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神須屋通信 #20

しまなみ海道&瀬戸内の旅

0601(水)曇
●夜8時乗船、夜10時出港のオレンジフェリー「おれんじ えひめ」に乗船して、大阪南港フェリーターミナルから瀬戸内旅行へ出発。晩ご飯を食べる場所が見つけられず、南港のコンビニのイートイン・コーナーで食べた。「おれんじ えひめ」は新造船で、なかなか設備は豪華だった。畳にベッドというセミスイートの部屋で快適に過ごす。大浴場も気持ちよかった。

0602(木)晴
●フェリーは早朝に東予港に接岸。船内で朝食を済ませてから、朝7時に出発。運転はもちろん家内。私は助手席に座っているだけ。ナビがあるので、昔のようにドライブマップを見て行き先を指示する必要もない。元々、今回の旅は、日産の電気自動車LEAFを買って、最初の点検に出した際に、係の人から、あまりに走行距離が少ないのもバッテリーに悪いと言われたことから、家内がLEAFを走らせるための旅だった。行き先として、最近ではサイクリングの聖地として知られる「しまなみ海道」を提案したのは私だった。●今治市内を通り過ぎて「しまなみ海道」に。来島海峡大橋を渡ってから大島南ICで降り、一般道を走る。この海道沿いの島々はみんな大きいので、いったん地上に降りると、ここが島だとは思えない。山の間の田舎道を走っている印象だ。

●最初に訪れたのは、この大島にある「村上海賊ミュージアム」だった。和田竜の小説「村上海賊の娘」で有名になった能島村上氏の本拠地だった能島は小さな島なので、対岸の大島宮窪にミュージアムが建てられた。建物も展示物も本格的なもので、地方の島にこれだけのものが出来たのは、村上海賊を愛する関係者の大きな努力があったことが偲ばれる。私たちは早く着きすぎて、9時の開館までずいぶん待機しないといけなかったのだが、待っただけの甲斐はあった。ちなみに、私は子供の頃に大阪市の木津川を航行する「千本松渡し」の近くに住んでいて、織田信長が大坂本願寺を攻めた、木津川口の戦いには昔から関心があったので、「村上海賊の娘」も大いに楽しんだ。今回、その村上海賊たちの故郷の島を眺めることができたのは感慨深かった。このミュージアムの展示物はそれぞれに興味深かったのだが、中に、村上海賊が秀吉の朝鮮侵攻の時に、朝鮮から誘拐してきた(としか思えない)女性の肖像画が堂々と展示されていたのが気になった。彼女たち(二人いた)は綺麗に着飾っていたから、大事にされていたようではあるのだが。

●その後、私たちは伯方・大島大橋を渡って伯方島、大三島橋を渡って大三島を経過した後、多田羅大橋を渡って、生口島に入った。「しまなみ海道」は美しい瀬戸内の海を望んで島々を結ぶ、実に風光明媚なドライブルートだ。サイクリングで有名なルートは自動車とは別の道を走るらしいが、橋の部分は共有して走る。橋からの眺めは最高だろう。生口島から、愛媛県今治市を離れて、広島県尾道市になった。まずは瀬戸田PAでLEAFに最初の充電。まだまだ余裕は十分あるが、念の為。充電の間、フードコートや売店を見物したが、何も買わなかった。この島はレモンが名物らしく、関連の土産物がたくさんあった。●充電の後、生口島南ICで一般道に降りた。車は時計回りに島を半周して、今回の旅の二番目の目的地である耕三寺周辺に着いた。まずは腹ごしらえ。もう昼を過ぎている。事前に何の調査もしていなかったので、昼食をとる店のあてはなかった。スマホのナビで検索すると、「たこ天」を売る店が近くにあったので入ってみると、そこは弁当屋だった。でも、そこの「たこ天」は美味しかった。店の主人が、耕三寺の横に行けば昼食を食べられる店があるよと教えてくれたので、無料駐車場に車を停めて耕三寺まで歩いた。門前に「ちどり」と言う店があったので入ることにした。他にも店はあったが、みんな閉まっていたのだ。店内には、有名タレントの写真や色紙が壁いっぱいに貼られていた。どうやら、有名店らしい。私は、この種の芸能人好きの有名店はあまり好みではないのだが、予備知識なしに注文して食べた「蛸天丼卵とじ定食」は絶品だった。家内は「タコ天」と蕎麦のセットを食べた。これも美味しかったそうだ。どうやら、生口島はレモンだけではなく蛸も名産らしい。

