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韓国の旅 #7


ソウル地下鉄旅行 2007年

 
 次にソウルに行ったのは、2年後のことだった。私にとっては、2年ぶり3度目のソウル、でも、妻にとっては、ここ3年間だけで6度目のソウルだった。すっかり韓流ファンになった妻は、当時、「ソウルの達人」を目指していたから、私は希望の行き先を告げるだけで、後は、彼女について歩くだけでよかった。今回の旅行は、関空出発が午後遅い便だったことや、仁川空港で手間取ったこともあって、宿舎である新羅ソウルホテルに着いた時は、既に夜になっていた。とはいえ、真夏のことだから、外はまだ明るい。新羅ソウルの私たちの部屋の窓からは、正面に南山タワーがくっきりと見えた。とても近い。部屋に荷物を置いた私たちは、さっそくタクシーで南山タワーへ向かった。ソウルに行ったことのある人には言うまでもないことだが、南山(ナムサン)タワー(改装してからは、Nソウルタワーという)は、南山という、日本の植民地時代には朝鮮神宮があり、今は公園化されている、市内の小高い山の上にある。したがって、タワー自体の高さはさほどではないが、海抜はかなり高い。眺望が素晴らしかった。ここには家内はすでに何度も来ているのだが、私は初めてだった。チェ・ジウが主演した韓国ドラマ「美しき日々」は私も見ているので、その舞台にもなった南山タワーには、一度来たかったのである。それに、私は高い建造物に上るのがなによりも好きなのだ。

 南山タワーの展望室からは、ソウルの夜景が360度、見渡すことができた。さすがアジア有数の大都市ソウルである。なかなか壮観だった。面白かったのは、展望窓ガラスの表示である。普通なら、景福宮、南大門という風に、眼下に見える建造物を説明する表示があるところに、ローマとかニューヨークとかの海外都市の名前が書かれていたのである。以前、南山タワーに上ったことのある人の話では、普通に名所が紹介されていたそうだから、改装の時に変更したものらしい。どういうわけだろう。軍事的な配慮だろうか、それとも、南山タワーが世界の中心だというのだろうか、それなら、気宇壮大な表示である。タワーを下りて、構内のフードコートでビビンパを食べた。これが、この日の夕食である。夜遅くなり、お腹が空いていたこともあって、おいしかった。キムチをたっぷり混ぜて食べた。帰りは、現地ではケーブルカーと呼ばれている、ロープウエーを利用して明洞方面に下り、そこから地下鉄に乗って、新羅ソウルホテルの最寄り駅である東大入口駅に戻った。その時から、今回のソウル旅行の移動手段の基本は地下鉄にしようという方針が自然にきまった。

 今回私たちが3泊したホテル、新羅(シルラ、またはシーラと発音する)ソウルは、韓国で最も格式の高いホテルのひとつである。1973年の創業ということだから、さほど歴史はないが、国賓クラスの人たちが泊まることで有名だ。ソウルでオリンピックが開かれた88年には、事務局がここに置かれたという。南山の東側の麓にあって、明洞などの繁華街とは離れているので、夜遊びを楽しむには不便だが、閑静で落ち着いた、高級な雰囲気とサービスが魅力だった。何度も女友達らとソウルに来ている妻は、普段はもっと安価で庶民的な所に泊まっているのだが、今回は私に気をつかってくれたのである。ソウル新羅ホテルの格式を象徴するのは、王宮風建築の迎賓館と、かつての王宮の門を移設したという立派な門である。どうしてここにこんな門がおかれたのかというと、このソウル新羅の地には、かつて、初代の朝鮮統監だった、(朝鮮総督という役職ができたのは、伊藤の死後、日韓併合後。)伊藤博文を祀る博文神社というのがあったからだという文章をあるガイドブックで読んだ。それなら、近くの南山の、かつて朝鮮神宮のあった辺りに、伊藤博文を暗殺して韓国の英雄になった、安重根の記念館があることと対比して、面白い話だなと、ネットで、「博文神社」を検索してみたら、かつてソウルにそんな神社が存在したという記述はどこにもなかった。帰国後に調べたところ、本屋で、海野福寿という人の「伊藤博文と韓国併合」という本をみつけた。そこに、「博文寺」のことが書いてあった。そう、「博文神社」ではなく、「博文寺」だったのですね。家に帰って、旅行ガイドブックをもう一度確かめたら、そこにはちゃんと「博文寺」と書いてあった。私の単純な思い違いだったのである。そうなれば、インターネットは便利だ。「博文寺」で再検索すると、必要な情報は、たちまちの内に集まった。以下は、その概要。

