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山口線の旅 ②

湯田温泉にある山頭火の句碑はちょっと卑猥だった。

 11月28日。ホテルで朝食をすませてチェックアウトした後、スーツケースを転がして、湯田の街並を見て歩きながら湯田温泉駅まで行くことにしました。ホテルの近くの錦川通りの道ばたに中原中也の詩碑と種田山頭火の句碑が並んでたっていました。中也はともかく山頭火がなぜと思いましたが、山頭火はもともと山口県防府市の出身なんですね。全国を漂泊して、晩年近くには山口の小郡に庵を結びました。そこから毎日のように12キロも歩いて通うほど、湯田温泉をひいきにしていたそうです。それにしても、句碑のこの句はちょっと卑猥ですね。でも面白い。「ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯」。私たちは、ホテルでもらった「湯田温泉観光マップ」というのを見ながら歩いたんですが、そこには「山頭火通り」「中也通り」という道路も書かれていました。

 維新の志士たちに愛され、司馬さんも宿泊したという老舗旅館「松田屋ホテル」の横の狭い路が「湯の香通り」と名付けられていました。そこに足湯の施設や休憩所があり、壁には湯田温泉の歴史が書かれたプレートが貼られていました。面白かったのは、大内弘世の時代に山口を訪れた明の使者の趙秩という人が書いた「温泉春色」という漢詩の石碑でした。こんなところにも、かつての大内氏の威勢の大きさを実感しました。大内氏は明や朝鮮ともつながりを持っていたんですね。というか、海外貿易で蓄えた富がその力の源泉だった。その他、江戸時代に西日本の大名専用の温泉宿のようなものが湯田にあったというのも初めて知ったことで、面白かったですね。

中原中也と井上馨はご近所だった。

 その後、生家跡に建てられたという「中原中也記念館」に来ましたが、先に書いたように休館でした。臼杵にあった野上弥生子記念館のような木造の建物を想像していたんですが、意外なことに安藤忠雄風コンクリート造だったその外観を写真に撮り、向かいの足湯施設「狐の足あと」で記念館のリーフレットをもらうことしかできませんでした。中原中也は好きな詩人だっただけに、まことに残念。まさか二日続けて休館とは。仕方なく、「中也通り」を歩いて「井上公園」に行きました。ここは、井上馨の生家のあとです。彼の銅像がたっていました。井上は、盟友だった伊藤博文らとともに幕末にイギリスに密航した「長州セブン」の一員で、明治になって外相として鹿鳴館の建設を主導した人物ですね。百姓出身の伊藤と違って、彼はれっきとした武家の生まれですが、萩城下ではなく湯田で生まれたんですね。これは知らなかった。(これを書いた後に司馬さんの「街道をゆく」長州路篇を読み直したら、ちゃんと書いてありました。)

湯田温泉で時間が余ったので、山口駅へ。

 湯田温泉駅に着きました。無人駅です。昨日はすぐに迎えのタクシーに乗ったのでよく見なかったのですが、駅舎の横に、湯田温泉の象徴である白狐の大きな像がたっていました。さてどうしようか?ここから益田までの特急に乗る予定ですが、特急が来るまであと4時間近くありました。昼食も食べないといけないが、駅の近くには適当な店が見当たりません。駅の時刻表を見ると、まもなく益田方面行きの普通電車が来ることが分かりました。特急にはここからではなく、次の山口駅から乗っても良いんじゃないか。山口駅前なら、とりあえず昼食を食べることはできるだろう。家内も私の考えに賛成したので、私たちは普通電車に乗って山口駅に行くことにしました。

大内氏は百済王族の子孫?

