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八道湾の家・魯迅と周作人

                           中江広踏

    まえがき

 ここに掲載するのは、私の義父、首藤功一郎の遺稿「八道湾の家」です。首藤は長年中国駐在の通信社の記者をしていましたが、退職後はいくつかあった大学や専門学校からの教職の依頼を全て断って、自ら小さな中国語の塾を営んでいました。もう宮仕えは嫌だと言うことだったようです。それでも、書くことは好きだったのでしょう。あちこちからあった原稿の依頼には応えていたようで、自宅には寄稿した文章が掲載された会報や雑誌類が何冊も遺されていました。しかし、今回新たに見つかった「八道湾の家」は、まだ草稿の段階だったようでどこにも掲載された様子はありませんでした。私たち夫婦を含め、首藤功一郎の遺族は遺された文章類を集めていずれ私家版の書籍にして親族や故人の知人に配ることにしていましたので、「八道湾の家」もそこに収録するつもりでした。でも、ごく限られた人間しか目にしないだろう書籍に収録するだけではもったいない。それに、現代はもう紙の本じゃなく電子書籍の時代だよという声が故人の孫にあたる若い人からあがってきました。そういえば、叔父さんはnoteにここ数年雑文を投稿しているね。ほとんど読者はいないみたいだけれど、ぼくは読んでますよ。たまに面白い時もある。とりあえず、お祖父さんの原稿はまだ未発表なんだから、一度、叔父さんのnoteに掲載してみてはどうですか?というような、考えようによってはかなり無礼な提案を受けて、結局、こうして掲載することになりました。私としても、「八道湾の家」は身内の人間だけではなく多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。そのために、題名に「魯迅と周作人」と付け加えました。「八道湾の家」だけでは何のことかわかりませんから。

 なお、文中にある「胡同」はフートンと読みます。胡同については、義父の同業者だった元朝日新聞の加藤千洋さんの「胡同の記憶」という本が岩波現代文庫から出版されていますので興味のある方は読んでください。同じく北京の胡同を愛した作家のリーベ・英雄さんは胡同のある北京を「石の京都」と呼んでいました。京都の昔ながらの町家の風情と胡同の街並みが同じ香りを持っているということだったのでしょう。京都の町家と同じく、北京の胡同も近頃では都市再開発によってどんどん少なくなっているようですが、同時にリフォームによる再活用も進んでいると聞いています。かつて、義父の案内で私たち夫婦して北京市内の胡同を散策した日々のことを懐かしく思い出します。でもそれらは観光客向けに開放された胡同であって、この八道湾の家には行きませんでした。今思えば残念なことでした。いつか機会があれば、ぜひこの目で見てみたいと思います。まだ残っていればの話ですが。とにかく、義父もまた胡同を心から愛した人でした。この文章にはそんな義父の思いがこもっていると思います。


    八道湾の家

                            首藤功一郎

 北京市内地図を眺めると長方形の故宮の西隣に平仮名の「つ」と「し」の形をした、池と呼ぶには大きすぎ、湖と呼ぶには小さすぎる水の塊がある。昔の北京の人々はそれを海と名付けた。「し」は三つの部分に分かれていて、それぞれ北海、中海、南海と呼ばれる。北海は公園として一般に開放され、中海と南海はあわせて中南海と呼ばれて中国政治の中枢部が所在する閉鎖空間になっている。「し」の北側にあり什刹海とも呼ばれる「つ」もまた三つの部分に分かれていて、それぞれ西海、后海、前海と呼ばれていた。北京市民の生活を支える貴重な水源のひとつでもあった什刹海周辺には胡同と呼ばれる路地が複雑に入り組み、そこには四合院などの中国独特の石や灰色煉瓦の住居が建ち並んでいた。什刹海は真冬になると凍り付き、付近の住人たちはスケートやソリを楽しんだという。また、什刹海は江南の杭州と北京をつなぐ大運河の一部でもあって、かつては舟運の重要拠点でもあった。

 西海と后海をつなぐ細い水路があり、北側からそこを渡って南西方面に少し行ったところに目指す八道湾の家があった。もちろん、この日、迷わずにここに着けたのは私の勤める通信社の運転手の任さんのおかげである。私一人だったらきっと迷子になっていただろう。八道湾の家の前では劉さんが私を出迎えてくれた。普段と変わらない洗いざらしの人民服姿。少し白いものが出かけた短髪で、顔にはいつもの人なつっこい笑顔があった。「首藤さん、よくいらっしゃいました。約束の時間通りですね。道路は混んでいませんでしたか?」「ええ、通勤時間じゃなかったので車も自転車も少なくて助かりました。こんな大事な日に遅刻するわけにはいきませんからね。劉さん、お出迎えありがとうございます。今日はよろしくお願いします。」