 「博文寺」の正式名は、春畝山博文寺。春畝は伊藤博文の号である。昭和7年に完成した。建立したのは、児玉源太郎の長男である。この人は、朝鮮時代の伊藤の秘書官を務めていた。博文寺の本堂は鉄筋コンクリートだった。設計は、あの伊東忠太である。平安神宮や築地本願寺の設計者として知られる彼は、朝鮮神宮の設計者でもあったから、その縁だろう。本堂の他の建物は、景福宮から移築した。正門は慶煕宮からの移築である。解放後、この地に韓国政府が迎賓館を建設することになって、博文寺は取り壊された。

 これらを読んで、わかったこと。迎賓館は新羅ホテルの附属施設なのではなく、新羅ホテルが迎賓館より後からできた附属施設だったのだ。また、慶煕宮から移築した興化門は、今では、本来の慶煕宮のもとあった場所に復元されている。ということは、僕たちが何度もくぐった、あの立派な門は、まだ新しい、複製品であった。昨年リニューアル工事を終えたというホテルの内装は、とてもシックで高級感が漂っていた。各部屋にインターネットの接続端末があったり、携帯電話が備えてあったりと、ビジネス目的の宿泊者への配慮もかなりのものだが、私たちが嬉しかったのは広々としたバスルームだった。足をゆったり伸ばして入れるバスタブの他に、シャワールームが附属していた。これは便利だった。ホテルのレストランについても、書いておこう。朝食は、一階の「パークビュー」でのバイキングだった。料理の基本は洋風である。キムチなどは置いていなかった。団体客がいないせいか、スペースがゆったりしているせいか、料理の前に列ができることもなく、僕たちは毎朝、優雅な朝食を楽しむことができた。でも、この「パークビュー」もそうだが、新羅ソウルには韓国料理のレストランが存在しなかった。もともと予定にはなかったのだが、2日目の夜、外出が面倒になって、ホテルで夕食を食べることにした時に、これが障害になった。せっかく韓国に来たのだから、できれば韓国料理を食べたかったのだが、ホテルにあるのは、フランス料理、中華料理と日本料理のレストランだけだったのである。結局、日本料理を選んでしまった。「有明」という店である。わざわざソウルにまで来て、高い日本料理を食べたのである。愚かな選択だった。少し先走ってしまった。まずは順を追って、ソウルの旅、2日目の朝からレポートをしよう。


 ホテルで優雅なバイキングの朝食をすませた後、昌徳宮(チャンドックン)へ向かった。東大入口駅(近くに東国大学があるので、この駅名になっている。)から地下鉄に乗り、路線を乗り継いで、安国駅で降りた。ソウルの地下鉄は便利な上に安い。ほとんどの駅へ1000Wで行けた。円安時だったが、それでも130円ほどだ。どの駅にも有人の切符売り場があって、そこで駅名と枚数を告げて切符を買うのは、「ソウルの達人」見習い中である妻の役目だった。私の役目は、地下鉄路線図を見て、乗換駅や下車駅に注意することだけだった。最初の方針通り、今回の旅では地下鉄を大いに利用したのだが、階段の上り下りや、乗り継ぎの歩行距離がかなりあり、年をとったら地下鉄はしんどいねと妻と話した。最近のソウルの地下鉄では、各駅のホームに、転落防止用のガラスドアが設置されるようになり、(スクリーンドアと言うのだそうだ。)東京や大阪よりも安全管理では進んでいるようである。ただ、驚いたことがあった。突然、車中にラジカセの音楽が鳴り響き、サングラスに白い杖の盲人が歩いてきたのである。ラジカセは、その盲人が肩から提げているバッグの中にあった。他の乗客は平然としている。それどころか、何人かは、その盲人の持っている容器に小銭を入れていた。どうやら、地下鉄車内で物乞い行為をすることは、社会的に認められているようだった。

