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韓国の旅  #9


ソウルの桜 2011年

 次にソウルに行ったのは、翌年の2011年の春だった。その年の1月に、私は、60歳で会社を早期定年退職していた。そして、3月に東日本大震災が起こった。4月になっても、東北の被災地では、まだ1万人以上の人たちが行方不明のままだし、福島第一原発では、関係者の懸命な努力にもかかわらず、危険な放射線の放出をいつ止める事ができるのか、その確かな見通しはついていなかった。そんな中で、かねてから計画していたソウルへの旅を、予定通り実施していいのかどうか、一時は真剣にキャンセルも考えたが、当時、「自粛」は被災地の人たちにとって何の役にも立たない、ひとりよがりの行為であるだけではなく、被災地を助けるべき地域の経済活動の活気を奪う事で、かえって、被災地の救済に悪影響を与えることになると言われていたのを、もっともだと判断したのである。というわけで、とにかく予定通り、ソウルに行く事にした。


 4月13日、水曜日。昼前に関空を離陸したアシアナ航空便は、昼過ぎにソウル金浦空港に無事着陸した。昨年の夏に来たばかりなのに、一年も経たないうちのソウルである。これは、ソウルの桜を見たいという妻の希望と、韓国ドラマ「イ・サン」を観た私の、水原華城を見たいという要望が幸福な一致をみた結果である。退職後の気軽な身だから、いつでも行きたい時に海外旅行が出来るのだ。(予算の制限はもちろんあるので、安い時期を選んで行ける。)今回もJTBを利用したが、現地ガイドに空港とホテルの往復の送り迎えをしてもらうだけで、基本的には、全く自由な個人ツアーである。だから、ガイドとのつきあいの時間は、ほとんどないのだが、ここで、私たちを空港で迎えてくれた現地女性ガイドの南さんの話を紹介しておきたい。南さんの話では、今回の大震災と原発事故の影響で、日本からの旅行者が減っただけではなく、韓国で開催されるはずだった国際的なコンベンションの類いが、たくさんキャンセルされたという。欧米の人たちには、韓国と日本が同じに見えるんでしょうかと南さんは言っていた。又、放射線に汚染された水を、日本が隣国に無断で海に放出した事件があって、韓国政府が厳重に日本に抗議したり、その直後に、韓国の小中学校が放射能の雨が降るというので休校になった事などは、日本でも報道されていたので、私たちは知っていたが、海のものだというので、塩が買い占められて、韓国で塩不足になっている事は知らなかった。塩の他にも、いろんなものが買い占められたという。この日は、中国大陸から飛んでくる黄砂の影響で、少し曇っていた。黄砂の被害は年々ひどくなるという。中国からは黄砂、日本からは放射性物質。間に挟まれた韓国は大変ですねと、南さんに同情した。

 金浦空港からホテルに向かう間に、汝矣島を通った。桜の名所である。桜はまだ三部咲きというところだった。ちょっと来るのが早かったかもしれない。でも、ソウルの市の花であるレンギョ(韓国名はケナリ)の黄色い花は満開だった。ソウルにも春が来ていた。ホテルに着いた。今回のホテルは、改装工事が終わったTHE PLAZAである。「冬ソナ」のロケ地としても有名なホテルで、市庁前の便利な場所にある。妻は以前、韓流仲間の友人達と泊まったことがあるが、私は初めてだった。彼女によると、今回の改装で全く違うホテルに変貌した。私たちが泊まったツインルームは、今までのどのホテルの部屋よりも狭い気がした。しかし、設備は超近代的で、インテリアデザインは斬新である。ピンクの壁紙、赤いランプカバー、部屋の狭さをカバーするための大きな鏡などは、ラブホテルめいた趣味だとも言えるが、ベッドサイドのタッチパネル式のコントローラーで、室温調整やカーテンの開け閉め、ライトのオンオフなど全てができる。シャワールームとバスタブが分離したバスルームは、白一色で、とても未来的だった。とにかく、とんがったインテリアだった。年をとって、木の温もりが恋しくなっている私ではあるが、かつてのSF少年としては、こういう感性は嫌いではなかった。とにかく、窓の外に工事中の市庁舎とワールドカップの時に有名になった芝生広場を見下ろせるロケーションは、大いに気に入った。

