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山口線の旅 ①

旅のはじまりは「日曜美術館」。

 すべてはNHKの番組「日曜美術館」から始まりました。その日の番組は建築家の内藤廣さんを紹介していました。少年時代からの建築ファンである私は、数十年前に「安曇野ちひろ美術館」を訪れて以来、その設計者である内藤さんの名前は記憶していましたが、その内藤さんが高知の「牧野記念館」を設計し、私がこの十年以上ずっと注目している渋谷の都市改造のデザイン・アドバイザーを務めている事を、この番組で初めて知りました。でも、なによりも驚いたのは、島根県の石見地方にあるという、赤い石州瓦を全面に使用した「グラントワ」という複合施設でした。そのあまりの美しさに「うわ~、ここに行きたい。」と思わず声が出ました。横で見ていた家内も感嘆の声をあげました。でも、その時はまさかすぐにそこに行くことになるとは思ってもいませんでした。しかし、家内の脳内はその時既に活動を始めていたのです。

 インバウンド客で混雑する京都や奈良での紅葉狩りを諦めた家内は、他にいい場所はないかとずっと探していたのです。ネットで検索して「グラントワ」の所在地を確認した家内は、早速、旅行計画を着々と練り始めました。旅行日時の設定、宿と交通手段の選択と予約、すべてが順調に進んで、今回の旅行日程が固まりました。山陽新幹線の新山口駅で下車。あとはJR西日本の山口線に乗り換えるだけです。湯田温泉駅で下車して、紅葉シーズンの湯田温泉と山口市内の観光地をタクシーで見物。湯田温泉で一泊。再び山口線に乗って終点の益田へ。益田で一泊して、その街にある「グラントワ」を見学するという日程でした。「グラントワ」では「日曜美術館」で紹介された内藤廣展がちょうど開催中でした。完璧だと思えた計画でしたが、全ての準備が終わった後に、思いがけないことが二つも判明しました。湯田温泉での一番の目的地だった「中原中也記念館」が私たちが滞在する予定の二日間続けて休館日だった事がひとつ。もうひとつは、紅葉狩りを楽しみにしていた瑠璃光寺の国宝五重塔が、数十年に一度の大修理中で、塔に覆いがかけられていて実物を見られないということでした。予想外の大変な事態です。でも今更旅行をキャンセルすることもできません。今回のそもそもの目的は「グラントワ」なのですから。というわけで、私たちは予定通りに出発しました。11月27日のことでした。

山口観光は2時間で充分?

 湯田温泉駅で下車した私たちを、家内が予約した観光タクシーが待っていてくれました。これから2時間、山口の主な観光地を案内してくれる予定でした。予約した時、家内は山口市内の観光地を巡るのに半日はかかるんじゃないですかと尋ねました。そうすると先方は、山口には大して見るところがないから、2時間もあれば十分ですと答えたそうです。確かに、私たちも山口市で知っていたのは瑠璃光寺ぐらいなものでした。山口県内なら、下関、萩、秋吉台、岩国の錦帯橋などにはかつて行ったことがありましたが、湯田温泉を含めた山口市は、私たち夫婦とも、今回が初めてでした。瑠璃光寺以外の行き先は運転手さんにお任せするという事で出発した車は、まず「サビエル記念聖堂」前に停まりました。

 イエズス会の創設メンバーであるバスク人、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年でした。当時の日本は戦国時代。薩摩を出て京をめざしたザビエル一行が周防国山口に入ったのはその翌年のことでした。当時、中国と山陰からさらに北九州までを支配していた守護大名の大内義隆に謁見しますが、この時は布教の許可は得られなかったそうです。ザビエル一行は京に入って宣教活動をしますがうまくいきません。いったん山口を経て九州まで戻ったザビエルらは平戸に残してあった献上品を持って三度目の山口にはいり、大内義隆に再謁見します。望遠鏡や眼鏡などの献上品がきいたのでしょうか、今度は布教の許可が出ました。1551年のことでした。ここで日本最初の常設の教会堂を建設します。というようなわけで、山口はザビエルにとても縁が深い地なんですね。この「山口サビエル記念聖堂」(山口ではザビエルではなくサビエルと濁らないらしい。)はあまり教会ぽくない、三角の大屋根と二本の塔がある白亜の現代建築でした。戦後まもなく、ザビエルの山口布教400年を記念して建設された前の聖堂は火災で焼失したので平成に入って再建されたそうですです。その時、日本の関係者は昔と同じような教会を希望したそうですが、海外から来たキリスト教関係者が、今の世界の流行はこうだと、このような建物に決めたそうです。内部の見学もできました。ザビエルに関する興味深い展示がいろいろとありましたが、あまり時間がなかったので、ざっと一巡しただけで出てきました。なお、山口は日本で最初にクリスマスのミサが行われた地で、「12月、山口市はクリスマス市になる。」というコピーを印刷した観光案内リーフレットが、市内の観光施設のあちこちに置かれていました。私も一枚もらって来ました。12月には市内のあちらこちらでイルミネーションが輝くそうです。