 安国駅から少し歩いたところに昌徳宮があった。家内は、昨年、真冬の昌徳宮を凍えながら見物しているのだが、僕は初めてだった。この王宮は、いつもはガイド付きの見学しか認められていないが、毎週木曜日に限っては、自由に見学ができるのだそうだ。さすが、ソウル通の家内が作成した日程だ。ちゃんと考えてある。ところが、スケジュール通りに行動したのに、この日僕たちは昌徳宮に早く着きすぎて、チケット売り場が開くまで30分ほど待機しないといけなかった。チケットを買い、門が開くと同時に、僕たちはまっさきに入場した。僕たちの前に観光客はいない。全く無人の王宮を歩くような気分だった。とても気持ちが良かった。家内の案内で、僕たちは、「秘苑」をめざして、どんどん奥へ奥へと歩いて行った。

 昌徳宮は世界遺産に登録されている。もともとは、チャングムが活躍した、景福宮が正宮で、昌徳宮は離宮だったのだが、秀吉の朝鮮侵攻の時、どちらも廃墟になった後、景福宮の方は19世紀になるまで再建されなかったのに対して、昌徳宮は17世紀に再建されて、長らく正宮の地位にあった。しかし、この王宮で私が見たかったのは、その建造物ではなく、奥に広がる「秘苑」だった。私が信頼している、ある建築評論家が、韓国で見るべき場所として、この「秘苑」をあげていたからである。王宮の建物群を過ぎて、どんどん奥へ歩くと、奈良の春日原生林を思わせるような鬱蒼たる森になった。とてもソウルの都心だとは思えない静寂さである。セミが鳴いている。ここが「秘苑」かと思いながら更に歩を進めると、見覚えのある池の前に出た。「チャングムの誓い」で、王様の侍医になったチャングムが王様と散歩していた芙蓉池である。ここで撮影したのかと、嬉しくなって写真を撮っていたら、近くの売店に出勤してきた女性が声をかけてくれて、私たち二人の記念写真を撮ってくれた。こういう積極的な親切さは、韓国人に特徴的なことだと思う。そこから出口までは、来る時とは違うルートをたどったのだが、後で地図を見ると、我々は広大な敷地の半分しか歩いてはいなかった。果たして、私たちは「秘苑」を本当に見たと言えるのだろうか。どうやら、もう一度、ここには来ないといけないようだが、その時には、違う季節にしようと思う。今回は、日本を襲っている台風5号の影響か、ソウルはずっと曇っていたのだが、湿気が高くて、とても蒸し暑かった。今度来るなら、夏以外がいいようである。


 昌徳宮を出て、東京なら表参道にあたるのだろう、王宮前のしゃれた並木道に面した、「伝統飲食研究所」というところで休憩した。正確には、この研究所の中にあるカフェ「ジルシル」で柚子茶を飲み、餅菓子を食べた。ここは、日本の観光ガイド本には必ず取り上げられる有名な店のようであるが、平日のせいか、お盆の観光シーズン前だったせいか、客は私たちだけだった。昨日、仁川空港へ迎えにきてくれた現地ガイドの話では、今年は、日本人観光客の数がめっきり減っているということだったが、その影響もあるのかもしれない。また歩く元気が出たところで、仁寺洞へ行った。家内が、ソウルへ来るたびに必ず訪れる通りである。私は2年ぶりだった。骨董品や文具、美術品を扱う店が多いことで知られていた通りだが、最近では、観光客向けの土産物店が多い。私たちも、馴染みの店や初めての店、何店かを覗いて歩き、扇子や額絵やTシャツなど、いくつか土産を買った。仁寺洞の賑わいは、2年前とあまり変わっていないようだが、店の入れ替わりはあるようだった。

 買い物を終え、どの観光ガイドにも載っている、有名な耕三美術館の中にある「伝統茶院」で再び休憩した後、仁寺洞を出た私たちは、近くの清渓川まで歩いた。2年前、完成間際の清渓川を見てから、この川のことが日本で報道されるたびに、注意してきた。だから、今回、思いがけず早く、ここを再訪できることを楽しみにしていた。清渓川は、すっかりソウルの街に馴染んでいた。とても、ポンプで水を循環させている人工の川だとは思えなかった。川沿いを散歩する人たちは、大人も子供も、みんな楽しそうだった。建設費用がいくらかかったのか、メンテナンス費用がいくらなのか知らないが、人々のこんな表情を見る限り、そして、ソウルの国際的なイメージアップへの貢献を考慮すれば、この河川再生事業は大成功だったと私は思う。