●昼食を無事に済ませて、いよいよ耕三寺の見物。ここが、今回の旅での私の第一の目的だった。とはいえ、例によって、事前調査は何もしていない。テレビの旅番組で見た記憶だけで来ている。来てみて、耕三寺は浄土真宗の寺ではあるが、博物館として公開していることがわかった。それにしても、何という建築だろう。あまり広くない敷地に日光の陽明門、宇治の平等院、高野山の多宝塔などの建築の意匠を借りて、思い切りキッチュでゴージャスにしたような建築群を詰め込んでいる。目の眩むような空間が眼前にあった。私の趣味ではないが、これはやはり一見の価値がある。来たのは正解だった。それにしても、こんなとんでもないものを造り上げた耕三寺耕三という人物は何者だったのだろう。ネットで調べたところ、溶接工として出発し、大阪で鋼管事業で成功した事業家だった。生口島は母親の故郷だったと言う。耕三寺はもともと母親の隠居所として建設した建物を元に、母親の死去後、その菩提を弔うために、自身も得度して僧侶になり、地元から支援も受けながら、仏教寺院として拡充を続けたのだという。耕三は得度名で、のちに本名まで耕三寺耕三に改めた。なんという生涯。ここにも立志伝があった。●耕三寺の境内を一通り見物して、次に向かったのは、実はこちらの方が本命だった「未来心の丘」。旅番組でその光景を見て、この奇怪なものは何だ、ぜひ現地に行って確認せねばと思った。この「未来心の丘」は耕三寺の附属施設で、寺の背後の丘の上にある。イタリアで活躍する彫刻家、杭谷一東さんが設計・制作して22年前に開園したという。膨大な量のイタリア産の白い大理石を使用した、文字通り、白い石の丘である。この日は晴天に恵まれて、青い空を背景に白い大理石がよく映えて、まさに白日夢のような夢幻境に遊ぶ感じだった。行ったことはないが、アテネのパルテノン神殿に行けば、こういう感覚になるのだろうか。この白い大理石の庭園の中には、やはり大理石で出来たカフェがあって、私たちは、そこでしばらく休憩して気を鎮めてから下界に降りた。

●耕三寺の次に訪れたのは、隣にある「平山郁夫美術館」だった。この生口島は平山さんの出身地である。郷土の誇りである高名な画家を記念する美術館を建設するのは不思議ではないが、それにしても立派な美術館だった。耕三寺を見た後では地味だとも言える建物だが、その敷地は広く、建物も、よく手入れされた庭も広大だった。奈良薬師寺の壁画を含めて、平山さんの作品はもう見飽きたと言えるほどなので、館内をざっと一巡しただけで、喫茶室で庭を眺めながらゆっくり休憩した。ミュージアム・ショップも充実していたが、私が買ったのは、中村元訳に平山さんの作品を挿画にした「般若心経手帳」だった。こういうものを買ってしまうのは、やはり私も歳をとったということか。