 早めにチェックインできたので、部屋に荷物を置いた私たちは、すぐに街歩きに出かけた。最初の目的地は景福宮の光化門である。いつもなら、ホテルから世宗大路を歩いていくところだが、今回は、できるだけ歩く距離を少なくしたいという妻の希望で、地下鉄を乗り継いで行く事にした。糖尿病のせいで、昼食の機内食をあまり食べられなかった私のために、ロッテデパートの地下で軽く腹ごしらえをしてから地下鉄に乗り、3号線の景福宮駅で降りた。駅のすぐそばに「国立古宮博物館」があった。まず、こちらを先に見物することにした。驚いた事に、入場無料だった。(今後、有料になる予定だそうである。)この博物館はさほど古いものではなく、元々、徳寿宮にあった朝鮮王朝時代の王室文化財を展示するために、4年程前に全館開館したものである。常設展示に国宝は一点しかないが、李朝時代から大韓帝国時代に至る王室の様々な貴重な文物が展示されていて、なかなか興味深かった。特に、王子誕生時にへその緒を入れる「胎壷」が展示されていて、その中に、正祖(イ・サン)のものもあったのが、うれしかった。

 博物館を出て、目的の「光化門」へ行った。昨年の夏、私たちがソウルに来た時にはまだ工事中だったが、それからすぐに完成した。ところが、それから間もなく、「光化門」と書いた扁額が破損したというのである。木材をよく乾燥させていなかったからだという。その後の情報はなかったので、今回の見物は、その扁額の現状を確かめるためだった。扁額の修復は終わっていなかった。せっかく「光化門」が美しく蘇ったのに、その扁額の部分にだけ、まだ白い布がかかっていた。なお、私たちがソウルを離れる時には、その白い布の上に「光化門」という文字が書かれてあった。応急措置らしい。いかにも韓国らしい大らかさである。

 「光化門」をくぐって、王宮を背にして、世宗大路をゆっくり南へ歩いた。広い道路の真ん中は緑地帯や噴水広場の公園である。世宗大王の黄金の巨大な像や李舜臣の力強い像とは、すでにお馴染みである。途中、道路沿いにある、ソウル最大の書店である「教保文庫」に入った。もともと生命保険の会社が始めた書店で、歴史はそう古くはないが、今では韓国を代表する書店チェーンになっている。ハングルの本は読めないが、本好きの人間にとって、どこの街にあっても、書店はオアシスだ。ここは、実に巨大な書店だった。村上春樹ら、日本の作家の小説はもちろん、あらゆる分野の書籍が揃っているようだ。CDもあった。しばらく店の中をさまよって、外へ出た。何も買わなかった。

 さすがに歩き疲れたので、喫茶店で休憩することにした。「imA」という店に入った。東亜日報のクラシックなビルの一階にある、おしゃれな都心のカフェである。ビルの上階には現代美術のギャラリーがあるそうだ。ここで、コーヒーとアップルパイを注文して驚いた。出てきたコーヒーカップが巨大なのである。普通のカップの倍はある大きさだ。アップルパイも大きかった。アメリカあたりでは普通かもしれないが、日本では、4人前くらいの分量だ。しかし、味は悪くなかった。(アップルパイはもちろん、妻が注文したもので、私はちょっと味見させてもらっただけ。)コーヒーもおいしかった。この喫茶店は、これから贔屓にしよう。

 市庁前に戻った。まだ日没まで時間はたっぷりあるので、「徳寿宮」を見物することにした。もう、修復工事は終わっているかもしれない。中に入ってみると、目当ての「石造殿」は、まだ工事中だった。しかし、昨夏に見逃した「静観軒」を見物することができた。ここは、壁のない東屋で、高宗が外国高官との宴会に使用し、コーヒーを飲んだ場所である。韓洋折衷の、独特な建物だった。冬は寒くて使えないだろうが。徳寿宮の境内は春だった。満開の大きな桜の樹があると思って近寄ったら、それは杏の樹だったりしたが、確かに桜もあった。そういえば、ガイドの南さんは、ソメイヨシノは韓国が原産地ですと言っていたが、ここにある桜はソメイヨシノではなく、糸桜という種類だった。韓国近現代史の舞台であった宮殿で見る桜は、なかなか風情があった。

 ここで、この日の夕食を紹介しておこう。夕食は、ロッテデパートの上階にある、レストラン街で食べた。ロッテデパートへ行く前に、ロッテホテルのロビーを通り過ぎたのだが、そこには「がんばれ!日本」というポスターと募金箱が置かれていた。日本人観光客に馴染みが深いロッテホテルらしいなと思った。プラザホテルのロビーには、そんなものはなかったから。というところで、この日の夕食は、豆腐と豚肉のポッサム。豆腐と蒸した豚肉に薬味をつけて、葉っぱにくるんで食べる料理である。炭水化物がだめな糖尿病患者にもやさしいヘルシー料理であった。おいしかった。