 乙支路入口駅から地下鉄2号線に乗って、市庁駅で降りた。9番出口を出る。地下鉄を利用する場合、何番出口から出るのか確認する事が大事だ。でないと迷ってしまうことになる。今回、妻は、日本を出る前から、地下鉄の出口をちゃんと確認してあった。なにしろ、今回の旅の大きな目的のひとつである食堂へちゃんと行き着けるかどうかが賭かっていたのであるから。韓国に関する情報を日頃からこまめにチェックしている妻は、朝日新聞に小さく紹介された、ソウルの人気コングクス店の記事を見逃さなかった。さっそくインターネットで場所を確認。今回の旅の日程にこの店での昼食を繰り込んだのである。その店の名は晋州会館(チンジュフェグァン)と言った。庶民的な、街の食堂という雰囲気の飾り気のない店で、気楽に入れたのだが、中に入って驚いた。壁一面に、新聞やテレビで取材された時の記事や写真がベタベタと貼ってある。お昼時とあって客がどんどんひっきりなしに入ってきた。かなりの人気店のようだった。やっと席を確保して、家内がコングクスを頼んだ。他の客もみんなコングクスを頼んでいるから、ひょっとすると、昼のメニューはこれだけなのかも知れない。初めて食べるコングクスは、カルボナーラのような味がした。そう、冷製カルボナーラだった。後で、「ソウルナビ」というインターネットサイトの紹介記事を読んだ。豆乳スープ麺であるコングクスは、ソウルの夏の定番メニューで、夏バテ時の栄養補給にぴったりなのだそうである。特に、この晋州会館のコングクスが絶品なのだそうだ。そして、この記事にも、コングクスはカルボナーラのような味だと書いてあった。食べ方としては、味が薄いと思ったら、塩を入れるか、キムチと一緒に食べると良いと書いてあった。僕は大量のキムチを混ぜて食べたので、知らずに、正しいコングクスの食べ方をしていたことになる。


 昼食を終えた私たちは、また地下にもぐった。次の行き先は、4号線二村駅にある国立中央博物館である。十数年前、私たちが初めて韓国を訪れた時、光化門と景福宮の間には堂々たるな白亜の建物が建っていた。旧朝鮮総督府である。当時は、その建物は国立中央博物館として利用されていた。私たちも見物した。その後、その韓国現代史の生き証人でもある白亜の建物は、負の歴史遺産として、時の金泳三政権によって解体されてしまった。2年前に私たちがソウルを訪れた時には、すでにその建物は痕跡もなかった。景福宮の再生計画が着々と進んでおり、新しい国立中央博物館は、龍山という処に建設中だと聞いた。その後、新しい博物館は見事に完成し、多くの韓国民が見物に押しかけているというニュースが日本にも伝わってきた。建築ファンでもある私は、今度ソウルに行く機会があれば、この博物館をぜひ見たいと思っていた。

 その機会がやってきた。今回の旅程に中央博物館の見物が入ったのは、もちろん、私の希望だった。梨泰院の南に広がる龍山地区は、かつて米軍関係の基地や施設があった地域である。返還されてから、ソウルのニュータウンとしての開発が始まった。その象徴が、龍山家族公園の緑の中にある国立中央博物館だった。広大な建物である。ゆるやかな階段状のアプローチを登っていくと、巨大なゲートが現れた。博物館は、東館と西館に分かれており、二つの建物の間が屋根で繋がれているので、その部分が巨大なゲートに見えるのである。行った事はないけれど、パリの新凱旋門のようだった。ゲートの下は階段状の野外広場になっていた。右側の東館が常設展示室、左側の西館には、企画展示室や図書館、子供博物館があった。私たちは常設展示室に入った。

 妻は、ここまでで既に疲れてしまったようである。ホールで休憩しているから、一人で館内を見物してきてくれと言う。私も、展示物は十数年前に一度見ているし、今回は建築に興味があっただけだから、ざっと館内を一巡するつもりで別行動をとることにした。結局、見物に約1時間かかった。それでも、ざっと駆け足で見ただけである。少し詳しく見たのは陶磁器の部屋と仏像の部屋だった。さすがに李朝白磁や高麗青磁には名品が揃っている。ここは時間をかけて鑑賞しないといけなかった。