●この夜の宿泊先は、生口島の瀬戸田港前にある「旅館つつ井」だった。いつものように、旅程を考えて宿舎を決めたのは家内(ネットで予約したのは私)だったのだが、「しまなみ海道」の終点である尾道ではなく、生口島での宿泊を選んだのは、結果的に正解だったと思う。「旅館つつ井」は、明治時代に創業した古い宿で、瀬戸田で生まれ育った平山郁夫さんの馴染みの宿だった。旅館でもらったリーフレットにも平山さんの文章が掲載されている。昔から瀬戸内航路の重要な港だった瀬戸田港の目の前にあるこの旅館は、町の玄関であり島外からの客でいつも賑やかだった。平山少年は、ここで都会の香りを味わったという。日本画家として有名になった後も、しばしばこの旅館で同窓会を開いたそうだ。●私たちはチェックインの時間前に着いたので、旅館に荷物を預けて近所を歩くことにした。まず、三原や尾道と瀬戸田をつなぐ連絡船が発着する港の待合所を見物し(ここには島名物のレモンのオブジェ、来島を歓迎する手作りのカカシ人形が数体、かつて繁栄していた瀬戸田港の昔の写真などが展示されていた)、海辺を少し歩いた後、「しおまち商店街」を歩いた。地方都市の商店街のほとんどがそうであるように、この商店街も寂れた印象だった。この商店街をまっすぐ歩くと耕三寺に着く。この商店街の入り口あたりに、ちょっと異様な建物があった。由緒ありげな町屋の建物なのだが、建物の横と後ろが背の高い木の縦格子で囲われているのだ。これが木ではなく鉄骨だったら留置所かなと思うくらいだった。正面から見ると、昔ながらの格式の高い大店という風情なのだが、商家ではないようだった。疑問を覚えて後で調べた所、ここはAzumi Setodaという、昨年開業した高級日本旅館だとわかった。なんでも、高級ホテルで有名なアマングループの創業者が手がけた旅館で、かつての豪商の屋敷を改造したそうだ。一泊8万円。とても私たちが泊まれそうなところではない。でも、道を挟んだ向かいにある「yubune」は銭湯で、宿泊客以外でも入れるそうだ。●「旅館つつ井」は、家族経営的な良さを残す、気持ちのいい宿だった。瀬戸内の海産物を中心とする食事も美味しかったし、生口島の名物だというレモンのスライスをレモン型をした木の湯船にたくさん浮かべた「レモン風呂」を、宿泊者が少ないせいか、一人で独占できたのも嬉しい経験だった。

0603(金)晴
●翌朝、いかにも「旅館つつ井」らしい経験をした。部屋の窓から見える瀬戸田港に、自転車に乗ったり、家族に車で送ってもらったりした高校生たちやサラリーマンらが、港から連絡船に乗って、それぞれ通勤や通学をする光景をゆっくりと眺めることができたのだ。瀬戸田港は、まさに駅だった。朝の駅の風景。●朝食を済ませた私たちは、腹ごなしを兼ねて、もう一度、近所を探索することにした。今度は、昨日とは違う方向。生口島と高根島の間の狭い川のようになった海をつなぐ黄色い高根大橋を目指して歩いた。海辺の道を歩いていると、右手に平山という表札のある家を見つけた。あまり大きな家ではない。たぶん、平山さんの一族が今も住まれているのだろう。このあたりは平山さんの生家があった場所である。平山家は島の大地主で豊かだったが、父親が金儲けに興味がなく、家業は少しずつ傾いていったという。旅館に戻る途中、思いついて、長い石段を登って、向上寺に行くことにした。ここに、国宝の三重塔があると知ったからだ。こんな地方の小さな島に国宝があって、たぶん、平山少年が毎日眺めていただろうことに興味が湧いた。平山さんと仏教の出会いの原点がここにあるかもしれない。崩れそうな石段を登って、近くから見上げた三重塔は美しかった。この建造物は、村上水軍と共に活躍した生口水軍の頭首が、室町時代に建立したそうだ。

