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韓国の旅 #5

「チャングム」を訪ねる旅 2005年

 私たち夫婦が、二度目に、韓国を訪れたのは、2005年の夏だった。実は、この旅行は、私にとっては二度目の韓国だったのだが、妻にとっては三度目だった。同じ年の1月に、女性ばかりで、韓国旅行に行っていたのである。「冬ソナ」と「ホテリアー」のロケ地を巡るツアーだった。私は留守番だった。その後も、妻は、何度も、韓流ファンの女友達らと韓国を訪れるようになったので、現在では、韓国旅行の回数実績では、妻は私の二倍くらいある。旅行の話をする前に、「冬ソナ」ブームのことに触れておきたい。今、私の手元には、林香里さんの『「冬ソナ」にハマった私たち』という文春新書がある。韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」は、マスメディアを研究する東大の助教授に、こんな本を一冊書かせる程のブームだったのだ。

 「冬のソナタ」は、2003年にNHKの衛星第二で放送されて以来、短い期間に、地上波を含めて4回も繰り返し放送され、2004年には、日本において、社会現象になった。特に、中高年女性の支持が多かった。主演男優のペ・ヨンジュンは、「ヨン様」と呼ばれた。主演女優のチェ・ジウに憧れる日本人男性も、私自身を含めて、多かった。このただ一つのテレビ・ドラマによって、日本人の韓国観が一変したと言っても過言ではない。上記の本で、林さんは、当時の日本人を捉えた「冬ソナ」の魅力を8つに整理している。それぞれに納得できる説明だが、ここでは、その一つの項目だけを紹介したい。

 「冬のソナタ」は日本で初めてヒットした韓国製のドラマである。この「韓国」という記号は女性たちにとってはまったく新しいもので、好奇心をくすぐり、このドラマをテレビドラマ以上のものに仕立て上げた。韓国へ観光旅行に行ったり、ハングルを習ったり、料理を試して見たり、と、ドラマをカルチャー・センター的広がりをもつ娯楽の宝庫へと発展させて、一つのドラマに対する単発の人気では終らせない「韓流」という現象を維持させた。「冬のソナタ」が放つカルチャー・センター的な教養の薫りは、ドラマのイメージをいっそう高めて、「良妻賢母」をめざして生きてきた中高年女性たちを満足させるものとなった。

 我が妻は、まさにこの中高年女性の一人だった。彼女は、「冬ソナ」以後も、「ホテリアー」「美しい日々」「オールイン」というような韓国ドラマを見続け、韓流ファンになるとともに、数名の女友達とともに、ハングルの勉強を始めたのである。「茨木のり子化」だ。そして、とうとう、友人たちと、ロケ地巡りの韓国旅行に出かけた。私も、妻と一緒に、ずっと韓国ドラマを見ていたのだが、完全においてきぼりになった。そもそも、韓国に関心を持ったのは、私の方がずっと早かったのに。しかし、そこに救いの手が差し伸べられた。「宮廷女官チャングムの誓い(韓国での原題は『大長今』)」である。

 「宮廷女官チャングムの誓い」は、日本では2004年の10月からNHKの衛星第二で放送が始まり、ほぼ1年間放送されて、翌年に終了した韓国歴史ドラマである。「冬ソナ」にも負けないほどの人気を得たが、「冬ソナ」と違ったのは、男性のファンが多かったことである。私自身も、初回放送から、このドラマにハマった。2005年の春頃、「チャングム」に関する情報をインターネットで調べていた私は、「大長今テーマパーク」というのがソウル近郊に存在することを知った。これはぜひ行かねばならない。行きたい。というわけで、今年の夏はソウルに行かないかと妻に恐る恐る提案した。なにしろ、彼女は1月に「冬ソナ&ホテリアー」ツアーに行ってきたばかりである。年に2回も韓国に行くかなあと心配していたら、案外簡単にオーケーした。彼女もまた、「大長今テーマパーク」に興味を抱いたのである。