 仏像の部屋には、この博物館最大の宝物である、金銅弥勒菩薩半跏思惟像が、他の仏像たちとは別の、この像のためだけの特別展示室に展示されてあった。日本の国宝である、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩と姿形はそっくりである。ただし、日本の弥勒さまは木造だ。日本の弥勒さまが、朝鮮半島からの渡来ものか、日本で作成されたものか、未だに決着がついていないようだが、製作者は、すでに帰化していたとしても、朝鮮半島出身の人であったことは間違いのないところだ。聖徳太子の時代においては、日本と朝鮮半島の交流はとても密であり、ひとつの文明圏にあったと言っても過言ではない。その象徴が、この美しい弥勒さまなのだった。中央博物館には、日本美術の部屋もあった。ざっと観ただけの印象だが、ボストン美術館の日本展示などとは比較にならない、低レベルだと思った。あまり良いものはない。ただ、今回、特に気をつけて見たのは、朝鮮通信使に関する展示がどうなっているのかということだった。通信使に関する展示は、国際交流の展示室で見つけた。残念ながら、地味な展示だった。たぶん大坂の淀川を航行中の通信使を描いた絵巻物とパネル展示があるだけで、特に400年を記念するということはなかった。ただし、この中央博物館には、他にも見るべきものはたくさんある。新羅時代の黄金の装飾物などは、日本でも展覧会が開かれたことがあるので、見た人は多いだろう。その他にも、高麗時代の金属活字も重要な展示物だった。韓国が、金属活字発祥の地であることを知っている日本人は、まだ少ないだろう。韓国で金属活字が発明されたのは、グーテンベルクより前の時代なのだ。

 ロビーで待っていた妻と落ち合って、中央博物館を出た。その前にミュージアム・ショップを一緒に見物したのだが、結局、何も買わなかった。また次の機会にしよう。次に我々が向かったのは、ソウルの最新人気スポット、LEEUM(リウム)だった。三星財閥の運営する(館名のLEEは会長の李さんの姓からとった)私立美術館であり、かつては予約しないと見物できなかったのが、最近一般に公開されたのである。ここを今回の旅程に組み込んだのは、やはり私である。目当ては展示物ではなく建築だった。この美術館は3つの建物で構成されており、それぞれの館の設計者が、マリオ・ボッタ、ジャン・ヌーベル、レム・コールハースという、現代建築好きにはこたえらない超豪華メンバーなのだった。

 地下鉄6号線の漢江鎮駅から、地図を見ながら歩いている時に、雨が降ってきた。幸い、折りたたみの小さい傘を持っていたので、無事に美術館に着いた。受付で入場券を買い、荷物をクロークに預ける。それから、エレベーターで最上階にあがった。エントランス部分を含め、この最初の建物の設計者はマリオ・ボッタである。日本では東京渋谷のワタリウム美術館(私はまだ行っていない。)の設計者として知られているスイスの世界的建築家である。この建物の見所は、白い円筒形の階段室だった。ライトが設計した、ニューヨークのグッゲンハイム美術館(ここには行った。自慢。)とは違って、規模も小さいし、階段室自体が展示スペースになっているわけではないのだが、建物のアクセントにはなっていた。ヨーロッパの旧い教会の塔に彷徨い込んだような気分にさせてくれた。

この第1展示室の展示は、陶磁器だった。さすがにサムソン財閥。国宝クラスの名品がずらりと並んでいて、国立中央博物館にも負けないくらいの展示だった。わが故郷の大阪には「東洋陶磁器美術館」というのが中之島にあって、そこにも世界的な名品が揃っているのだが、そのコレクションはそもそも安宅財閥の私的コレクションだった。まさか、こんな名品を多数私蔵していると、安宅財閥のように崩壊すると考えて、サムソンの李会長は、コレクションを一般公開することにしたというわけではないだろうが。いったん、ロビーの階に下りて、第二展示室に入った。ここもまず階上にあがってから展示物を見て回る仕組みである。この建物の設計者はジャン・ヌーベル。言うまでもない、現代建築のスーパースター。日本では電通ビルを設計している。この展示室は、黒を基調にしたクールな内装だった。展示内容は、現代美術。ナムジュン・パイクら、世界の有名どころが揃っていたが、ここは駆け足で通り過ぎる。現代美術は、中之島の国立国際美術館でたっぷり見ている。あまり相性はよくなかった。というところで、2カ所の見物が終わった。残りひとつは、レム・コールハース設計の棟だが、あいにく、そこを見物するには別料金がかかるとの事なので、今回は断念した。いつまでも個人の趣味に妻を付き合わせるわけにもいかない。博物館・美術館見物はこれでおしまい。雨もあがったようだ。さすがに、歩き疲れたので、美術館から新羅ホテルまでは、地下鉄ではなく、タクシーで帰ることにした。最後におまけ。この美術館の庭に、懐かしいオブジェがたっていた。巨大な蜘蛛。そう、六本木ヒルズの前にたっている蜘蛛と同じものであった。ただし、ここにいるのは2匹だった。六本木ヒルズの蜘蛛は「ママン」と呼ばれ、卵を抱えていたのだが、ここLEEUMにいるのは、その成長した子供なのかもしれない。