●旅館を出発した私たちは、生口島北ICから「しまなみ海道」に入り、因島を越えて、向島ICで地上に降りた。思いがけず賑やかな向島の市街地を走ってから尾道大橋を渡り、JR尾道駅前に到着した。8年ぶりの尾道である。瀬戸内の島々からやって来た目で見れば、ここは実に繁華な都会だった。港の駐車場に車を入れた私たちは、尾道水道沿いを歩いて、8年前に宿泊した「グリーンヒルホテル尾道」の前を通り過ぎた。このホテルの立地は「旅館つつ井」と似ていて、私たちは部屋の窓から、尾道から向島へ向かうフェリーが行き来するのを眺めたのだった。当時から、レンタサイクルの店があって、「しまなみ海道」のサイクルロードを目指すサイクリストたちが、フェリーに乗って水道を渡っていた。そのまま歩いて、福本渡船の前まで来た。そして、8年前に夕食をとった「たまがんぞう」という店が、コロナ禍にもめげず、まだ健在であることを知った。その後に歩いた本通り商店街の店々も無事に営業をしているのを見て、私たちは安心した。尾道は大丈夫だ。●尾道滞在は1時間もなかった。私たちは次の目的地に向かった。尾道から大阪の岸和田まで、高速道を使わずに、地道を走って帰ることが家内の計画だった。LEAFを運転するのは家内で、私は助手席に座っているだけだから、反対する資格はなかった。車は国道2号線(ほとんどはバイパスだったが)をひたすら東へと走った。途中2泊する予定だった。

●福山市内の日産ディーラーで充電することにした。充電してもらっている間に、近くで見つけた「大戸屋」で昼食をとった。車は広島県から岡山県に入り、倉敷に着いた。この夜の宿泊は「倉敷アイビースクエア」である。ちょうどチェックインの時間である午後3時に到着した。部屋に入って荷物を置き、ベッドで少し休憩した。家内は長い運転でかなり疲労していた。「倉敷アイビースクエア」は、かつての倉敷紡績の工場をリノベーションした、歴史のある、クラシックホテルだと言えるほど風格のある施設だが、宿泊棟は最近リニューアルされたようで、私たちの部屋も、少し狭いが最新の設備が整っていて、とても清潔で気持ちがよかった。●充分休息した私たちは、夕食前に倉敷の美観地区を散策することにした。22年ぶりの倉敷である。驚いた。美観地区が拡大していたのだ。前回来た時は、倉敷川の両岸の狭いエリアが美観地区だった。その時、美観地区の外にも素晴らしい建物があるのにもったいないと思った記憶があるが、それが今回見事に実現していたのである。電柱と電線を撤去して舗装を石畳などに変えるだけで、街はここまで変貌する。もうこれは、「倉敷」という名前のテーマパークだった。私たちは、現実世界から一挙に、日本の古く美しい町にタイムトリップした。この日は日本人の観光客で溢れていた。まだ皆んなマスクをしているが、もうコロナの恐怖は去りつつあるようだった。今月には海外からの観光客が入国を許可されるようだが、そうなると、ここは世界各国の人々で賑わうだろう。もうすぐだ。●「倉敷アイビースクエア」での夕食は、家内がフランス料理のコースを予約していた。クラシックな空間で赤ワインとともにいただくフランス料理は、環境のせいか、一層美味しく思えた。なんとも贅沢な気分。金額的には決して贅沢ではなかったのだが。