 毛沢東の死、それにともなう、中国を数年間大混乱に陥れた文化大革命の終焉。四人組の追放、華国鋒の登場と退場、鄧小平の復活とめまぐるしく変転した中国の社会もようやく落ち着きを取り戻して、日中の経済や文化の交流もようやく以前の活発だった時期の姿に戻りつつあった。通信社の北京駐在員だった私は、日本からやってきたいくつもの交流団体の活動状況を何度も取材することになった。そんな時、いつも中国側の接待員や通訳として現れる、流暢な日本語をあやつる温顔の劉則徐さんといつの間にか顔なじみとなり、親しく会話をかわす仲になった。すっかり劉さんの人柄に魅せられた私は、新聞記者としての性もあって、日中友好につくす劉さんのことを日本の読者に紹介したいと正式にインタビューを申し込んだ。最初は躊躇していた劉さんだが、上司の許可をとれたらという条件で引き受けてくれた。その時は紙面の制限もあって、簡単な紹介記事しか掲載できなかったのだが、これはここだけの話ですがと、私も初めて聞くような興味深い話もたくさん伺った。そのひとつが劉さんと周作人の関係だった。劉さんが日本語を学ぶきっかけをつくったのは周作人だったというのだ。周作人といっても、日本の若い人たちには馴染みがないかもしれない。なにしろ、その兄だった魯迅の作品さえ、もう読まれなくなっている時代なのだから。

 魯迅の本名は周樹人、周作人はその弟である。清朝末期に紹興で生まれて、ともに中国近代の激動の時代を生きた。周作人はいつも四歳年長の兄の跡を追っていた。兄が江南水師学堂で学べば彼も同じ学校に入学し、兄が日本に留学すれば、彼も数年遅れて日本に留学した。兄魯迅が最初医学を勉強して後に文学研究に転じたのに対して、英語が得意だった周作人は初めから文学研究を志していた。日本留学時代、周兄弟は様々な欧米文学や日本文学を翻訳出版して、既に一部の日本人や留学生仲間には知られた存在になっていた。長男だった魯迅は一時帰郷して妻を迎えたが、弟の周作人は下宿時代に知り合った日本人女性と結婚した。この事が、後に二人の生涯の進路に大きく影響することになる。

 中国が清朝から中華民国へと大きな変化を遂げた年、日本では明治から大正に元号が変わっていた。既に郷里の紹興に戻っていた魯迅は北京に出て教育部に勤めることになった。そして、魯迅よりも数年遅れて紹興に戻っていた弟周作人を北京に呼んで、北京大学国史編纂処の職を斡旋した。そこで能力を認められた周作人は、後に文科教授に就任した。魯迅三十七歳、周作人三十二歳の時である。二人は雑誌「新青年」を舞台に旺盛な執筆活動を始め、魯迅は「狂人日記」で作家としての地位を築いた。そんな時に魯迅が紹興にあった屋敷と土地を売却して、北京内城の西北部にあたる八道湾胡同にあった古い家を購入した。曲がりくねった路地の奥にある大樹の茂る大邸宅だった。いわゆる三進の四合院である。魯迅は母親と妻の朱安、二人の弟、周作人と周建人の家族を北京に呼び寄せて一緒に住むことにした。ついに安住の家をみつけた周兄弟のこれからには、兄弟力をあわせての一家団欒の幸せな日々が待っているはずだった。しかし、それは数年しか続かなかった。ある日、周作人と衝突した魯迅は家を出て北京に新たな住まいを求めた。妻と母親もそこに呼び寄せた。それは、清朝崩壊後も紫禁城での暮らしを許されていた廃帝溥儀がついに紫禁城から出された年の出来事だった。その数年後、魯迅は北京を去って上海に本拠を移す。同行したのは妻の朱安ではなく、交際を深めていた許広平だった。妻と母親は北京に残った。上海に移ってほぼ十年後に魯迅は亡くなる。周作人との和解はついにならなかった。それどころか、二人の仲はますます疎遠なものになっていた。周作人は兄魯迅を不道徳だと非難し、魯迅は弟周作人を愚かだと批判した。その大きな原因は、若き日に共に遊学した日本に対する互いの立場の相違にもあった。