 最初は、飛行機のチケット以外は、全部自分たちで手配しようと思っていたのだが、海外に関しては、旅慣れているとは言えない我々には荷が重い気がして、結局JTBに頼むことにした。でも、JR大阪駅のJTB事務所の窓口で、「大長今テーマパーク」の事を聞いたら、その担当の女性は「チャングム」の事をまったく知らなかった。家内が説明すると、韓国ドラマロケ地めぐりのパンフレットを探して持ってきた。なんと、「チャングム」ロケ地ツアー企画が「冬ソナ」ツアーより大きく印刷されているではないか。その女性は、自分の無知を素直に謝った。今時、「チャングム」を知らないなんで、君はモグリではないのかと詰問しようと思っていた私は、寛容にも許してあげることにした。なにしろ、まだ衛星でしか放送されていない韓国ドラマである。きっと、彼女の家ではまだNHKと衛星契約をしていないのだろう。

 こんな風にして、2005年夏の旅行の行き先が決まった。2泊3日のソウル滞在フリープラン。その中の一日は、オプションツアーとして、王宮料理付き「チャングム」ロケ地めぐりツアーである。考えてみれば、私にとっては、ほとんど10年ぶりの海外旅行であった。なにやら武者震いがした。しかも、出発までに思いがけない出来事があった。NHKが、「チャングム大事典」という特別番組を、なんとこの「大長今テーマパーク」から中継放送したのである。私たちの期待が、ますます膨らんだのは言うまでもない。

 ここで余談。最近、「冬ソナ」や「チャングム」に匹敵するほどの話題になったドラマ「愛の不時着」を私たちはまだ見ていない。いうまでもなく、Netflix に加入していないからだ。加入すべきか否か、まだ迷っている。もうひとつ。「チャングム」以来、NHKは次々と韓国歴史ドラマの名作を放送し続けてきたのだが、つい先月から、日曜夜の衛星第二の伝統ある放送枠で、韓国歴史ドラマを放送することをやめ、中国歴史ドラマ「コウラン伝」の放送を始めた。衛星放送だからか、この事はまだ話題になっていないが、私のような長年の韓国歴史ドラマのファンから見れば、大きな出来事である。どういう事情があったんでしょうかね。実を言うと、私は妻への対抗上、韓国語ではなく、中国語を学習しているので、中国歴史ドラマをNHKが放送する事自体は歓迎している。セットも衣装も絢爛豪華で、見ている分には楽しい。なお、日本語吹き替えではなく、字幕放送で見ている。ほとんどセリフは聞き取れないけれど。これは、韓国歴史ドラマを見ている時もそうだった。

 さて、前書きが長くなった。いよいよ「チャングムの旅」の始まり。これ以後は、当時、私がホームページ(ブログではない)「神須屋通信」に書いた文章からの引用になる。それに、現時点での注釈や解説を加える。関空から仁川空港まで、大韓航空のジャンボ機で、わずか1時間15分のフライトだった。私は、飛行機に乗る時はいつも、生きている地図のような、地上の景色を眺めるのを楽しみにしているのだが、この時は、エコノミークラスの最後尾、ほぼ中央の席だったので、窓からの景色は見ることができなかった。荷物は機内持ち込み分だけだったので、入国審査を終えてすぐに到着ロビーに出た。現地のガイドが何人も集団で待ちかまえていたが、JTBの手配したガイドはすぐに見つかった。同じツアーに参加している他のグループが揃うのを待って、バスでソウル市内へ向かった。今回のツアーはフリープランだから、それぞれのグループは別行動をとり、一緒に行動することはない。このバスは、それぞれを空港からホテルまで送り届けるために用意されていた。空港からホテルへ向かう間に激しい雷雨があった。心配したが、ソウル市内に入るころには、雨はすっかり上がった。

