見出し画像

ダイプリの旅3 鹿児島

 済州島を5月10日の午後4時に出港したダイヤモンド・プリンセスは、翌朝10時に鹿児島港に入港した。船の旅の魅力は入港時と出港時にあると先に書いたが、この鹿児島入港こそ、今までに経験した中で最高に素晴らしいものだった。九州の西岸沖東シナ海を南に航海してきた船は大きくUターンするように薩摩半島の突端を周回して、対岸の大隅半島との間にある錦江湾を桜島めざして北上する。枕崎沖を通過して開聞岳のあたりで方向転換し、指宿沖を通って鹿児島市に向かうという航路だ。まだ朝靄の中、富士山のような美しい円錐形をした薄紫色の開聞岳が海面から直接空高く屹立する神々しい姿が圧倒的だった。済州島の仏像には手を合わさなかった私も思わず手を合わせたくなった。鹿児島の象徴は桜島ではなくこの開聞岳かもしれないと、その時思った。しばらくたって、実際に噴煙を吐く桜島を間近に見て、やっぱりこっちの方が凄いかと思い直したのだが。

 鹿児島港では、下船してから入国検査があるので、鹿児島の市街地からかなり離れたところにあるターミナルは大混雑だった。人員も検査機器も足りないようだ。無事に検査を終えてそれぞれのツアーのバスに乗った。鹿児島では私たちは知覧観光のツアーを申し込んであった。家内と二人で鹿児島に来たのは今回が初めてだが、家内は結婚前に友人と鹿児島旅行をしたことがあり、私はサラリーマン時代に出張で一度鹿児島に来ている。その時、大阪の伊丹から鹿児島空港に行く同じ飛行機に司馬遼太郎さんが搭乗しておられた。司馬さんの師匠筋にあたる海音寺潮五郎さんの記念館ができて、その開館イベントに出席するためだったと後で聞いた。とにかく、それが生身の司馬さんを見た唯一の経験だったので、今でも鮮明に記憶に残っている。

 そんなわけで、今回は鹿児島市内見物は次の機会としてあきらめて、かねて行きたかった知覧を訪問先に選んだ。知覧には「特攻平和会館」がある。そのことは先に訪れて展示に感動した友人たちから何度か話に聞いていて、日本に生まれた者のなかば義務として、いつかは行かねばと思っていたのだが、建築物や町並みを見ることに興味と関心のある私が本当に見たかったのはそこではなく、写真や映像で何度も見た知覧の武家屋敷群だった。バスは港から1時間近く薩摩半島の内陸部を南西方向に走ってようやく知覧に着いた。知覧は今、南九州市の主要地区になっている。

 薩摩藩の島津家は鎌倉以来ずっとこの地を守ってきた。戦国期、島津家は九州全土の制覇をもくろみ、多くの武士団を抱えた。しかし秀吉によってそれは阻まれて、もとの三国に押し込められた。その結果、大量に抱えた武士を城下に収容しきれなくなり、各地に分散して外城を形成することになった。そこには半士半農の郷士たちが住んだ。知覧もその一つである。バスガイドさんの説明では、知覧は東シナ海方面から攻めてくる敵をくいとめる、鹿児島城防衛の最前線のひとつだった。でもさすがに江戸時代には平和が続いたので、暇を持て余した武士たちが庭造りに励んだのだということだったが、難破して鹿児島にやってきた中国人たちが帰国旅費を稼ぐために作庭したという説があるらしい。そう言われれば、これらの庭は岩の使い方など中国風だと言えないこともない。(薩摩藩が支配していた琉球の影響だという説もある。知覧の港は琉球貿易の拠点だったそうだ。あれ、知覧に港があったの?)とにかく知覧の武家屋敷群は素晴らしかった。庭もいいが石垣と生け垣に縁取られた清潔な街路がいい。もちろん、電線も電柱もなかった。そんな武家屋敷の一軒で、そこの茶畑で収穫したという知覧茶をご馳走になり、お土産に知覧茶を買った。ガイドさんの話では、知覧を含む鹿児島の茶は、生産量が静岡や京都よりも多いのだそうだ。なお、知覧武家屋敷群には今も人が住んでいる。でも、何代か前の知事の懇請によって観光客に開放することに決めて以来、自分の家の庭に洗濯物を干すことも出来ず、車も午後4時以降にしか表通りに乗り入れできないなど、ずいぶん不便な暮らしをしいられているという事だった。せめて税金の免除があればいいのに。これだけ美しい庭や町並みを維持するのだって大変なことだから。

