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山口線の旅 ③

益田駅前に素敵なホテルがあった。

 今にも雨が降ってきそうな益田駅に着いて、すぐにその夜の宿舎に入りました。駅のすぐ横にあるホテルを予約しておいてよかったと思いました。「益田グリーンホテル・モーリス」という派手な名前に較べて外観は凡庸な建物でしたが、失礼ながら田舎のホテルとしては個人的に過去最高とも思える、とても素晴らしいホテルでした。最近改装されたのか、すべてが最新の気持ちの良い設備で内装もオシャレで都会的に洗練されていましたし、サービスもいい。広々した清潔な大浴場を出ると、居心地の良い漫画喫茶のようなゲストルームで漫画本読み放題。珈琲も夜食のラーメンも無料でした。私は利用しなかったけれど。たぶん一人旅だったら、久しぶりに「ゴルゴ13」を何冊もじっくり読んで夜更かししていたでしょう。

 少し話が進みすぎました。益田に着いたこの日は、めあての「グラントワ」は休館日でした。他には特に行くところもないので、この日は、「グラントワ」への行き方などを確認して、益田駅周辺を少し歩いただけでした。明日は午前中に「グラントワ」を見物して、午後にはまた山口線で新山口へ、そこから山陽新幹線で大阪に帰る予定でした。幸い、ホテルのすぐ前の停留所から出発する朝の9時15分のバスがあることがわかりました。「グラントワ」まで10分くらいで着きます。9時半の開館時間にぴったりでした。駅前のロータリーに益田観光案内図の大きな看板がありました。そこに「日本遺産のまち益田市 中世日本の傑作益田を味わう」とありました。どうやら、益田には見るべきものがたくさんありそうですが、今回は市内見物の予定はありません。考えてみれば、益田は雪舟が晩年を過ごした場所でした。雪舟はこの地を治めていた益田氏の肖像画も残しています。たぶん中世の益田は、京都における若狭や敦賀のような、都と日本海をつなぐ役割を、「西の京」である山口に対して果たしていたんだろうと思いました。かつては栄えた港街だったんでしょうね。今は「グラントワ」がある。なお、今から半世紀以上前のことですが、司馬遼太郎は「街道をゆく」の取材で、山口から津和野を経て益田へと、車でですが、今回の私たちとまったく同じ行程をたどっています。益田では医光寺の雪舟庭園を見物したそうです。旅行前に読み直していたら、私たちも行ったかもしれない。残念。

 ホテルに夕食はついていなかったので、ホテルでもらった地図をたよりにいくつか近くの居酒屋などを見て回ったんですが、結局は、ホテルのすぐ横にあった居酒屋のチェーン店で夕食をとりました。私は刺身ともつ鍋と焼酎のお湯割り。家内は赤ワイン。地元でもっと美味しい店があったのかどうか知りませが、夫婦二人とも特に食通ということはないので、これで満足でした。

「グラントワ」は異世界だった!

 というわけで29日になりました。今回の旅行の最終日です。私たちは、ホテルにスーツケースを預けて、予定通り、開館時間とほぼ同時に「グラントワ」に入りました。「グラントワ」は愛称で、大屋根という意味のフランス語です。正式には「島根県芸術文化センター」といいます。その中に、今回の旅の目的である「建築家・内藤廣 BuiltとUnbuilt」展を開催している「石見美術館」と「いわみ芸術劇場」がありました。実を言うと、当初の目的は「グラントワ」の建物自体を見ることで、内藤さんの展覧会はおまけのようなものだったのですが、見た後で考えをあらためました。「建築家・内藤廣」展は、わざわざ益田まで来るだけの価値があった素晴らしい展覧会でした。

 展覧会の話をする前に「グラントワ」の建物の話を。芝生の外庭を経て建物に入るとガラスの向こうに四角い中庭が見えました。中庭には水がはられていて、クリスマスツリーのようなものが立っていました。中庭の周囲を取り囲むように大きな屋根が見えます。中庭も周囲の建物も、全てが石州瓦に覆われて赤く輝いていました。まさに「日曜美術館」で見たあの光景でした。朝焼けや夕焼けによって、周囲が紅く輝く神秘的な瞬間は誰もが経験した事がありますが、ここ「グラントワ」は、一日中、そんな神秘空間なのです。ここは日本なのでしょうか。今はいつの時代で、何時なのか。立花隆さんは永遠を見ようとギリシャの遺跡を巡ったけれど、ギリシャまで行かなくてもここにあるよと言いたくなりました。決しておおげさではなく、そんな感じを抱かせる空間でした。かつて夕陽を拝んで西方浄土を思い浮かべるという仏教の修行があったそうですが、そんなことを思い出させる空間でもありました。内藤廣という建築家をますます尊敬するようになりました。

 