 私たちのホテルは、ソウルの中心部にあるロッテホテルだった。ここに泊まるのは2度目である。ただし、今回は新館に泊まることになった。今回のソウル滞在は3日間。でも、その中の一日は「チャングム・ツアー」である。ソウル観光は実質2日間。いや、半日と半日だから、12年前と同じように、やっぱり1日しかないのだった。これでは、今回もソウルの街を十分に知るというわけにはいかないだろう。でも、私は、ただいま現在のソウルの空気を吸うことができれば良いという考えで、「チャングム」のテーマパークと他のただ一カ所を除いて、特にどこに行き、何をしたいということはなかった。だから、1日あれば十分だった。とはいえ、のんびりとはしていられない。まだ掃除中だったロッテホテルの部屋に荷物を置いた私たちは、さっそく街歩きに出かけた。

 まずは、ロッテホテルからほど近いところにあるソウル市庁舎にむかった。ここでは、60回目の光復節(日本の植民地から解放された日。日本の終戦記念日にあたる。)を記念して、庁舎の建物を無数の太極旗(韓国国旗)で鱗のように覆うというイベントが行われていた。このソウル市庁舎は、植民地時代に建てられた建物である。その建物を太極旗で覆うことに意味があった。そのことは事前に日本での報道で知っていた。この日、ソウル市庁舎に来たのは、その様子を見物するためもあったが、市庁舎前の広場が、韓国代表が4位になった、2002年の日韓ワールドカップの際に、何万人もの韓国サポーターの大集結で真っ赤に染まった伝説の場所であり、その市庁前広場を見たかったということも大きな理由だった。ついでに書いておくと、この日韓W杯が、その後の日本における、一部の人たちの「嫌韓」の流れの出発点になったと言われている。韓国は不正な手段で4位になったというのだ。共同開催の日本がベスト16で終わった悔しさが背景にあったのだろうと思うが、そんなことを書くと、私も、「反日」だとか「在日」だとか、言われてしまうかもしれない。韓流ブームの裏側で、後に表面化する、こんな、正反対の流れもあったということだ。世の中、複雑ですね。

 話を戻す。そんなわけで、私は市庁舎や市庁舎前広場に関心を持っていたのだが、妻は、市庁舎の建物や広場よりも、広場に面した、プラザホテルの方に関心があった。1月に友人たちとソウルに来た際には、わざわざここに1泊したくらい。このホテルは「冬ソナ」の舞台のひとつだったのである。この時は、プラザホテルには入らず、私たちは、市庁舎と広場を見物したあと、ソウルのメインストリートである世宗路を北上した。さすがに首都のメインストリートである。車道も歩道もじつに広い。大阪の御堂筋よりずっと立派だった。道路の両側には、韓国を代表する大企業の近代的な高層建築が続く。車も人も多く行き交い、活気があった。ところが、李舜臣将軍の像を過ぎたあたりから、急に警官の姿が多くなった。普通の警官ではなく機動隊のようだ。完全武装ではなく軽装だが、長い警棒を持っている。盾を持っている人たちもいた。後で調べたらその辺りには米国大使館があった。それにしてはモノモノしい警備だった。北朝鮮の要人でも来ていたのだろうか。たしか、光復節の式典には参加していたはずだが。ここで注釈。先程書いたように、これらの記述は、当時、自分で書いた「神須屋通信」を元にして書いている。この、北朝鮮の要人がソウルの式典に参加していたはずということも、「神須屋通信」に書いてあった。今、改めて調べてみると、この2005年現在、韓国の大統領は盧武鉉である。言うまでもなく、高卒で苦学して人権派の弁護士になり、ついには大統領にまでなったが、退任後に自殺した、現在の文在寅大統領の盟友だった人物だ。確かに、あの時代だったら、北朝鮮の要人が光復節に参加する事はありうる。その前の金大中大統領に続いて、盧武鉉大統領自身も、北朝鮮で金正日と会談したくらいだから。