 「知覧特攻平和会館」に着いた。家内も私も中に入るのに気が進まなかった。会館での時間はたっぷりとってあるという。だから、ガイドさんにことわって、バス駐車場のすぐに近くにあった「知覧茶屋」というところで先に昼食を食べることにして、会館にはその後に入ることにした。私たちと同じような人が他にも何組かいた。薩摩の黒豚を使ったとんかつ定食はおいしかった。腹ごしらえをして覚悟をかためて、私たちは会館に入った。話に聞いていたとおり、とても充実した展示だった。特攻にもちいた飛行機の再現原寸模型や、ここから南方へ飛び立って行った、あまりにも数多い特攻隊員たちの写真、彼らが残した遺書などが多数展示されていたが、じっくり読んでいると泣いてしまうと思って、あえて読まなかった。ただ、彼らの残した筆跡の数々があまりに達筆なのに驚いた。まるでここは書道の展覧会場かと思ったくらいだ。これを見ても、若い特攻隊員たちが判断力を欠いた愚かな若者たちで、欺されて特攻隊員になったんだという一部の言説が間違いだということがわかる。彼らは自らの判断で信念を持って特攻に出向いたのだ。だからこそ余計哀しかった。自分だってあの時代に生まれていれば、同じ判断をしたかもしれない。あの大江健三郎さんでさえ、かつては皇国少年だったと言っているのだから。教育とはとても恐ろしいものだ。今もなお、ウクライナや各地で戦争は終わらない。防衛戦争をしているウクライナの兵士はともかく、ロシアの兵士たちは何を考えて戦場にいるのか。徴兵されたから仕方なくという人間ばかりではないだろう。人類はまことに愚かだ。この会館が愛国心をあおるために使われるとしたら特攻隊員たちも浮かばれないだろう。ここは会館の名前のとおり、特攻隊員たちを悼むとともに、平和への決意を固めるための場所であり続けて欲しいと思った。

 私たちのバスガイドはベテランの女性だった。彼女は、武家屋敷から特攻平和会館への道中。会館から港へ帰る道中。まるである女性が乗り移ったかのように熱をこめて語り続けた。ある女性というのは、「特攻おばさん」として知られドラマの主人公にもなった鳥濱トメさんの事である。知覧の特攻基地の近くで「富屋食堂」を営んでいたトメさんは若い特攻隊員たちにお母さんのように慕われた。戦後には、この地を訪れた遺族たちのために、語り部のような役割を果たしたという。特攻隊員が母親に密かに残した手紙をあずかったりもしたという。上官の検閲をさけるためだった。ガイドさんは、晩年のトメさんに何度か会って、直接話をきいたそうだ。あの熱意はそのせいだったのだろう。なお、私たちが昼食を食べた「知覧茶屋」はトメさんの親族が営んでいる。「富屋食堂」はもう営業していないが、建物は昔そのままに復元再建された。私たち夫婦は特攻隊員たちが残したものと真っ正面に向き合う勇気を持たなかったが、それを補ってくれたのが、このバスガイドさんの熱い語りだった。

 これで今回のクルーズは終了。ダイヤモンド・プリンセスは終着港の神戸に向かって夜の7時に鹿児島港から出港する予定だった。例によって岸壁には若い男女による郷土芸能の太鼓隊など、たくさんの人が見送りに来てくれた。ところが予定の時間になっても船は出港しない。どうやらまだ船に戻っていない乗客がいるようだった。帰船の刻限をもう30分以上過ぎている。見送りの人たちも事情がわかったようで、なにやらざわざわしてきた。我々、船の中にいる人間も不安になってきた。私は、どんな事情があるのか知らないが約束を守らない者が悪いのだから、このまま出港したらいいのにと思っていた。そこに、岸壁にタクシーが一台入ってきた。遅刻した人たちだった。船内から歓声と拍手が起こった。岸壁の人たちも拍手で出迎えた。私は、遅れた人間は置いていけと考えた自分の狭量さが恥ずかしくなった。これはただの旅行なのだ。たかが出港が何十分か遅れてもいいではないか。みんな揃って無事に帰ることが大事だなのだ。そんな当然のことを私は忘れていた。そんなわけで、今回の旅は楽しかっただけではなく、最後まで、いろいろと気づきを与えてくれる旅だった。たとえ私のように70歳を過ぎた老人でも、素直な心と柔軟な頭があれば、旅で学ぶことは多い。それを改めて実感した。というところで、今回の船旅のレポートはおしまいです。最後まで読んでくれてありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?