しかし、見たところ、メニューは炭水化物ばかりだった。糖尿病患者である私は食べられない。そこで、朝食は、旅行ガイド本で見つけた、焼き魚定食を食べにいくことにした。場所はチャガルチである。東京で言えば築地市場にあたるチャガルチは、地下鉄で、釜山駅から西へ3つ目の駅だった。駅から海岸の方角へしばらく歩くと、懐かしい風景が現れた。18年前に訪れた、チャガルチ市場場外の賑やかな通りである。魚を扱う露店や食堂が通りの両側に並んでいる。売子は元気なおばさんばかり。ガイドブックにあった店は、この通りにあった。店頭でも魚を売っている。中に入ると、私たちと同じように、朝食を食べに来た人たちが何組かいた。その料理を指さして、同じものを注文した。壁を見ると、日本語表記のメニューもあった。焼き魚定食が出てきた。食べきれないような量である。魚の種類はわからない。太刀魚と、白身の鯛のような紅色をした魚。スープと漬け物、それに、小蟹を辛く味付けしたもの。塩味のきいた焼き魚が美味しかった。魚はほぼ完食だった。


 腹ごしらえを終えて、いよいよ釜山探訪の開始である。近くに有名なチャガルチ市場の建物があった。18年前と較べると、ずいぶん近代的になっている。しかし、今回はパス。私たちは国際市場の方へ歩を進めた。ここは、ソウルの南大門市場に似た、生活全般なんでもそろう広大な市場である。大阪の道具屋筋に似た通りもあった。ここで、妻は土産の靴下を買った。ヴィトンやシャネルのマークが入った靴下である。もちろん偽物。本物があるわけがない。実に安かった。しかも、家内によると、なかなか品質は良いという。この店には、日本人観光客がたくさん来ていた。

 国際市場から、街頭彫刻が並ぶお洒落な通りである光復路を経て、地下鉄の駅に戻る途中に、BIFF広場があった。ガイドブックには、PIFF広場とある。これは、釜山の英語表記が、かつてのPUSANからBUSANに変更されたからである。BIFFとは、釜山が世界に誇る「釜山国際映画祭」のことだ。釜山劇場のある、この一帯は、釜山映画産業発祥の地だった。記念碑も建っている。映画祭の時期には、このあたりでもイベントが開催されるという。この路上に、釜山国際映画祭に参加した俳優や監督の手形のプレートが埋められていた。今村昌平監督やビートたけしらの手形があった。そう、北野武ではなかった。プレートのサインには、1997年とあった。

 再び、チャガルチから地下鉄に乗った。元来た方向に帰る。今度は、釜山駅を通り越して、佐川洞という駅で降りた。ここは、今回の妻の下見旅行の目的地だった場所である。衣類や服地の卸売り市場があるのだという。しばらく迷って、やっと発見した。やっぱり、下見に来ておいてよかった。ここは、南大門と同じように、ビル全体が市場になっていて、内部には、各フロアに、小売りもする衣類問屋が何十軒も並んでいた。洋服や雑貨もあるが、あふれるばかりの韓服や韓服の生地が、実に色鮮やかだった。往きと帰りに違う道を通ったのだが、帰り道で、線路にかかった歩道橋を歩いた。下に、貨物列車が走っていた。釜山を舞台にした、かつての大ヒット映画、「友へ/チング」に出てきたシーンを思い出した。高校時代の主人公達が、学生服を着て、線路を跨ぐ歩道橋を駆け抜けるシーンだ。帰国してから確認したら、残念ながら、ロケ地はここではなかった。でも、佐川洞からひとつ先の駅、凡一というところにあるというので、似たような景色だったのも当然だろう。

 再び、地下鉄に乗った。今までは1号線を利用していたが、西面で2号線に乗り換えた。目的地は海雲台(ヘウンデ)である。海雲台は、西面から16番目の駅だ。ずいぶん遠い。だから、その手前にあるセンタムシティ駅で降りることにした。お腹も空いてきたし、ここで昼食をとることにしよう。それに、ここは今回の釜山旅行で、私が見たいと思っていた場所なのだった。センタムシティは、釜山の新都心である。建築や都市計画に興味と関心のある私は、一度、この街を見ておきたかった。この街は、新世界(シンセゲ)デパートが中心になって、街づくりをしているという。ところが、行ってみて驚いた。「世界最大」をうたう新世界デパートの横に、シネマ街など、同じような施設を持つ、ロッテデパートが建っていたのだ。どちらも高級路線の豪華な店舗である。いくらなんでも、これでは共倒れにならないかと心配したが、そんな心配は無用なのだろう。どちらも大企業だから。とにかく、韓国においては、デパート業界はまだ元気であるようだ。