0604(土)晴
●朝食はビュッフェ形式だった。まだ各自ビニール手袋を要求されたが、そろそろこんな物はやめた方がいいと思う。朝、チェックアウトした私たちのLEAFは、さらに東を目指して走り始めた。次の目的地は兵庫県の明石である。岡山市や備前市を越えて、車は岡山県から兵庫県に入った。途中、相生の日産で充電。新型のLEAFは満充電で400キロほど走れるので、今回の旅程では一度の充電で十分だったのだが、慎重な家内は、残容量が70%台になると充電ステーションを私にナビで調べさせた。相生の日産の店もそうして見つけた。今回は、充電中、日産の店内で珈琲をいただいて30分間待機した。どこの日産も実にサービスがいい。再び出発。車は明石市に入った。明石市は私が想像していた以上に大きな街で、特に明石駅の界隈は、神戸と変わらないくらいの賑やかさだった。活気に満ちている。私たちの住む岸和田とは比較にならない。人口30万人あまり。なんでも人口の伸び率は日本一らしい。駅前の市営駐車場に車をおいた私たちは、目的地の「魚の棚商店街」に向かった。ここで明石焼を食べるのだ。京都の錦、大阪の黒門などと並んで、明石の魚の棚は関西では有名な市場だった。でも、私たちは初めてだった。来てみると、さすがに活気があった。観光客も多いようで、有名店らしい明石焼の店の前には長い行列ができていた。でも、この商店街には明石焼を出す店はたくさんある。私たちは「かねひで」という店に入って、明石焼とタコ天を注文した。生口島で食べてから、すっかりタコ天びいきになった。明石は蛸の本場でもある。明石焼とたこ焼きの違いは、たこ焼きはソース、明石焼は出汁で食べることだが、明石焼きは卵を使っていて、その分、私のような糖尿病の人間も遠慮なく食べられるのだ。明石焼もたこ天もおいしかった。

●明石から舞子まではわずかな距離だった。私たちは、この夜の宿泊に「シーサイドホテル舞子ビラ」を予約していた。ビラには3時過ぎに着いた。チェックインして11階にある部屋に入った。窓からは明石海峡大橋と対岸の淡路島が見えた。橋のすぐ横にある舞子公園には孫文記念館になっている移情閣が見えた。工事中らしく周囲に足場が作られていた。(内部見学はできたそうだ。)海辺のアジュール舞子には美しい砂浜があって、たくさんの人々の姿が見えた。でも、私たちは疲れていたので、散策のために外出することはなく、夕食までベッドで休憩することにした。●予約してあった夕食も、西洋料理のコースだった。神戸ワインと一緒に楽しんだ。気のせいか、料理は倉敷よりも洗練されているように思えたが、土曜日で客が多いせいか、コロナ禍の影響でスタッフが少ないのか、料理が出てくるのが遅かったのが残念なところだった。

0605(日)曇
●舞子ビラの朝食もビュッフェ形式だった。朝食を済ませて身支度を整えた私たちは、チェックアウトは11時なので、その間に、付近を散策することにした。ビラが用意してくれてあった「お散歩マップ」で私が選んだのは、海辺ではなく、五色塚古墳に行くコースだった。ビラの山側の坂道を山陽電車の線路に沿って歩くコースだ。マップでは10分ほどで着くと書いてあったが、少し道に迷ったこともあって、その倍近い時間がかかった。しかし、その価値は充分あった。多くの古墳が樹木にお覆われて、当初の姿を想像しにくくなっているのに対して、この古墳は、建設当時の姿を復元していることに特徴があった。4世紀の終わりに築かれた、とても大きな前方後円墳だが、誰の墓かは分かっていない。明石海峡を見下ろす高台に造られたことから、古代から海洋交通の要衝だった明石海峡やその周辺を支配した豪族の墓だと考えられいる。古墳の後円部の最高地点に立って、明石海峡の海を眺めた。素晴らしい光景だった。「海辺の墓地」と呼ぶには、あまりに巨大な墳墓だった。●ビラを出た私たちは、再び国道2号線に入り、阪神間の都市を越え、大阪市内に入った。途中、市内で見つけた「かごの屋」で昼食。岸和田の我が家に着いたのは、午後3時頃だった。

0606(月)曇
●夜、サッカーの強化試合、今夜はブラジルと。雨の国立で世界No.1のブラジルに善戦して、1-0で敗退。でも、実力差は点数以上で、世界との距離はまだまだである事を実感した。でも、日本は上手くなった。●最近のニュースから。英国ではエリザベス女王在位70周年の記念イベントが今日まで盛大に開催された。また、「はやぶさ2」がリュウグウから持ち帰った砂からアミノ酸が発見された。一昨日、史上最高齢83歳で太平洋単独無寄港横断を成功させた堀江謙一さんが記者会見をした。等等。