 他のアジア諸国に先駆けて近代化に成功した日本は清国末期の知識人や若者にとって憧れの国だった。周兄弟を含めて、当時の若者達は競って日本に留学した。日本がロシアとの戦いに勝利した時、孫文はアジアの夜明けだと驚喜した。しかし、その日本はアジアの盟主として西洋列強に対峙するのではなく、西洋列強に倣って帝国主義の道を歩み始めたのである。日本は廃帝溥儀を傀儡にして満州国を建設し、それだけでは飽き足らずに中華民国本土にも兵を進めた。中国左翼作家連盟に参加するなど、反日的立場を強めた魯迅に対して、周作人は妻の母国である日本に対してより融和的だった。八道湾の家に移ってすぐのことだが、武者小路実篤の「新しい村」運動に共鳴していた周作人は、自宅を「新しい村」の北京支部とした。それ以来、志賀直哉や里見弴など、多くの日本の作家や学者達は北京に来るたびに八道湾の周作人邸を訪れることが習慣のようになった。日中戦争が泥沼化し、さらに日米戦争も始まって、日本の劣勢が徐々に明らかになってからも、友人たちの忠告を無視して、周作人は親日的な立場を捨てなかった。それどころか、大東亜共栄圏を支持し、満州国も訪問した。それは、日本の作家からさえ、反動的だと非難されるほどだった。

 日本の敗戦とともに、周作人は漢奸の罪で国民政府に逮捕された。それは当然予想されたことだった。懲役十四年の判決を受けて、周作人は南京の老虎橋監獄に収監された。皮肉なことに、周作人を救ったのは魯迅だった。魯迅は既に上海で亡くなってから十年ほどが経っている。しかし周作人は、その死後に神格化されて国民の尊敬を一身に集めるあの魯迅の弟なのである。政府も手荒な扱いはできなかった。監獄での世話係として劉則徐少年らが選ばれて、周作人は監獄内でも翻訳などの執筆を許された。懲役は十年に減刑された。実際には、周作人は四年後に保釈されて北京に戻った。中華人民共和国が成立したからである。毛沢東は、かつて八道湾の家を訪ねたことがあり、魯迅を深く敬愛していた。

 「首藤さん、今日は行き届いた案内ができなくて申し訳なく思っています。」
 「とんでもありません、劉さん。私はこうして八道湾の家を見られただけで十分満足していますよ。本当に劉さんのおかげだと感謝しています。ありがとうございました。」

 文化大革命の前後から、いや、それは既に清末の混乱期から始まっていたのだが、かつては閑静な邸宅街だった胡同にも大きな変化が起きていた。それぞれの邸宅に数家族が無断で入り込み、勝手に増築までして住み着いたのである。八道湾の家も例外ではなかった。ここを何度も訪れて住民達と顔なじみになっていた劉さんがいなければ、部外者が立ち入ることは不可能だった。私はそんな事情を十分にわきまえた上で、あえて劉さんに案内をお願いしたのである。ざっと、かつての邸宅の様子を見学した後、私は劉さんの労をねぎらうため、行きつけの酒房に案内した。そこで、改めて劉さんから周作人の思い出話を聞いた。