 妻はここで大胆なことをした。ロッテデパートの地下で買い物をして、その紙袋をさげて、新世界デパートに入り、地下のフードコートで昼食を食べたのである。まあ、大胆でもないか。その時の食事は、彼女はうどんの定食とキンパブ、私はトンカツ定食を頼んだ。ところが、私のトレイには、明らかに二人分の定食が出てきた。伝票を見ると一人分なのに、うどんがふたつ付いていて、トンカツの量も大盛りだったのである。もちろん、食べ残した。どうせ、うどんは食べられないし、実にもったいない事だった。円高のおかげで、料金は安かったのだが。

 センタムシティは、実に大規模なニュータウンだった。街路も広く、街路樹は美しく、ぴかぴかの高層ビルが林立している。まさに、新都心だった。ホールなどの文化施設を含めて、未来的で清潔な街並みの建設は、まだ続いている。そのせいか、生活のにおいは、あまり感じられない街だった。最近、このエリアに「映画の殿堂」という建物ができた。今年の釜山国際映画祭の主会場のひとつになったという。ところが、私たちが釜山へでかける直前に、この建物に大規模な雨漏りが発生した。どうやら、最後の仕上げがまだだったようである。映画祭の最中に雨が降らないでよかった。というわけで、私たちが、この斬新な設計の巨大な建物を見に行った時には、立ち入り禁止で、再度、工事中だった。いかにも韓国らしいと言えないこともない。

 また地下鉄に乗った。今度は、いよいよ海雲台である。釜山の誇る、高級海浜リゾートである。ここは釜山国際映画祭の会場でもあった。実は、18年前に釜山に来た時、私たちは、ここにあるハイアットホテルに1泊した。あいにくの雨で、夏の海浜の素晴らしい景観を堪能することはできなかった。しかし、ここ海雲台は懐かしい場所である。ハイアットホテルは、その後、マリオットとなり、今は、ノボテルになっている。でも、外観は当時のままだった。私たちは、ホテルの中に入って、海を眺めながらカフェラテを飲み、しばし、18年前を回想した。

 ビーチを散策した。今回は快晴である。砂浜の形は変わらないが、あたりの景観は一変していた。高層ビルが林立している。当時は、ハイアットホテルが一番目立つ建物だったのに。しばし砂浜にたたずんだ後、ノボテルの隣にあるパラダイス免税店に入り、高級な朝鮮人参入りのお茶を買った。これは、家内が、釜山に来る前から買いたかったものだそうだ。買い物の後、近くの海雲台市場を通って、駅までもどった。この市場も、18年前に歩いたことがある思い出の場所だった。すっかり舗装などはきれいになっていたが、全体的な雰囲気は変わっていなかった。最近では、釜山国際映画祭にやってきた俳優など、海外の映画関係者もここで買い物をしたりするそうだ。庶民的な雰囲気が、好まれるのだろう。

 海雲台から釜山駅へ戻る途中、まだまだ時間があったので、広安という駅で降りた。海雲台と並ぶ海浜リゾート、広安里へ行くためである。見たい景色があった。砂浜の沖を、真っ白い巨大な吊り橋、広安大橋が横切る風景である。新しい釜山を象徴する映像だった。ガイドブックでこの写真を見た私は、ぜひ実物を見たいと思った。実際に来てみて、写真以上に素晴らしい景観に嘆声をあげた。ここは、海雲台よりも素晴らしい。須磨明石の風景よりずっと上だ。すっかり気に入った。

 良かったのは、ビーチの光景だけではない。ビーチに面した道路沿いに、びっしりと建ち並んだ、数え切れないほどの洒落たカフェの佇まいにも感心した。夏には海水浴客などで雑踏するというが、今度来るときは、そんな光景を見たいと思った。それはともかく、広安里が気に入ってしまった私たちは、ビーチ沿いをずっと歩き、広安よりひとつ先の、金蓮山という駅から地下鉄に乗った。残念だったのは、ここ広安里ビーチで開催される「釜山世界花火祭り」を見られなかったことだ。なんと、私たちが釜山を離れた翌日が、その本番だった。ライトアップされた広安大橋の上空に打ち上げられる数万発の花火は、写真を見ただけでも幻想的な美しさで、その夜は、ビーチで日本でも有名なミュージシャンたちが出演するコンサートもあったのだという。ほんとに惜しかった。