 ソウル2日目である。ホテルでビュッフェ形式の朝食をとった後、地下鉄でソウル駅に向かった。今回の旅行のハイライトのひとつ、水原へ行くのだ。しかも、ガイドに頼らず自力で。ここ数年、韓流ドラマのファンが嵩じて、先生についてハングルを勉強してきた家内の学習成果の見せ所であった。大成功。水原行きのチケットは無事に買えた。(後で、チケットカウンターの女性は日本語ができて、ハングルを使わなくても、日本語でも買えたのかもしれないと、ちらっと思った。)ソウル駅を9時20分頃(韓国の鉄道は、日本みたいに神経症的にダイヤ通りには動かない。)に出発したムグンファ号は、30分ほどで水原へ着いた。ちょっと驚いたのは、韓国の鉄道には改札口がなかった。私たちが貰ったのも、プリントアウトされた紙のシートで、そこに列車名や発着時間、トラック番号などが印刷されてはいたが、日本でいうチケットではなかった。改札口がないから、誰でもホームに入れるし、列車にも乗れる。しかも、車内での車掌の検札もなかった。これでは、不正乗車のし放題ではないか。韓国の鉄道会社はおおらかなんだろうか、それとも、乗客を信用しているのだろうか。それにしては、地下鉄にはちゃんと改札口があるのだが。

 水原駅に着いた。観光案内所で地図をもらってから、駅前からタクシーで水原華城へ向かった。水原は大きな街だ。駅から城までかなりあった。城壁をくぐって、タクシーは城内に入った。私たちが着いたのは、水原華城の中にある、錬武台観光案内所の前である。どうやら、ここが水原華城観光の起点のひとつになっているらしい。案内所の前には、アーチェリー場などがあって、遠足なのか修学旅行なのか、学生服の生徒たちが大勢たむろしていた。近くの駐車場は観光バスでいっぱいだった。チケット売り場が近くにあって、妻が、華城への入城券だと思って買ってきたのが、小さな観光列車の乗車券だった。金ぴかの龍が、真っ赤な客車を数両つないで引っ張っている。幼稚園児の集団が乗り込もうとしていて、そろそろ出発時間のようだった。私たちも、あわてて乗り込んだ。かつて、友人達とここに来た事がある妻は、この乗り物に乗りたかったけれど、時間がなくて乗れなかったという。ラッキーだと喜んでいた。観光列車は、まるで遊園地を回るように、城壁にそって、ゆるゆると走った。歩いている子供達が、列車に向かって手を振ってくれた。観光列車は、写真で見た事がある、有名な華虹門がかかる水原川を渡り、いったん城外へ出て、長安門を外から眺め、再び城内に入って急な坂を登り、西将台の近くで停車した。20分くらい走ったのかな。観光列車のコースはここまでだった。

 さて、これからどうしよう。水原華城では、1時間程度の城壁ハイキングを予定していたので、思いがけず観光列車に乗ってしまって調子が狂った。とりあえず、途中にちらっと頭が見えた、正祖の銅像を見に行く事にした。この辺りは、かなり高台になっていて、数年前のチャングムツアーの時に見物した「華城行宮」の建物群が眼下に見えた。「水原華城」は自然の地形を利用して建設されているので、アップダウンがあり、部分的には万里の長城のようになっていた。正祖が将来の隠居所として建てたとも、ソウルから遷都するつもりだったとも言われる「華城行宮」は、山の麓の平地にあった。

 正祖の銅像は大きくて立派だった。威厳があって、なかなかハンサムだ。ドラマになる前から、正祖(イ・サン)が、韓国の人々から敬愛されていたことがわかる。銅像の前では、校外学習に来たらしい小さな子供達が記念撮影をしていた。正祖の事を、どんな風に学ぶんだろう。幼い頃の悲劇を乗り越え、チョン・ヤギョンを起用して水原華城を築いた、親孝行な、偉大で開明的な王様だろうか。銅像の前から、急な坂を降り、フェンスがあって直接行けないので、ぐるっと街中を回ってから、懐かしい「華城行宮」の前に出た。大勢の人だかりがしている。李朝時代の兵士の格好をした若者達が演武を披露していた。観光アトラクションにしては、かなり大仕掛けだった。暫く見物してから、近くの「華城広報館」に入った。内外の観光客に、世界遺産「水原華城」の歴史を知らせる施設である。華城のパノラマ模型や古い記録写真のパネル展示などがあった。なかなかよく出来た展示だった。ここでもらった日本語の説明書によると、水原華城は1794年の1月に着工し、96年の9月に完成したという。驚くべき早さだ。ドラマ「イ・サン」の中でも、このあたりの話は最終回間近に簡単に触れられただけだったが、実際にも、あっという間に出来たということだろう。どれだけの人たちが働いたのか。