 世宗路の北の端には光化門があった。景福宮の正門である。前回、私たちがソウルを訪れた時、この光化門の背後に聳えていた巨大な白亜の建物、旧朝鮮総督府であり、解放後は政府の中央庁舎として使用され、その後は国立博物館として使われていた、あの建物は、もう存在しなかった。金泳三大統領の時代に、日本による植民地支配の象徴だとして撤去されたのである。おかげで、光化門の正面から、背後の北岳山の山容がくっきりと見えることになった。これが本来のソウルの姿なのだろう。光復節式典の仮設ステージの撤去作業が行われていて、光化門が通れなかったので、私たちは、観光バスなどが入る、東側の門から景福宮に入った。かつて博物館のあった辺りがぽっかりと広い空間になっている。その一角にたくさんの観光客がいた。近寄ると、そこがチケット売場だった。ここで入場券を買って、第一の門をくぐる。與礼門である。昔、景福宮を訪れる人たちは、光化門、與礼門、勤政門と、一列に並ぶ、3つの門をくぐって王宮内に入ったという。光化門が外門、與礼門が正門だった。総督府が建設された時、光化門は移築、與礼門は破壊された。與礼門が復元されたのは、総督府の建物が撤去された後の2001年である。ここに、「チャングム」で馴染みになった、李朝時代の武官のきらびやかな扮装をした衛兵達がたくさんいて、門を警護していた。12年前にはなかった観光客のための演出だった。衛兵交代のようなショーもあるという。王宮の内部に入って、12年前の記憶がわずかによみがえった。王宮は、当時よりずっと整備されて美しくなっている。規模も拡大されているようだった。ドラマのチャングムが活躍する王宮の台所「水刺間(スラッカン)」などの建物の復元作業が進んでいることは、インターネットの情報で知っていたが、ここで実際に確認することができた。(注釈:現在、世宗路を歩くと、一番目につくのは、巨大な黄金色の世宗大王の坐像だろう。この像が建立されたのは2009年の事だから、この2005年時点では、まだ存在していなかった。)

 ソウルには世界遺産の建物がいくつかあるが、正宮であるこの景福宮は、指定されていない。まことに申し訳のないことだが、日本の責任である。遠い昔の秀吉による破壊はいいとしても(よくはない。この破壊の後、273年間も景福宮は再建されなかった。やっと再建されたのは19世紀の後半。しかし、次の破壊はすぐにやってきた。)近代の植民地時代の日本による破壊がひどかった。巨大な総督府の建物を建てるために、王宮の多くの由緒ある建物が壊された。壊された建物のあるものは、日本人の実業家に買い取られて、日本国内に移築されたという。でも、破壊はそれだけではなかった。鄭銀淑さんの「韓国の『昭和』を歩く」という本によると、景福宮を破壊したのは総督府の建物のためというよりも博覧会のせいだったという。なんと、日本政府は、かつて、200以上もあったという景福宮の殿舎の大半を破壊して、かつての王宮を会場にした博覧会を5回も開催したのである。近代文明の姿を植民地の人たちに見せつけて威圧するためだった。善意で考えれば、無知蒙昧なる植民地の民を啓蒙してやろうという意味合いだったのかもしれない。それにしても由緒ある王宮を破壊するとは。まあ、明治の日本は、この王宮内で皇后を殺害するという蛮行を行っているので、建物を壊すぐらいは平気だったのだろう。そんなわけで、現在、2025年の完成をめざして、着々と昔の姿に復元されつつある景福宮を見て、映画のセットみたいだなどと批判する権利は、我々日本人にはないのである。それにしても景福宮は広大だった。日差しが強くて、歩き回った僕たちは、汗まみれになった。途中で買ったミネラルウオーターのペットボトルが、またたく間に空になってしまった。