 長い時間、地下鉄に乗って疲れたので、いったんホテルに戻って休憩した。しばらくして夕食の時間になった。出歩くのが面倒なので、今夜も釜山駅で食べることにした。今回は、「ポン」という、ピビンパの店を選んだ。広大な駅の待合スペースを見下ろす場所にある。まだ新規開店してから間がないようで、玄関前に祝いの花輪が飾ってあった。客の数も多くない。私は例によって、ご飯は食べず、上の具だけを食べるという変則的な食事方法である。でも、さすがに専門店だけあって、味は悪くなかった。釜山の旅2日目は、こうして終わった。

 3日目。いよいよ釜山とも、今日でお別れである。午後の高速艇で福岡に帰らねばならない。例によって、釜山駅で朝食をすませた私たちは、チェックアウトの手続きをし、荷物をホテルに預けてから、最後の半日観光に出かけた。地下鉄に乗り、チャガルチのひとつ手前にある南浦洞駅で降りた。行き先は釜山タワーである。光復路から長いエスカレーターに乗り、龍頭山公園に登ると、前方に、懐かしい李舜臣の像と、今にも折れそうなほど白く細く伸びた釜山タワーが現れた。ここには18年前にも上ったが、あの時は雨で、ほとんど眺望がきかなかった。我々の他に人気もなく、ずいぶん寂れた観光地だなというのが、その時の印象だった。この日は快晴である。観光客も多い。釜山タワーは、ダイナミックに変貌した釜山の街を鮮やかに見せてくれるだろう。

 タワーからの景観は、期待以上だった。山と海に囲まれた釜山の街を、360度、くっきりと眺めることができた。まさに、生きて動いている都市地図である。私の大好きな光景だった。眼下に、釜山港が、チャガルチ市場が、ロッテデパートが見えた。広安里や海雲台方面は、山の向こうになって、見ることはできなかった。釜山は広い。名残惜しいが、いつまでもここに佇んでいるわけにはいかない。タワーの展望室を一周して、下に降りた。タワーの下のテラスには、ソウルタワーと同じように、恋人たちが永遠の愛を誓う鍵がたくさんフェンスにかけられていた。釜山の恋人たちに幸あれ。

 南浦洞駅前では今、ロッテタウンが建設中である。デパートやショッピングモールに、映画館、ホテル、ロッテマートなどができるという。現在既に完成しているのは、デパートとブランド店やホールがが入るショッピングモールだけだった。それにしても、釜山市内だけで巨大なデパートを3つも持つ、ロッテの前向きな経営姿勢には驚いてしまう。時間があったので、見物していくことにした。デパートとつながった、円形をした豪華なショッピングモールのビルのエントランスは、巨大な吹き抜け空間になっていて、音楽にあわせて噴水の水が乱舞するショーが演じられていた。アジア最大のショーだという。屋上は庭園になっていた。ここからも、釜山港が見下ろせる。我々が乗る高速艇はまだ見えなかったが、関釜フェリーが停泊していた。少し早いが、ロッテデパートのフードコートで、釜山最後の食事をして行くことにした。最後まで、安上がりである。それに、デパートのフードコートは清潔だし、安心だった。私はソルロンタン、家内はジャージャー麺を注文した。味はまずまずだった。昼食を終えた私たちは、ホテルに戻って荷物を受け取り、ホテルのすぐ前から出発する釜山港国際ターミナル行きのシャトルバスに乗った。

 国際ターミナルに着いた。高速艇の乗船手続きと出国手続きは、ターミナルの2階で行われた。雰囲気は空港と変わらなかった。帰国後に読んだ、18年前の日記によると、その時の釜山最後の食事は、ここのターミナルの食堂でしたと書いてある。いったい、どこにそんなスペースがあったんだろう。1階かな。今度、機会があれば確かめてみよう。帰りの船は、JR九州のBEETLEだった。別に愛国心で言うわけではないが、韓国のKOBEEより、ずっと内装がきれいで、乗員のサービスも、乗り心地もよかったように思う。広い釜山港を出る時、海雲台や広安大橋の姿が小さく見えた。全てが首都ソウルに一極集中しているという韓国にあって、釜山は田舎の都市にすぎないのではないかと思っていた私の予断は見事にはずれた。釜山は魅力的な大都市だった。チェ・ジウの故郷だしね。釜山が頑張っているんだから、大阪や神戸も頑張らないといけない。大阪府と大阪市が喧嘩している場合ではない。今回の旅は、釜山のほんの上っ面を眺めただけだ。まだまだ知らないことがたくさんある。釜山にはまた来ることになると思う。というのが、その時の旅の感想だった。それは事実となって、その後、私たちは何度も釜山を訪れることになった。

 


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