0607(火)晴
●午後、中国語教室。ヒアリングの練習もしてくれたが、相変わらず、ほとんど聞き取れない。●注目のボクシング、井上尚弥のタイトルマッチは、どう言うわけか、amazon primeでの放送。結果は、井上が2RでTKO勝ち。強い!強すぎる。まさに怪物。敵なし。これで3団体統一チャンピオンになった。もう一つ団体があるらしい。

0608(水)晴
●浅田次郎「天子蒙塵」4を、ようやく読み終えた。ラストエンペラー溥儀が、満州国の皇帝に即位するまで。中国近現代史の壮大にして人間的な物語が、一つの区切りを迎えた。さて次回は、いよいよ張学良による「西安事件」を描く「兵諫」。すでに単行本は出版されているが、文庫になるまで待つか。考えてみると、当時の
日本をロシアだとすると、満州国はウクライナ東部のドンパス地方だということになる。今、ロシアはウクライナの東部や南部を着々とロシア化しようとしているようだ。いずれは失敗するだろう。

0616(木)曇
●Yanis Varoufakis "ANOTHER NOW"読了。期待した程のことはなかった。ギリシャの経済学者にして元政治家が書いた、ユートピアSF物語。法人税と土地税以外の税金がなく、銀行も投資銀行もない、もう一つの世界を描く。学者の思考訓練だが、そんなユートピアでさえ真の理想社会ではなかったという著者の認識が苦い。でも、この著者の作品としては、以前読んだ、娘に語る経済学の方が面白かったように思う。並行世界を描くSF的アイデアも凡庸。

0618(土)晴
●34回目の結婚記念日。かつては記念日には旅行したりしたものだが、最近ではほとんど何もしていなかった。今日は、家内にそれを指摘されて、何か記念になる行動をすることにした。●出かけたのは京都。主な目的は京セラ美術館で「ポンペイ展」を見物することだったが、二人で外食することも目的だった。ホテルやレストランでの豪華な食事を考えていたが、糖尿病の私の選択肢は限られる。結局家内が選んだのはリーズナブルな「東洋亭」だった。Portaの店が改装中だったので、伊勢丹のレストラン街にある店にした。11時の開店から30分も経っていない時間に到着したが満席。整理券を持って待機、席に着いてからも料理が出てくるまで待機。結局、食事を口にするまで1時間かかった。地下の店が休みのせいもあるだろうが、この店はいつも人気がある。「東洋亭」の名物はハンバーグだが、二人とも違うものを食べた。私は大山鶏のステーキ、家内はマルゲリータ。美味しかったが、記念日の食事にしては質素に過ぎたかもしれない。家内はピッツアだけで、物足りなかったようで、美術館に行く前に、近くの店でわらび餅を食べた。●「ポンペイ展」も盛況だった。ポンペイ遺物の展覧会は以前にも見たことがあるが、今回の展覧会は私の予想とは違った。噴火で犠牲になった人たちの石膏像や生活雑貨の類はほとんど展示されず、美術品としても価値がある銅器や銅像、大理石像などが多く展示されていて、美術館での展示に相応しいものになっていた。私たち夫婦は、30年ほど前にポンペイを訪問したことがあって、現地でいくつも発掘物を見たが、今回見たのは、それらとも違っていた。ポンペイ以外の地域を含めて、あれからも発掘作業は延々と続いているのだろう。今回、日本で展示されることになったのは、それらの最新の成果を反映しているのだと言う。興味深い展示物がたくさんあった。中で印象に残ったのは、大理石の石柱に銅製の頭部が乗った、有力者の墓石のようなものがあったのだが、どう言うわけか、まるで小便小僧のように、これも銅製の、男性の短小包茎の陰部だけがちょこっと石につけられているのだ。あれは一体、何のためなのだろう。話題になったタコ焼き器?や焦げた黒いパン以上に、それが気になった。黒い犬のモザイクをデザインしたTシャツをお土産に買った。●林芙美子「愉快なる地図」読了。先日、ずいぶん久しぶりに行った尾道で林芙美子の銅像と再会したので、彼女の文章をまた読んでみたくなった。これは、彼女の紀行文を集めたオリジナルの文庫。天性の詩人である芙美子の文章は実に精彩があって楽しい読書だった。台湾紀行の部分で、佐藤春夫の印象スケッチ程度のものなら自分にも書けると書いているのが彼女らしくて微笑ましかった。「男は自殺するかわりに旅に出る」と言ったのは、開高健だったが、どうやら、林芙美子も同じだったようだ。シベリア鉄道を一人で旅し、北京やパリに住んだ芙美子にますます興味が湧いた。