 「初めは私も周先生のことを売国奴だ漢奸だと思っていました。でも、しばらく先生のお世話をしているうちに先生のお人柄に惹かれていったんです。当時の先生は古希に近い老人でしたが、頭脳はまだ若々しくて明晰でした。私は先生から日本語と英語の初歩を学ぶようになりました。先生はギリシャ語もお出来になりましたが、さすがにそこまでは私には無理でした。そんなわけで、まあ、監獄内学校の生徒になったわけですね。中国でも最高の知識人の弟子になれるなんて、こんなに幸せなことはありませんでした。そういえば、日本でも吉田松陰という人が同じようなことをしていましたね。吉田松陰は死罪になりましたが、周先生は幸い生き延びることができました。先生が保釈になって北京に戻られた時に、私もお願いして一緒に北京に行って、八道湾の家に居候させてもらうことになりました。そこから語学学校に通ったんです。」
 「その頃の八道湾の家は、さきほど首藤さんがご覧になったのとはずいぶん違いました。これは周先生の奥様だった信子さんに伺ったんですが、最初、八道湾の家には周三兄弟それぞれの家族と母親の魯瑞さん、(ペンネームの魯迅の姓は夫婦別姓の母親の姓からとったわけですが、)その他にコックや使用人、借家人もいて、あわせて十数人の大所帯だったそうです。それだけの世帯を養えるだけの給料が当時の周兄弟にはあったんですね。魯迅はこの家で「阿Q正伝」を書きましたが、作家というよりは教育部に勤めている高級官僚であり、周作人先生は北京大学教授でしたから。それだけ大人数が住んでいても、八道湾の家は樹木の深い緑に覆われていて季節の花も咲いていた。古びてはいても大邸宅だったんです。表玄関を入ると広々した前庭があって、目の前に南棟がありました。南棟の横の木戸をくぐると中庭があって、伝統的な「四合院」になっていました。魯迅は西棟に住み、母屋に母親と妻の朱安が住みました。母屋は三つに区切られていて、その真中が食堂だったそうです。中庭から通路を通って後庭に出ると、北棟が見えます。北棟も三軒に区切られていました。そこに周作人、周建人の家族がそれぞれ住み、一部は客室になっていました。もっとも周建人の家族がここにいたのは一年間だけだったそうなので、北棟は実質的に周作人先生ご家族の住まいだったわけですね。もっとも、私の知っている八道湾の家は、もうすっかり変わっていました。北棟だけが昔のままで、他の棟にはすでに他の家族が借家人として住み着いていましたから。でも、先ほど見てもらったほどの乱雑さはなかった。まだ昔の邸宅の面影が残っていました。」
 「魯迅と周先生が仲違いした理由ですか?やっぱり、お話ししないといけないですかね。実はよく知らないんです。先生にも奥様にもそんな事を訊くわけにはいかない。でも、八道湾の家に居候している時に、周先生をたずねて来る人たちから噂話を聞いたことはあります。その時は単なる憶測だと思いましたが、後でちょっと気になった。兄弟不和の原因をつくったのは奥様の信子さんだと言うんです。信子さんが魯迅が夫婦の房事を盗み聞きしたと周先生に告げ口したのが原因だと。私の知っている信子さんはとても思いやりのある優しい人で、とてもそんな事をする女性ではありませんでしたし、魯迅だって、当時、母親の決めた夫人とは上手くいっていなかったとしても、そんな事をする人ではないのは明らかです。ですから、やっぱり、私には魯迅が家を出た理由はわかりません。誰にもわからないでしょう。でもね、どんな誤解があったのかわかりませんが、あの出来事は周先生にも魯迅にとっても、とても不幸なことだったと思います。」

 こう話した時の劉さんは実に淋しそうな表情を浮かべていたが、その少し前、八道湾の家を私に案内してくれていた時に、いつも冷静な劉さんが堪えきれずに涙を流した瞬間があった。それは、周作人の終焉の場所を私に指し示してくれた時だった。元々、今回の八道湾の家の訪問は、私が周作人の最後の場所を見たいと劉さんにお願いしたのがきっかけで実現したのだった。著名な文学者だった老舎が紅衛兵に襲われたことに絶望して入水自殺したことは知っていたが、周作人もまた文化大革命の犠牲者だったことは劉さんに聞いて初めて知った事実だった。当時、既に八道湾の家を出て天津で別に家庭をいとなんでいた劉さんは直接に目撃したわけではないが、周作人は、八道湾の家に侵入した紅衛兵の一団によって台所の小屋に拘禁されたという。拘禁生活は半年以上も続いた。そして、周作人はそこで誰に看取られることもなく亡くなった。八十二歳だった。周作人の運命を変えた最愛の妻信子は、その五年前に亡くなっていた。

 私が、もうずいぶん前の事になる、懐かしい劉則徐さんとの八道湾の家訪問のことを思い出したのは、最近、中国の最新事情を伝える、ある記事を読んだからである。北京では最近、古い胡同の取り壊しが進んでいる。五十もの家族が雑居していた八道湾の家も、取り壊しの対象になったという。しかし、あの魯迅の旧居である。保存すべきだという声が四方からあがった。そして、保存の方向に話が進み出した。しかし、保存に反対した人物がいた。他ならぬ、魯迅と許広平との間に生まれた長男、周海嬰である。彼はこう言ったという。「あの家では北棟がもっとも良かった。父はその恩恵を受けていない。あの北棟は周作人のものだった。漢奸の旧居を国が保護しようというのかね。」

 魯迅と周作人、兄弟の葛藤は世代を越えてまだ終わっていないのかと感慨深かった。これを聞いて、劉則徐さんはどう思っただろう。でも、その劉さんはもうこの世の人ではない。あちらの世界で周作人とともに苦笑しているかもしれない。    
                                (完)


 これはフィクションです。

 参考資料: 劉岸偉「周作人伝」 ミネルヴァ書房

(注)北京の「魯迅博物館」にある「魯迅故居」は、魯迅が八道湾の家を出てから建てた家で、魯迅はここで母と妻の三人で住んだ。しかし、魯迅がここに住んだのはわずか数年で、魯迅は若い愛人とともに上海に旅立った。妻と母をここに残して。



 


 



 

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