 景福宮でくたくたになったのだが、まだホテルに帰るわけにはいかなかった。行くべきところがあった。ソウルの骨董品街として有名な仁寺洞(インサドン)である。北京でいうと瑠璃敞にあたるだろうか。妻のおすすめだが、私もこの町には行ってみたかった。仁寺洞は、景福宮から歩いていける距離にあった。仁寺洞、正しくは仁寺洞ギルと呼ばれるらしい、この南北を斜めに繋ぐ通りには観光客が溢れていた。よく育った街路樹が日陰をつくり、暑さでうだった私たちには天国の道のように思えた。観察すると、街路樹の下で昼寝をしている人がいる。格好はきたないが、天国の住人というところか。この通りの路面は黒い敷石で舗装されていてとてもシックだった。緑と黒のコントラストがなかなか良い。ヨーロッパあたりの街路だと言っても通用するだろう。通りの両側には、筆や硯を売る店、書画骨董を売る店、土産物店、ブティックなどが立ち並んでいた。一軒一軒、店を覗いて歩く。妻は1月にもここを訪れているので、時間はかけない。そのうちに目当ての店を見つけて、買い物をはじめた。友人たちに韓国の扇子を土産にするのだそうだ。小さいけれど、ここは有名な店らしい。店の壁にアメリカのオルブライト元国務長官が買い物をしている写真を飾ってあった。他にも、仁寺洞にはエリザベス女王が訪れた店もあるらしかった。私としては、李朝家具をじっくり見たかったのだが、そんな店には今回行き会わなかった。

 仁寺洞では、喫茶店でお茶を飲み、早めの夕食も済ませた。喫茶店といっても韓国伝統茶の店である。韓国では長らく緑茶は飲まれなかった。これは儒教社会だった李氏朝鮮時代において、仏教との関係が深い緑茶が敬遠されたからだろうと言われている。代わりに飲まれたのが、薬草類や果物を材料にした伝統茶だった。仁寺洞には、観光客に人気のある伝統茶館が何軒もあった。ところが、我々が入ったのは路地の奥にある無名の店だった。ガイドブックに出ているような店は面白くないと、偶然目に入った店に入ったのである。店の人も驚いたようだ。昼寝でもしていたのではないかと思われる、下着姿の若い男の人が出てきた。日本語は通じない。でも、なんとか席に通してもらった。靴を脱いでオンドル部屋の座卓の前に座る。中は、韓国の伝統的な家屋の造りである。なにやら薬草のような香料のにおいがした。先客は、若い韓国の女性の二人連れ。観光客ではなく常連らしい。さて、どう注文しようかと心配していたら、持ってきたメニューには日本語が書いてあった。どうやら、まったく観光客が来ない店ではないらしい。とにかく、助かった。私は日本でも良く飲んでいる柚子茶を注文した。冷たくて、疲れが吹き飛んだ。

 順番から言うと、ウインドウショッピング、伝統茶、ショッピング、夕食の順になる。夕食の場所は、インターネットの情報を見て、事前に家内が決めてあった。裏通りを入った奥にある「山村」である。ここは韓国精進料理の店だった。間口は小さいが、中に入ると立派な店だった。ここでも、履き物を脱いで、オンドル部屋で座卓の前に座る。水墨画の屏風や書の軸がインテリアだ。昔の両班屋敷のイメージだろうか。清潔で落ち着いた内装だった。卓の上には般若心経を印刷した太いロウソクの火が暖かい光を投げていた。全体的に照明は暗めだ。そんな卓の上一杯に、野菜や豆料理ばかりの小皿が数え切れないくらい並んだ。精進料理といっても韓国だから、辛いものが多い。でも、おいしかった。それにヘルシー。焼き肉も悪くないが、仁寺洞にはこんな料理が似合うだろう。それからついでに書いておくと、この店には日本人かと思われる、日本語の達者な美人店員がいた。おすすめである。