 山口駅はとても県庁所在地の駅とは思えない小さな駅でした。さすがに駅員はいましたが、コインロッカーがありません。構内にあった観光案内所の女性に聞くと、駅前のレンタサイクル屋さんが預かってくれるというので、そこでスーツケースを預けました。観光案内所で山口駅周辺の観光案内図を手に入れた私たちは、駅前からタクシーに乗って山口県立博物館へ向かいました。瑠璃光寺ですっかり大内氏に興味を抱いた家内が行こうと言ったからです。ここなら大内氏のことがもっと分かるかもしれない。私たちは高齢だったので入館料は無料でした。私たちの他に入館者の姿はありません。館内には動物の剥製や恐竜の骨格標本などが雑然と陳列されていました。懐かしい昔ながらの博物館です。歴史展示のコーナーに行くと、ちょうど「多々良文書」というものが企画展示されていました。「多々良」というのは大内氏の本姓だそうです。大内氏は古代朝鮮の百済聖明王の血筋で、聖徳太子から多々良の姓を賜ったと自称していたそうです。それは眉唾だったとしても、多々良という姓は平安時代の新撰姓氏録に渡来系氏族として出ているそうですから、大内氏は渡来人の子孫ではあったのでしょう。この「多々良文書」は、歴代の大内氏の文書を収集した人が過去にいて、その文書類を表装して大きな蛇腹の御朱印帳のような形にしていたのです。貴重な資料だと思いますが、これを見たからといって、私のような素人に大内氏のことがわかるわけではありません。当然ですね。

山口県政資料館の県議会場は映画のセットのようだった。

 博物館を出た私たちが徒歩で向かったのは、山口県政資料館でした。昨日、県庁の近くをタクシーで通り過ぎた時に、県庁舎の前に素晴らしい洋館があるのを見ました。建築なら新しいものも古いものも好きな私は、明治以後の洋館も大好きなのです。これを見逃す手はありません。近くに行ってみると、洋館は二棟あることがわかりました。旧県庁舎と旧県会議事堂です。二つ合わせて資料館になっていたようですが、私たちが入ったのは旧県会議事堂の方でした。中に入って驚きました。大正時代初期に建てられた当時の議場が見事に復元されていたのです。このままここで映画のロケが出来そうです。素晴らしい施設でした。他の展示室を見て、この建物は、国会議事堂を設計した妻木頼黄らが設計したものだと知りました。妻木は明治建築界の三巨匠の一人です。さすが山口。ついつい、現在の県庁舎の凡庸で面白みのない四角い箱型デザインと比較してしまいました。まあ、これは山口だけの話ではありませんね。経済合理主義一辺倒だと面白い建物はできません。これは建築ファンとしてのひとりごと。

 県政資料館を出た後がちょっと大変でした。駅まで戻るタクシーが全くつかまらないのです。昼食もまだなのに。歩いて駅まで行ったら、果たして特急に間に合うのか。そんな時に偶然タクシーが通りかかりました。めざとく見つけた家内が駆けつけて止めました。そのタクシーの運転手によると、山口では流しのタクシーはほとんどないそうです。彼もたまたま公衆トイレに行っていて、ここを通ったという事でした。なんとも幸運でした。私たちは、駅から近いアーケード商店街まで送ってもらうことができました。考えてみると、タクシー不足は今や全国的問題なんですね。私たちも不注意でした。こんな時は外国のようにUBERがあればと思いました。

山口の商店街で食べた天丼は美味しかった。

 私たちがタクシーを降りたのは、駅でもらった地図にあった「中心商店街アーケード」でした。たぶん、ここが山口市のメイン商店街。繁華ではないけれど、井筒屋という百貨店もあって、私の地元の岸和田を含めて、最近の地方都市に多いにシャッター街ではありませんでした。県庁所在地ですからね。そこで「さわらぎ」という和食の店を家内がみつけて入りました。てんぷらが売り物の店のようです。私たちは天丼を注文しました。私たちが入った後に次々客が入ってきて、すぐに満席になりました。人気店のようです。カウンターの中で白いエプロンをした上品そうな白髪の女性が一心不乱にてんぷらを揚げていました。少し待ちましたが、出てきた天丼はまことに美味でした。