 数年前のチャングム・ツアーで「華城行宮」を見物した時、植民地時代に日本が破壊し、さらに朝鮮戦争で粉々になった行宮を、今、せっせと再建しているんですと聞いて、なにやら申し訳ないような気がしたことを覚えている。でも、当時、破壊されていたのは行宮だけではなく、城壁や門も、ほとんどが廃墟になっていたことを、ここで知った。先ほど、観光列車から眺めた城壁や門は、正祖の時代のままではなく、最近になってから修復再建したものなのである。感心した。それなら、城中にある、現在のつまらない街並を、何十年かかったとしても、昔のような街並に復元してもらいたいなと思った。ドイツのロマンチック街道にある中世都市のようになるのではないか。それとも、映画の屋外セットみたいになるか。

 「広報館」を出て、八達門まで歩いた。この門は長安門のちょうど反対側にある華城の南門だが、いつ頃からか、城壁は壊されて、城の中と外を結ぶ幹線道路が通って、門だけが道路の中央に残された。その八達門は、残念ながら工事中で、白い仮屋に覆われていた。門の近くに賑やかな商店街があったので、その通りに入った。そろそろ昼ご飯時だから、有名な水原カルビでも食べようと、適当な店を探して歩いたのだが、見つからなかった。商店街の中に、観光案内所があったので、中に入ってたずねた。案内の人は、日本語ができないようだった。ここはまた、妻の出番である。彼女の韓国語でもなんとか話が通じたようで、その女性は、心当たりの店に電話をしてくれた。そして、店の人が、車で案内所まで迎えに来てくれることになったのである。なんとも、有り難いことだった。

 私たちが連れて行ってもらったのは、「華城カルビ」という名前の店だった。特に、観光客向けの店というわけではなかったようで、日本語のメニューはなかったが、食べたいものはカルビと決まっていたので、注文にまごつくことはなかった。カルビを頼むと、例によって、キムチや野菜などがずらっと並んだ。水原が発祥の土地だというカルビは、正確には味付きカルビというのだそうだが、出て来た肉は、味付けしていないものと、味付けしたものが半々だった。私の好みでは、味付けしていないカルビの方が、食べやすかったように思う。

 お腹がいっぱいになった私たちは、再びタクシーで水原駅に戻った。しばらく駅の上の広大なショッピングセンターを見物したあと、来た時と同じ、ムグンファでソウルへ向かった。ただし、ソウル駅には戻らなかった。永登浦という駅で途中下車し、そこから地下鉄を2、3度乗り換えて、国会議事堂前駅で降りた。今回のソウル旅行で、妻が一番希望していた、汝矣島(ヨイド)の桜を見るためである。まだ三部咲きくらいだと言うことは、昨日、既にわかっていたが、来てみると、さすがにソウル一の桜の名所である。大変な人出だった。漢江沿いに長く続く桜並木は、大阪の大川端の桜並木よりスケールが大きくて、満開時に来れば、さぞや絶景だったろうと思ったが、妻は、この雰囲気を味わえただけで満足だと言って、少し歩いただけで、案外簡単に見物を終えた。たぶん、水原でくたびれていたんだろう。ちなみに、このヨイドの桜は、いくつかの韓国ドラマの舞台にもなっている。

 ソウル3日目である。昨夜は、また、ロッテデパート上階のレストラン街で、「参鶏湯」を食べた。今朝は、ホテルで食事をした後、いつもよりゆっくりしてからホテルを出た。ホテルの前からタクシーに乗り、「三清閣」へ向かった。今日の昼食をとるためだった。「三清閣」は、ソウルの北方の山の中にある有名なレストランである。かつては、国賓クラスの人たちのための接待所だったが、今では、観光客でも予約なしで入れる。さほど高価でもなかった。「三清閣」に着いたのは11時過ぎだった。ちょっと早く着きすぎたので、辺りを散策してから入ったが、それでも早すぎた。食事は12時からだという。しばらく、控え室で待たされたが、12時よりも前に、席に案内してくれた。周囲を木製の格子で囲ったテーブル席である。肉が主体のコース料理を注文した。鶏、豚、牛、鴨などの肉が少量ずつ、上品な盛りつけで、次々と出てくる。その間に、汁物や野菜類の皿が出た。器も凝っていて、雰囲気は日本の懐石料理だ。洋風のヌーベル韓国料理とでも言うのだろうか、伝統的な韓定食ではなかった。美味。上品な味付けである。満足した。