 ここで余談。今これを書いている2020年に跳ぶ。つい先日、10月25日に、数年間病床にあった、サムソンの会長、李健煕(イ・ゴンヒ)氏の死去が報じられた。イ会長は、早稲田大学を卒業した後、父親の会社を継いで、サムソンを世界的な大企業に育て上げた人物である。何十年か前、私は、サムソン電子から日本のシャープに派遣されて液晶の研究をしているという、韓国人の安さんという人を友人に紹介されて、何度か一緒に遊んだことがあった。アンさんは、ソウル大学を卒業して博士号を持っている、優秀なエンジニアだった。奥さんも、梨花女子大学を卒業した才媛だった。二人とも、とても知的で温厚で、その時までの私の韓国人観を変えてくれた人物だったのだが、ここで言いたいことは、その当時は、サムソンが日本の企業から学ぶ立場だったということだ。それから、たぶん、スマホが大きなきっかけになったと思うが、サムソンが大成長を遂げて、シャープはもちろん、パナソニックやソニーなど、日本の電機メーカーが束になっても勝てない、世界的な大企業に成長するのは、あっという間だった。イ会長は、そんな奇跡を起こした経営者だった。ご冥福を祈る。ついでに書いておくと、新羅ホテルもサムソンのグループだ。

 3日目のソウル散策は、前日まではガイド役に徹していた、妻が主役だった。日本における韓流ドラマ・ブームの立役者、「四季シリーズ」のユン・ソクホ監督の事務所である「ユンスカラー」は、8月現在NHKの地上波で放送中の「春のワルツ」の撮影舞台のひとつになり、緑の芝生の中の白いグランドピアノを思わせる洒落た建物の外観は、すっかり、日本の韓流ドラマファンの間で馴染みのものになった。今度、その「ユンスカラー」が「四季シリーズ」のテーマ館「FOUR SEASONS HOUSE」として公開されることになった。それが、弘大(ホンデ)にあったのである。この日最初の目的地は、そこだった。私たちは、いつものようにホテルで朝食を済ませた後、例によって、地下鉄で弘大へ向かった。私たちが降りたのは、地下鉄6号線の上水という駅である。ホテルのある東大入口駅からは、一駅目の薬水で乗り換えると、その後は乗り換えなしで行けた。「FOUR SEASONS HOUSE」の見学には予約が必要である。妻は日本から予約の電話を入れてあった。予約は日本語でも可能だったそうである。もともとが、日本人観光客向けの施設なのかもしれない。開館時間よりかなり早めに着いたので、近所を散歩する事にした。言うまでもなく、弘大の街は「春のワルツ」の主要撮影地である。家内につられて、私も、このドラマを衛星放送の初回から最終回まで欠かさず見たので、弘大の街はぜひ自分の目で見ておきたかった。しばらく、あまり人通りのない道をぶらぶら歩いでいたら、なにやら見覚えのある通りに出た。そう、ドラマの中で何回も登場する、あのキンパブ屋さんのある通りである。店はまだ開店前だったが、現在も営業中である。嬉しくなって、その店の前で記念撮影をした。

 そろそろ「FOUR SEASONS HOUSE」オープンの時間が近づいてきたので、引き返すことにした。同じ道では面白くないので、弘大の校舎を見て行くことにした。弘大の正式名称は弘益(ホンイック)大学である。韓国一の美術系大学として有名だ。弘大の周辺はセンスの良い商品が並ぶブティックや、ユニークなカフェやバーが多くあって、観光地になっていた。その弘大の建物は最近改築されたばかりだった。巨大なゲートのような建築は、国立中央博物館を思い出させた。夏休み中だが、学生が何人も出入りしていた。私たちは玄関を見物しただけで、大学前のオリ二公園の横の道を元の方向に戻った。この小さな三角公園は、フリーマーケットで有名だそうだ。これは後で知った。