「西の京」山口の街は大内氏がつくった。

 タクシーが次に向かったのが「瑠璃光寺」でした。国宝五重塔が見られなかったのは既に書いたとおりです。寺においてあったリーフレットによると、約70年ぶりの檜皮葺き屋根全面改修だそうです。改修費用のクラウドファンディングをしていました。そんな時に来てしまったのは不運なのか幸運なのか。入場無料の瑠璃光寺の庭園は紅葉が池に映えて美しいものでしたが、やはり五重塔がないとその魅力は半減したように感じたのは仕方がありません。この五重塔は将軍足利義満に反乱して戦死した大内義弘の菩提を弔うために弟の盛見が建設させたもので、15世紀半ばに完成しました。日本三名塔のひとつだそうです。その工事用の囲いで覆われてしまった五重塔の近くに司馬遼太郎さんの碑がありました。碑には「街道をゆく」 長州路編の一節が刻まれていました。「長州はいい塔をもっていると、惚れぼれするおもいであった。長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする。」 私たちは長州というとすぐに毛利家を思いますが、実はその前に大内氏という存在があったんですね。この「街道をゆく」長州編は、まだ40代だった司馬さんが、今から半世紀以上前に書いた文章です。私も読みましたが、あまりに昔のことで、内容はすっかり忘れていました。ここで再会するとは。

 瑠璃光寺の前に大内弘世の堂々たる騎馬像がたっていました。ずいぶん鼻が大きい人だなと思いました。大内氏というのは実に古い歴史を持つ家系のようですが、特に南北朝時代に活躍し、長門と周防(現在の山口県全域)の守護大名となった大内弘世の時代に初めて山口を本拠にしました。先に名前をあげた義弘と盛見は彼の子息たちです。後の時代の戦国大名たちとは違って、応仁の乱以前のこの時代の有力者たちは京にも本拠を置いていました。特に、この大内弘世は京都という土地の文化や風俗に憧れがあり、公家育ちの奥方が京を恋しがったこともあったそうですが、山口を「西の京」にしようとしました。確かにこのあたりは盆地で、地形的にも京都に似ています。司馬さんが書いているのはそういうことです。瑠璃光寺の五重塔は、そんな山口だから生まれたのでしょう。そういえば、ザビエルもこの塔を見ているはずですね。ああ、やっぱり五重塔を見たかったなあ。なお、ザビエルに布教を許した義隆の代に大内氏は最盛期を迎えますが、大内氏は、その義隆の時代に、家老の反乱によってあっけなく滅びます。その主君の敵を討って、次の西国の覇者になったのが毛利元就でした。なんだか秀吉みたいですね。

「西の京」には毛利氏のお墓もあった。

 瑠璃光寺の近くに毛利家の墓地があるというので、ついでだから見物することにしました。大内家を継いで中国地方の覇者になり八カ国を領していた毛利家ですが、関ヶ原で西軍方についたせいで、防長二カ国つまり現在の山口県の領域内に押し込められてしまいました。本拠地も、幕府の命で、辺鄙な日本海側の萩に築きます。しかし幕末の毛利敬親の代になって本拠を山口に移しました。この香山墓地にあるのは、その敬親らの墓でした。興味深いのは、その墓が朝鮮式の芝生の土饅頭だったことです。朝鮮式というより儒教式あるいは神道式と呼ぶべきかもしれません。この墓地がつくられたのは明治に入ってからだったので、当時の廃仏毀釈の風潮をあらわしているんでしょう。仏教式の火葬や五輪塔が避けられたということですね。天皇家の墓地も同様です。江戸時代は仏教式だった。

大内氏は雪舟のパトロンでもあった。

 次にタクシー運転手(名前を聞くのを忘れた)が案内してくれたのは常栄寺でした。雪舟庭があって、ここも山口市の観光スポットのひとつでした。雪舟が室町時代の有名な画僧で、その作品の多くが国宝に指定されている事は誰でも知っていますが、彼が山口で庭園の設計をしている事は知りませんでした。岡山に生まれ京都相国寺で修行した雪舟は、大内氏の援助で明国に留学しているんですね。そこで中国の画法を学んだ。帰国後も、大内氏の領内各地で制作に励んだとされます。天橋立を描いた有名な作品がありますが、これは大内氏の命を受けての軍事的な探索の意味もあったという説があるそうです。なにやら芭蕉隠密説に似ている。雪舟は長命で、九十歳に近くなってから、やはり大内氏の影響下にあった石見の益田で没しました。益田にも雪舟庭園がいくつか残されているそうです。もともと大内政弘の別邸だったという常栄寺そのものは余り大きくはありませんが、なかなか趣のある寺でした。雪舟庭はかなり広くて、私は庭には詳しくありませんが、池泉回遊式庭園と枯山水の混合で、禅寺らしくかなり精神性の高い庭だと思えました。もちろん、季節が変わればもっと華やかな違う景色を見せてくれるのでしょうが。京都の天龍寺の庭に似ているかな。

長州の政治家は習字が必須?

 この日、最後に案内されたのは「采香亭」でした。明治10年の創業で、山口政財界の迎賓館の役割を果たしたという、八坂神社境内にあった高級料亭ですが、廃業した後、市民多数の要望によって現在地に移築復元されたものです。その大広間が圧巻でした。百畳もあって、木戸・伊藤・山縣など維新の元勲から安倍晋三に至るまで、長州出身の政治家たちの揮毫した扁額がずらっと掲げられていました。昔の政治家はちゃんと書道を習っていたんですね。生来悪筆の私は、政治家の家に生まれなくてよかったと思いました。井上馨の還暦祝いや佐藤栄作のノーベル平和賞受賞祝賀会などもここで開催されたそうです。特に佐藤栄作はここを贔屓にしていて、専用の部屋までありました。さて、観光タクシーでの山口観光はこれで終了。私たちは、この夜の宿舎である、湯田温泉にあるホテル「セントコア山口」まで送り届けてもらいました。まだまだ日は高かったんですが、山口市内にある湯田温泉は特に情緒のある温泉街ではなかったので、私たちはその後ずっと、ホテルから外出しませんでした。夕食もホテルで。というところで、2日目の旅の様子はまた次回。

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