0619(日)曇
●林芙美子が紀行文でたびたび佐藤春夫に言及しているのが気になって、机上にあった「佐藤春夫中国見聞録」という文庫本を拾い読みしてみた。代表的な大正作家である佐藤は、中国に造詣が深いことで知られている。その彼が若い頃、同時代の作家仲間を中国旅行に誘い、谷崎、芥川の同意を得たが、自身の神経衰弱のために実現できなかった。谷崎潤一郎は一人で中国に行って紀行文を書いた。その後、芥川龍之介も行った。数年後に最後に中国に渡った佐藤は、杭州から上海に戻った時に、芥川自殺のニュースを知った。というような事が回想されていて、なかなか面白かった。

0621(火)雨・曇
●いつもより早めに家を出て天王寺へ。●早めの昼食後、「アポロシアター」へ。本日、久しぶりに映画館で見た映画は、トム・クルーズ主演”TOP GUN MAVERIC”。若きトム・クルーズの出世作になった前作から30年。トム・クルーズはトム・クルーズのままだった。これは奇跡的なことだ。この映画は世界中で大ヒットしている。ストーリーや人物造形にツッコミどころはたくさんあるが、そんなことはどうでもいい。空母から発進したジェット戦闘機が大画面の中で飛び回り、再び空母に戻る映像を見るだけで、全身で感動してしまったのは、今や古典となった前作と全く同じだった。さあ、久しぶりに、あの懐かしい"TOP GUN"を見直さないと。●映画の後は、中国語教室。

0623(木)晴
●午後、Netflixで話題のアニメ「SPY X FAMILY」を数本見て、amazon primeで「TOP GUN」を見た。今は亡きトニー・スコットが監督したこの傑作を見るのはずいぶん久しぶりだが、今回の映画が、この映画へのオマージュに満ちた、見事な続編であったことを確認できた。30年ぶりの続編に同じ役で主演をはるトム・クルーズは凄すぎる。そうそう、前作にはメグ・ライアンも出ていたんだね。今、どうしているのか。●ヤマザキマリ「壁とともに生きる」読了。この本がきっかけになって、私が若い頃に傾倒し、今は半ば忘れらているように見える安部公房に、また陽が当たるといいなと思う。ヤマザキさんの安部公房への愛が溢れた本だった。ヤマザキさんは、今放送されているNHK「100分で名著」でも安部公房の「砂の女」を紹介している。でも、ヤマザキさんはお気に召さないようだが、村上春樹の良さも知ってもらいたいなと思った。まあ、無理かな。でも、ヤマザキさんが最初に読んだ安部公房作品が、須賀敦子さんが訳したイタリア語版の「砂の女」だったという話は実に感慨深い。