 「FOUR SEASONS HOUSE」に戻ると、私たちの他にも、見学を予約したグループが何組か集まっていた。さっそく、女性の案内で、館内を一巡する。この建物の2階は、まだユンス・カラーの事務所として利用されているようで、公開されているのは1階と地下である。「秋の童話」「冬のソナタ」「夏の香り」「春のワルツ」と、四季シリーズのそれぞれの部屋があって、撮影に使った小道具や衣装、台本、写真パネルなどが展示されていた。全て本物だから、ファンにとっては、こたえられない展示だろう。私が全話を見たのは「冬のソナタ」と「春のワルツ」だけだが、妻は全てを見ていた。これ以外に四季シリーズではないが、ユンス・カラーの作品ということで、「雪の女王」の部屋もあった。妻は韓国ドラマの大半を見ているから、当然、「雪の女王」も見ている。私も、おつきあいで時々見ていた。(余談だが、「雪の女王」の主演男優は、現在、「愛の不時着」で人気沸騰のヒョンビンだった。同じく、「愛の不時着」のヒロインを演じた、ソン・イェジンは「夏の香り」で人気女優になった。)

 「春のワルツ」に弘大の街並みがよく登場することと、このユンス・カラーの事務所そのものが物語の舞台として、何度もドラマに登場することは既に書いたが、ドラマの中のウニョンの部屋のセットが、この建物の地下につくられていた事は、今回、初めて知った。実際にここで撮影したのである。ウニョンの部屋は、撮影当時のままに保存されていた。実に小さい部屋である。ベッドと机でほぼいっぱいだった。内装は、まさにドラマのまんま。当然だ、ここで撮影したのだから。撮影時、セットが小さくて、カメラは部屋の中に入らないので、壁に穴を空けて、外から撮影したそうである。私も、妻をベッドに座らせて、穴の外から記念撮影をした。

 妻は、いつもの韓流ファンの仲間たちと来ていたら、きっと半日はここにいただろうが、あいにく、今回は私と一緒である。あまり長居はできなかった。それに、この日は、午後にもビッグイベントが待っていた。帰りは、2号線の弘大入口駅から地下鉄に乗った。上水駅と比較すると大繁華街の賑やかな駅だった。乙支路入口駅で途中下車し、ロッテホテルの地下のカフェテリアでパンと珈琲の昼食をとった。家内は、興奮しすぎているのか、あまり食欲がないというので何も食べなかった。その後、地上に出て、人が溢れる明洞地区を通り抜けて、忠武路駅まで歩いた。途中、テレビドラマの撮影現場らしきものに遭遇した。有名な明洞聖堂は修理中だった。明洞から忠武路までは、家内が、歩いたことがあるし近いと言うので、歩いたのだが、これは失敗だった。家内が歩いたのは冬か春の話である。今は、真夏。わずか20分くらいの距離だが、すっかりバテてしまった。忠武路で地下鉄駅に潜った時には、ほっとした。ガイドブックによると、忠武路は映画の街なのだそうだ。そのせいか、地下の通路に映画祭の授賞式の写真パネルが飾ってあった。また、忠武路の駅は、今回のソウル旅行で通り過ぎた、数多い地下鉄の駅の中で、もっともユニークな駅だった。通路や駅が、まるで岩をくり抜いた洞窟のようなデザインなのである。これはどういう意図なのだろう。ここで洞窟探検映画でも撮影したのだろうか。いずれ調べてみよう。いずれにしても、忠武路駅から、ホテルのある東大入口までは、ひと駅だった。(これも余談だが、忠武路の忠武というのは、秀吉の侵攻軍と闘った、韓国の英雄、李舜臣将軍のことである。この時より後のことだが、世宗路に巨大な世宗像が建立された時、以前から世宗路に建っていた李舜臣像を忠武路に移設しようという動きがあった。反対意見が多くて断念したそうである。)