 帰りはタクシーではなく、シャトルバスにした。都心まで、無料で送ってくれる。しばらくは乗客は私たちの他に1組だけかと思っていたら、出発直前に大勢がやってきて、小型のバスだから補助席までいっぱいになった。困ったことになった。終点まで降りられないかもしれないと心配していたのだが、やはり、こんな時には女性は強い。妻が「降ります」と、韓国語で、大きな声を出したので、補助席の人たちが、いったんバスを降りてくれて、私たちは無事に目的地で降りる事ができた。

 その目的地というのは、仁寺洞の近くにある曹溪寺である。14世紀に創建されたこの寺が、韓国仏教を代表する曹溪宗の大本山曹溪寺になったのは、戦後のことらしいが、韓国を代表する寺であることは間違いない。受験シーズンになると、父親や母親たちが大勢ここで祈りを捧げている姿が、日本でもよく紹介されていたので、一度、見物しておこうとしたわけである。本殿の「大雄殿」では法要が行われていた。多数の信者が礼拝をしていて、マイクを通したリズミカルな坊さんのお経が、外にも聞こえてきた。ご本尊の三体の仏像はかなり大きい。中国風の金ぴかで、私たち日本人には、あまり有り難みが感じられない。たぶん、日本人の感性が、東アジアで異質なんだろう。境内では、来月の釈迦の誕生日を控えて、五色の派手な提灯の飾り付けが始まっていた。この飾り付けは、曹溪寺の境内だけではなく、ソウルの街中にされると聞いた。クリスマスは祝っても、お釈迦さまの誕生日を忘れている現代の日本人には、少々痛い光景だ。聖徳太子以来、日本の仏教は、朝鮮仏教の影響のもとに生まれ栄えてきたわけだが、朝鮮半島においては、李氏朝鮮王朝が儒教を国教とし、仏教を排斥したことから、朝鮮仏教は次第に衰えることになった。ついには、伝統的な大乗仏教と禅宗が融合した、曹溪宗のみが残ったのである。日本の植民地時代に仏教はさらに衰えたが、戦後の独立後、日本と同じように、仏教界の革新運動が起こり、現在に至っている。なお、韓国では、僧侶の肉食妻帯は禁じられている。以上、にわか勉強。

 曹溪寺を出た私たちは、お馴染みの仁寺洞を歩いたあと、ウンニョン宮へ向かった。ここは、朝鮮王朝末期の国王にして、初代の大韓帝国皇帝だった高宗の父親であった興宣大院君の邸である。宗家を継いだ息子がまだ幼かったので、この大院君が実質的な国王として、ほぼ10年にわたって執政した。明治初期の日本政府は、この大院君を相手に、外交交渉を行ったのである。日本と清を手玉に取る、なかなか一筋縄ではいかない老獪な政治家だった。永らく荒廃していた景福宮を再建したのも、この大院君である。この人物が、正祖のような開明君主の資質の持ち主だったら、朝鮮半島のその後の歴史はどうなっていたか、興味深いものがある。案内のパンフレットによると、この邸宅は15年前に改修されているようだが、古い時代の面影をよく残していた。ただし、大院君の時代よりは、邸の規模はだいぶ小さくなっているらしい。かつては洋館もあったそうだ。高宗と、後に日本人に殺される王妃ミンビ(後の明成皇后)の結婚式や花嫁教育が行われた場所もここだという。その歴史的経緯から、毎年、ここで国王の模擬結婚式のセレモニーが行われるようで、私たちが訪れた時は、そのリハーサル中だった。残念ながら、リハーサルなので、みんな私服姿だった。

 ウンニョン宮を出た私たちは、再び仁寺洞へ戻って店を覗いて歩いた後、タプコル公園を見物してから、地下鉄で市庁前駅に戻った。それから明洞へ出て、しばらく歩いた。韓国一の繁華街である明洞は、いつものように人でいっぱいだった。私たちは、特に買い物や食事の予定はなかったが、昨年、贔屓にしている、NHKのテレビ番組「世界ふれあい街歩き」の明洞編で紹介された食堂を探そうと思ったのである。食堂は、明洞聖堂の近くですぐに見つかった。でも、私たちは、この食堂には入らなかった。お昼にごちそうを食べ過ぎたので、この日の夕食は、ロッテデパートの地下で、家内はうどんを食べ、私はテイクアウトで鮭のサラダを買って、ホテルの部屋で食べたのである。