 今回のソウル旅行で私が見たかったのは、「大長今テーマパーク」の他にもう一カ所あった。清渓川(チョンゲチョン)である。ソウル旧市内を東西に流れる川の名前だ。ソウルは、京都などと同じく、中国伝来の風水思想に基づいて計画された都市である。風水では、周囲を山に囲まれた地に「背山臨川」して王宮を建てることが吉とされた。王宮の北側に山を背負い、南側に川を望むのである。ソウルもこの通りに計画された。景福宮の北側には北岳山があり、南には南山がある。南山のさらに南には大河、漢江がある。つまり、王宮は漢江に直接臨んではいない。川はどこにあるのか。そう、それが清渓川だったのである。ところが、この清渓川は、長い間、人目に触れない川だった。都市化が進んだ結果、埋め立てられて道路になってしまったのである。川は暗渠となり、その上は道路になった。さらに道路の上には高速道路までが建設された。東京や大阪でもよく目にする風景である。ところが、ここからが東京や大阪と違うところだ。ソウル市長は、ソウル市再生事業のシンボルとして、この清渓川を掘り起こして復元することにしたのである。快挙である。じつに素晴らしい。これはぜひとも見物して、ソウル市に敬意を表さねばならなかった。(注釈:このソウル市長が、後の李明博大統領である。)仁寺洞を出て南に歩く。鐘路タワーを見上げてさらに少し南へ進んだところに清渓川があった。復元工事はほとんど完成していた。2本の道路に挟まれて堀が見える。京都の堀川のような雰囲気だった。かつてはここも道路だったのだからずいぶん幅広い幹線道路だったのだろう。でも、いまは都心に情緒をもたらす水辺の風景となっていた。なかなか良い。川端の街路樹が成長したら、ここは素晴らしい散策路になるだろう。ところどころに小公園もつくられるようだった。私たちが行ったこの時点では、清渓川は工事の最終段階にあって、立ち入り禁止だった。川の水はモーターで巡回させる方式なので、この時には、まだ水は流れていなかったかもしれない。それでも、ほぼ完成した清渓川を見て、私は満足だった。清渓川がオープンして、ソウルの新しい名所になったのは、私たちが訪れてから2ヶ月後のことだった。清渓川沿いに韓国観光公社のビルがあった。このビルの地下にインフォメーションセンターがあって、そこに「韓流スター」の写真などが展示されているコーナーがあった。もちろん、ミーハーの私たちはそこで記念撮影をした。そこで発見したこと。韓流スターの手形のブロンズがいくつか並んでいたのだが、ペ・ヨンジュンのものだけが無くなっていた。修理中なのか貸出中なのか、それとも盗まれたのか、謎だ。

 一旦ホテルの部屋に戻って休憩してから、近所の明洞(ミョンドン)散策に出かけた。大阪とは違って、夜のソウルは涼しくて比較的すごしやすい。街路樹のせいもあるのかもしれない。それにしても、ソウル最大の盛り場、明洞は広かった。エリア内にいくつもの道が交差して、そのそれぞれに店がびっしり建ち並んでいた。露店もたくさん出ている。そして、どの街路も人で溢れていた。若い人たちが多い。日本人観光客も大勢いた。お店をのぞいてみると、若者向けの店舗が多そうだった。ここは、韓国の流行発信地である。しばらく歩き回ったが、家内は自分向けの街ではないと判断したようである。コンビニで買い物をしただけで、どの店にも入らず、そのまま帰ってきた。ホテルの部屋に戻って、テレビを見た。韓流ドラマの本場だから、いくつもドラマを放送していた。その中のいくつかは、いずれ日本でも放送されるかもしれない。でも、この夜はサッカーの中継を見た。ワールドカップ予選の最終戦、韓国対サウジアラビア戦が中継されていたのである。同じ時間に、日本では、日本対イラン戦が行われているはずである。会場はソウル郊外のワールドカップスタジアム。試合は韓国がずっと押し気味だったのだが点が入らず、結局1対0で韓国が負けた。先日の東アジア大会で日本に負けたことといい、これは監督の責任問題になるぞと思っていたら案の定、私たちが帰国した後、韓国の監督の解任が報道された。ワールドカップへの出場は決まっているのに、気の毒なことだった。なにしろ、前回の日韓ワールドカップで韓国は4位だったので、ハードルが高いのは仕方がない。ちなみに、日本はちゃんとイランに勝っている。ジーコ監督の運なのか実力なのか。本番ではどうなるんだろう。(ちなみに、2006年、ドイツで開催されたW杯で、日本はグループリーグ敗退、中田選手が引退を表明した。韓国もグループリーグ敗退。)

 ずいぶんと長い文章になったが、まだ「チャングム」が登場しない。「チャングム・ツアー」はこの翌日だった。次回は、その話を。


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