 東大入口駅から、構内バスに乗って向かったのは、宿舎の新羅ホテルではなく、その横にある新羅免税店だった。これから、新羅免税店のロビーで、「チャングムの誓い」でチョン最高尚宮(チェゴサングン)役を演じた、女優のヨ・ウンゲさんのサイン会があるのだ。実は、後で知ったことだが、今回の旅行日程は、全て、このサイン会を中心に組み立てられていたのだ。妻が、今回、宿舎に新羅ホテルを選んだのも、このサイン会のためだったのである。昨日の夜に、この日の会場はちゃんと下見をしてあった。私たちは、準備のできたサイン会場をちらりと見て、免税店の屋上にあるカフェに向かった。サイン会までには、かなり時間があった。ここで珈琲とケーキ。まだ時間はあったが、しばらくして、妻が一人で先に降りた。サイン会の良い順番を確保するためである。私は、しばらくカフェで読書をして、サイン会の直前に階下に降りた。外は突然の大雨になっていた。私が階下に降りてまもなく、ヨ・ウンゲさんが入ってきた。ドラマではかなりのお婆さんであったが、生で見る彼女はさすがに女優さんである。若々しく、とてもチャーミングだった。とても67歳には見えない。サインと撮影会が始まった。参加者はほとんど、日本からの観光客のようだ。次から次へとにこやかな記念撮影が続く。妻の番が来て、私も横からさかんにシャッターを切った。妻の持参カメラを預かった、係の人が、家内とウンゲさんのツーショット写真をとってくれた。妻は、実に幸せそうな顔をしていた。無理もない、妻にとって、今回のツアーの最大の目的が、このサイン会への参加だったのだから。(残念なことに、ヨ・ウンゲさんは、2009年に69歳で亡くなられた。高麗大学を卒業したインテリ女優だった。ネットの情報によると、このサイン会のすぐ後に、癌が発見されたようだ。)


 サイン会が終わって、今回の旅行はほぼ終わった。あとは、翌日昼の帰国を待つばかりだった。その前に、今夜の晩ご飯を食べる必要があった。昨夜の失敗の経験があるので、ホテルで夕食をとる事は考えなかった。私たちは、今度は地下鉄ではなく、タクシーで雨上がりの明洞に向かった。
夕食は、ロッテデパートやロッテ免税店の上階にある、飲食店街でとるつもりだった。その前に、本屋を覗くことにした。日本にいる時、私は、ほとんど毎日、本屋を覗くのが習慣になっている。ソウルに来ても、本屋に行きたかった。入ったのは、乙支路入口地下のリブロという本屋である。かなり大きな書店だった。書名はハングルばかりだから、ほとんど何の本か理解できない。でも、大量の本を眺めているだけで、なにやら気分が高揚するのだった。小説と歴史のコーナーを探して歩いた。歴史のコーナーはわからなかったが、小説のコーナーに、日本の翻訳小説が大量に陳列されている一角があるのを見つけた。予想通り、村上春樹の小説が何冊もあった。韓国では、今、若い人たちの間で、日本の小説がブームだという。無理もないと思った。私たちは、既に、共通の現代文明圏で生活しているのである。韓国のドラマや映画を日本人が楽しみ、日本の小説を韓国の人たちが読むことに、何の不思議もないのだった。

 夕食は、「高麗参鶏湯」という店で参鶏湯を食べた。これも、夏の食べ物の定番である。昨日昼のコングクスと同じく、この参鶏湯も薄味だったので、私は、塩胡椒やキムチをたっぷりつけて味わった。美味しかった。食後、同じ建物にある、ぺ・ヨンジュンがプロデュースしたというカフェ「LOFT」にも行き、ソウル最後の夜を静かに過ごした。その後、ロッテホテル前から市庁まで歩いた。2年前に二人でソウルに来た時、ソウル見物をスタートした最初のルートが、今回は、最後の道になった。市庁舎の建物と市庁前の広場をしばらく眺めて、市庁駅から地下鉄に乗った。今回の旅の最後の地下鉄乗車である。東大入口駅を出ると、外は大雨だった。靴の中までびっしょり濡れて、私たちは、ソウル新羅ホテルの部屋に戻った。南山タワーが雨に煙っていた。

 翌日は昼の便で帰国したので、ソウルを観光する時間は全くなかった。最終日のソウルも雨だった。この雨は、私たちの帰国後も続き、ソウルはまるで梅雨のようだったらしい。悪天候を心配したのだが、飛行機はほとんど揺れず、私たちは無事に関空に戻った。わずか1時間20分、実に近い。嬉しかったのは、私たちの着陸した滑走路が、ソウルに旅立った翌日にオープンした、第二滑走路だったことだった。この滑走路を夫婦して歩いたのは、ほんの少し前のことだった。オープン前の滑走路を歩くイベントがあったのだ。そこに、こうして、飛行機で降りてきたのである。それがとてもうれしくて、飛行機の中で思わず拍手しそうになった。大阪は晴れていた。

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