0624(金)晴
●夜、悲しいニュース。恐れていたことが起きた。小田嶋隆さん死去。65歳。数十年間にわたって、その切れ味の良いツイッターや日経ビジネスオンラインのコラムの文章を愛読していた。退院されたと聞いて、一度は安心したが、その後、コラムを発表されることがなくて心配していた。考えてみると、愛読者のくせに、今まで、金を出して小田嶋さんの本を買うことがなかった事はまったく申し訳ない。遺作になった本は、コラムではなく小説らしいが、追悼の意味でも買うべきだろう。とりあえず、小田嶋さん自身が、最近は電子本を買うようになったと書いていたので、kindle版の本を3冊買った。ツイッターでは、さまざまな人が小田嶋さんを惜しむ声を寄せている。長年親交のあった内田樹さんは、今月、死期を覚った小田嶋さん自身の招きで、平川さんとともに自宅を訪れて最後の別れをしていたそうだ。自身が親友に死なれた際に別れの挨拶ができなかった事を悔いていた小田嶋さんの心遣いからの招待だったという。そんな話を聞くと、余計に辛くなる。

0625(土)晴・雨
●午後、prime videoで、岡田准一主演の映画「燃えよ剣」を見た。司馬遼太郎の小説で私が最も好きな小説の映画化。原田真人監督。このコンビの作品にハズレはない。でも、正統的な時代劇だから、「るろうに剣心」のようにはヒットしなかった。私はどちらも好きなのだが。それにしても、岡田准一の体技は凄い。そろそろハリウッドに進出したらどうか。

0626(日)晴
●今日も真夏日。あまりに暑くて、スロージョギングは中止。●夜は「鎌倉殿の13人」。頼朝落馬。三谷さんは暗殺説は採用しなかったようだ。今回が25話で、いよいよこれから本来の、血に塗れた「鎌倉殿の13人」が始まるのだという。大泉洋の頼朝は今回で終わりなのだろうか、そうならば淋しい。これからも、亡霊や回想の形でも出てほしい。「七日の王妃」も見る。第12話。こちらは話の展開が遅い。20話も必要ない内容。

0628(火)晴
●今日も酷暑。近畿でも梅雨が明けた。もちろん、史上最短の梅雨だった。ワイドショーは、暑い、暑い、というばかり。異常気象という言葉は聞き飽きた気がするが、確かに異常。●短編小説「海の東~申叔舟の航海~」の初稿を書き終えた。楽しみながら書けたが、少し時間をおいてから推敲することにする。完成は来月。●與那覇潤「過剰可視化社会」読了。彼は、今回のコロナ禍を通しての日本の対策にかなり不満を持っているようだ。専門家と称する人たちのやった事を見れば、その指摘はかなり当たっていると思う。まあ、専門家批判が、最近の彼の評論の基本ラインなのだが。三人の同世代の知識人との対談もそれぞれ興味深かった。

0630(木)晴
●今日から始まったマイナポイント第2弾に応募した。ポイント好きの政府は、最近では、電力不足の対策として「節電ポイント」などというつまらない事を言い出している。いずれにしても、今回の第2弾で15,000円分のポイントがもらえるという事なのだが、前回は5,000円分のポイントをもらうために、2万円をICOCAカードにチャージする必要があったから、今回は6万円分のチャージが必要になる計算だ。これは無理だろう。申し込んでから言うのもナニだが、カードを普及させるためにポイントで釣ろうというのは姑息だ。カードの利便性と必要性を地道に訴えるか、カードがないと行政サービスが受けられなくなる状況を作るかのどっちかだろう。●小田嶋隆さん追悼読書。一冊目は「小田島隆のコラム道」。いかにも小田嶋さんらしい文章を読んでいると、小田嶋さんがもうこの世にいないなどとは信じられなくなる。まあ、読書とは元々そういうもので、著者が生きていようが死んでいようが関係なく、本をひらけば、文章の向こうに、確かに著者が存在しているのだ。「コラムの天才」としての小田嶋さんの存在を教えてくれたのは、内田樹さんだったと思う。最初に読んだ時は、山本夏彦などを思わせて、年上の書き手だと思っていたのが、かなり年下だと知って驚いた。そんな小田嶋さんがもういない。早すぎるよ。

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