内藤廣さんの脳内では赤鬼と青鬼が戦っていた。

 展覧会場に入りました。会場はいくつかの部屋に分かれていました。「建築家・内藤廣 BuiltとUnbuilt」とあるように、実際に建てられた建築と、実際には建てられなかった作品が図面や模型で紹介されていました。膨大な量でした。安藤忠雄さんが「連戦連敗」という本を書いているように、建築家の作品は厳しいコンペを経て採用されないと実現できません。かつて「アンビルトの女王」と言われた故ザハ・ハディットの作品は、今、世界中で実際に建てられるようになっていますが、日本でせっかくコンペを勝ち抜いた新国立陸上競技場は、日本側の事情によってキャンセルされてしまいました。代わりに出来たのが隈研吾さんの競技場。建築家の仕事はほんとうに大変です。この「グラントワ」も島根県知事の応援があって初めて実現しました。

 そんな風に、「安曇野ちひろ美術館」「牧野富太郎記念館」「富山県美術館」「渋谷駅周辺計画」など、これらは実現したものですが、実現しなかったものを含めて、それぞれ、さまざまな運命を経た図面や模型の数々を見て歩くだけでも楽しかったのですが、この展覧会では内藤さん自身が書かれた解説の文章がとても面白くて、時々、笑ったりしてしまいました。建築家の展覧会としては珍しいことです。この展覧会の名称には「赤鬼と青鬼の果てしなき戦い」という文章がサブタイトルとして付けられていました。解説の文章は、この、内藤さんの脳内に住む赤鬼と青鬼の対話として書かれていました。会場で売られていた展覧会の図録はかさばるので買わなかったんですが、大阪に帰ってから、書店に一冊だけあった本を購入しました。図録には、赤鬼と青鬼の対話も収録されています。その中に、赤鬼と青鬼の性格分析の図がありました。赤鬼の性格は「夢想型・支離滅裂・狂気・情熱・野放図・やけくそ・場当たり的・逸脱・快楽主義・放蕩」などで、青鬼は、「現実型・論理・整合性・緊縮・節約・まとも・堅実・枠組み・精神主義・求道的」などとありました。私などは内藤さんは青鬼的な建築家だと思っていたんですが、どうやら内藤さんの体内には赤鬼も住んでいて、両者がいつも闘っていたようです。ちょっと意外でした。

 内藤さんは中原中也記念館の設計コンペにも参加していて、落選したそうです。479件の応募があったそうです。厳しい世界ですね。この作品への赤鬼と青鬼の解説がまた面白くて、全文を引用したいほどですが、長くなるので少しだけ。どういうわけか、ここでは青鬼に替わって小林秀雄が登場する。小林秀雄は一人の女性を中原中也と取り合ったという関係です。勝ったのは小林でした。その小林が、内藤さんにこんな事を言う。「中也の建物なんだから、それなりの覇気がいる。それがまったく感じられないね。彼はいつも死と隣り合わせだった。その緊迫感が彼の抒情のベースにあるんだよ。」その後、小林と赤鬼の間で中也の詩や中也と小林が愛したランボーに関するいくつかの愉快なやりとりがあって、赤鬼はこう言います。「『美しい花がある。花の美しさという様なものはない。』って先生の言葉、最近の若松英輔さんの本で知りました。さすが鋭いですね。『花の美しさ』って既成の概念、レッテル貼り。そうすると『美しい』っていうのは本質論ですかね。さて、『美しい建築がある。建築の美しさという様なものはない。』としたら、その『美しい』ってなんなんでしょうね。」 その後の両者のやりとりが面白い。内藤さんの文章は最高です。

 小林:オマエなんかには、永遠にわからないよ。
 赤鬼:あっ、見つけた。
 小林:なにを?
 赤鬼:永遠を・・・・・、ですね。
 小林:バカもの!!!!

 

益田の思い出は、「グラントワ」と穴子の天丼だった。

 すっかり満ち足りた気分になって「グラントワ」を出た私たちは、施設内のレストランが休業していたので、朝、バスでやってきた電柱電線のないまっすぐな道路(県道54号線)を、駅前のホテルまで歩いて帰りました。その途中に、家内が前日から目をつけていた和食の料理屋がありました。「大衆食堂だいこく」という店でした。穴子の天丼が売りだと看板に書いてあったので、私はそれを注文しました。出てきた料理を見て驚きました。そして、食べてからまた驚きました。益田でこんなにおいしいものに出会えるとは。今回の山口線の旅は、瑠璃光寺五重塔が見られなかったり、中原中也記念館に入れなかったりしましたが、「グラントワ」が見られたし、その設計者である内藤廣さんの素晴らしい展覧会を見ることができ、そして最後に、このおいしい「穴子天丼」に出会えた。いい旅でした。そうそう、書き忘れた事がひとつ。益田駅で知った事ですが、今年は、益田駅開業・山口線全線開通100周年の記念すべき年だったんですね。そんな年に益田に来たのは、これも何かの縁だったんでしょう。あっ、司馬さんも今年生誕100年だった。う~ん、この縁は深い。

※最後に訂正:前回、井上馨を長州セブンの一人と書きましたが、長州ファイブの誤りでした。「七人の侍」が頭にあったんですね。お恥ずかしい。 


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