 ソウル4日目、いよいよ最終日である。ホテルで朝食をとった後、チェックアウト。旅行鞄を預かってもらって、ホテルの前からタクシーで南山へ向かった。本日の目的は、南山の桜である。この日は土曜日だったから、歩いて山を登る多くの市民がいた。私たちのタクシーは、その人たちを追抜いて、山頂近くで止まった。そこから先は、車両進入禁止。観光バスがたくさん停まっていた。学生たちの団体も多いようだ。私たちは、徒歩で急な坂道を上り、Nソウルタワーにたどり着いた。ここに来るのも久しぶりである。以前来た時にも既に、日本でもよく見られるような、永遠の愛を誓う恋人たちの錠がたくさんフェンスにくっついていたのだが、今回、それが、半端な数ではなく増殖していた。これ以上殖えたら、どう処分するんだろうと、心配になった。南山の桜も、満開にはまだ間があるようだったが、私たちは、桜の姿をもとめて、南山を歩いて降りることにした。山の規模も周りの環境も違うが、数日前に、神於山を歩いた時を思い出した。道路の両側には、所々に桜があり、黄色いケナリや、名前は知らないが、青色のサツキのような花が満開だった。南山も春である。ソウルのような大都会の真ん中に、こんな自然があるのは羨ましいことだ。

 山の麓まで降り、近くの南山図書館を覗いたりした後、そのまま坂道を降り続けた。ヒルトンホテルの前を通って、ソウル駅に出た。改修中の旧ソウル駅舎は、まだ工事が終わっていないようだった。昼にはちょっと早いが、早めに腹ごしらえすることにして、駅の近くにあった、なんとか天国という大衆食堂のチェーン店に入った。メニューに料理の写真と料金と番号が印刷してあって、注文票に印刷された番号に丸をして、注文数を書くだけである。よくできたシステムだった。餃子(マンドウ)と豆腐の鍋料理を頼んだ。安くて美味しかった。

 ガイドがホテルまで迎えに来てくれる時間には、まだかなりあったが、いったん、ホテルの近くに戻ることにした。市庁前広場で、ユネスコのフェスティバルが開かれていたからである。前に書いたように、私たちのホテルの部屋の窓から、市庁前の芝生広場が真正面に見える。今朝起きたら、その芝生が消えていたので驚いた。どうやら、深夜か早朝に、芝生の上にカバーがかけられたようだった。数日前から、テントの用意が進んでいたのを見ていたが、まさか芝生が消えるとは予想していなかったので、驚いた。フェアの趣旨はよくわからなかった。ソウルが、ユネスコの「デザイン都市」に選ばれた事を記念する、NPO団体などによるフェアのようであった。しばらく歩き回ったが、あまり面白そうではないので、市庁舎の建築状況を紹介する展示センターを見物することにした。実は、今回、ソウルに来たときから気になっていた施設である。大正解だった。ここでは、建設中の新しいソウル市庁舎の建物だけではなく、現在進行中のソウル市改造プロジェクトの数々を、素晴らしいCG映像で見ることができたのである。建築ファンにとっては、感涙ものの施設だった。今、大都市ソウルは、実にダイナミックに変貌しようとしているようである。大阪は既に勝負にならない。東京も負けているかもしれない。ソウルの新しい市庁舎が完成するのは、来年の予定である。これは、また来ないといけない。

 旧ソウル市庁舎は、旧総督府のビルが壊された現在、日本の植民地時代を偲ばせる数少ない建築だったのだが、新市庁舎の完成にあわせて、外観だけが保存復元されて、元の場所で生き残るようである。新庁舎は、六本木にある黒川紀章設計の国立新美術館のような、ガラスの外壁の建物で、巨大な内部空間を持つ公共建築になる。太陽光発電や壁面緑化も取り入れたエコビルでもあるようだ。内部には図書館やギャラリーもできるそうである。でも、完成予想図を見た私は、旧市庁舎ビルに襲いかかろうとする、巨大な津波のような形のビルだなと思った。私の脳裏には、東日本大震災の大津波の印象がまだ強く残っていた。実際にはどうなのか、それもまた、確かめに来ないと。ソウルに来る楽しみが、また増えた。

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