山口駅前で外郎と大内氏の歴史を知る。

 昼食をとって心身ともに余裕が出た私たちは、アーケード商店街から駅まで歩きました。黄葉した銀杏の落葉で道路の半分が黄色くなっていました。ふと、エルトン・ジョンの歌声が聞こえてきたような気がしました。あの曲は、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」で「イエロー・リーフ・ロード」じゃなかったけれど。銀杏の木々は大きくはありませんでしたが、とても良い雰囲気でした。途中、家内が「御堀堂」という店を見つけて「山口外郎」をおやつに買いました。湯田温泉でも「豆子郎」という店で外郎(ういろう)を買っているので、食べ較べるつもりだったのでしょう。どちらも美味しかったそうです。旅をすると、いろいろと新しい知識が増えます。今回山口に来て、私は外郎についていろいとろ知ることができました。といってもネットで検索しただけなので、正しいかどうかはわかりません。そのつもりでお読みください。外郎はもともと元が滅びて日本に亡命してきた中国の役人がひらいた漢方薬店の名前です。つまり、もともと外郎は薬だったわけですね。市川團十郎の歌舞伎十八番の演目に「外郎売」というのがありますが、あれは薬売りの長台詞が売り物でしたね。今でも小田原に外郎家が存在していて薬を商っているようですが、その小田原の外郎藤右衛門さんの説明によると、外郎家は、室町幕府の命で、当時、中国や朝鮮からの外交使節の接待所のような役割を務めていて、その接待のために、薬屋だからこそ手に入った貴重な黒砂糖などを使ってお菓子をつくったのが始まりだということでした。外郎家は北条早雲に招かれて小田原に来たそうなので、その前は室町幕府がある京都にいたんでしょうね。いずれにしてもたいへんな老舗です。

 京都から全国に広まったんでしょう。現在、ういろうは日本各地で作られているようですが、特に名古屋ういろうと山口ういろうが有名なのだそうです。名古屋は米粉を使うのに対して、山口はわらび粉を使うのが違いだということでした。この山口駅前の「御堀堂」の店内で面白いものを見つけました。「御堀堂 山口外郎 由来」という文章ですが、そこに大内家と御堀堂と外郎の関係が書かれています。下にその写真を掲載しますが、読みにくければ、同じ文章が「御堀堂」のホームページに載っていますのでお読み下さい。司馬さんの言う、大内文化が今も山口に生き続けている事がここに端的に述べられていると思いました。

しょぼい?山口駅とSLやまぐち号。

 山口駅に着きました。レンタサイクル屋さんでスーツケースを受け取って、後は「特急スーパーおき4号」に乗って益田へ行くだけ。でも、その特急を待つ間に山口駅と山口線についてのお話を少し。旅行から帰ってから偶然見たYouTubeに「県庁所在地しょぼい駅ランキング」というのがあって、山口駅が堂々の1位に選ばれていました。そもそも県庁所在地の駅が非電化単線のローカル線にあること自体が考えられないことだというのです。でも、山口駅が山口線にあってよかった事がひとつありました。それは「SLやまぐち号」が通ることです。事実、山口駅に着いた私たちが最初に目にしたのは、「SLやまぐち号」のポスターや掲示物の数々でした。鉄道は好きでもマニアという程の知識はない私は「SLやまぐち号」の名前は知っていましたが、それがこの山口線を走っていることには駅に着くまで気づきませんでした。(現在、残念ながら、D51などの蒸気機関車が故障修理中で、替わりにディーゼル機関車が車両を牽引する「DLやまぐち号」になっているそうです。)鉄道エッセイストの父と言うべき宮脇俊三さんが、「汽車旅十二ヶ月」にこんな事を書いています。宮脇さんは、1979年に当時の国鉄がSLを復活させた時、他にも北海道などに適当な路線がいくつもあるのに、なぜ、山口線が選ばれたのかと考えたそうです。そして、ハタと膝を打ちました。これは鉄道ファンを新幹線に乗せるための国鉄(当時はまだ民営分割前の国鉄の時代)の老獪な作戦だ。そう、北海道にSLを走らせても、九州はもちろん、関東や関西のSL好きの人々も、まず飛行機で北海道に行ってしまうだろう。山口線なら、たとえば東京からなら、東海道新幹線、山陽新幹線を乗り継いで新山口に来て、小郡から津和野まで「SLやまぐち号」に乗るはずだと考えたに違いない。(当時、新山口はまだ小郡と呼ばれていました。)たぶん、宮脇さんのその推理は当たっているでしょうね。とても面白い。というところで、山口駅に「特急スーパーおき4号」がやってきました。「SLやまぐち号」の終着駅である津和野には途中下車せずに通過せざるをえません。残念ですが目的地は益田です。益田に着いてからのお話はまた次回。


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