ことばと同族意識

人間と獣、人はそれらをどう区別してるのだろう的な話。

今日ふと気付いたのが、「擬人化キャラって大抵言葉を話すぞ」ということ。くまのプーさんとか、Tedとか、猿の惑星とか。

見た目だけを似せるなら二足歩行させて道具を使わせればそれで足りるのに、なんで言葉を喋らせるんだろうと考えてみた仮説として、「人間はコミュニケーションを取れる相手じゃないと同族と見なせないのかな」ということを考えた。

夏目友人帳のニャンコ先生や、アニポケのニャース、まどマギのキュウべえみたいに、見た目は全く擬人化されていないけど言葉を使ってコミュニケーションを取ることができるキャラについて、僕は人格があると認識している。

逆に、雪男やチンパンジーみたいに見た目は人間に近いけどコミュニケーションがほとんど取れないような対象については、人格を感じることができない。

手話ができるゴリラはどうだろう。ニュースで見たことあるので実在しているはずだし、人間とコミュニケーションを取ることができるらしいが、僕は人格を感じることができない。僕が手話を全く理解できないということと、恐らく無関係ではないだろう。

なんか自然と「言葉で意思疎通ができるかどうか」という基準で分類されてしまったが、多分ここに「擬人化キャラが言葉を話す理由」があると思う。つまりは、「自分が人格を認識したことのない対象については、言葉が通じる=コミュニケーションが可能、という視点で同族かどうかの判断をしている」のではないか。

家で犬猫などの動物を飼ってる人はきっとそれらに意思があるしコミュニケーションが取れると認識していると思う。それは言葉に頼らないコミュニケーションを確立したことで、相手に人格(というか意識?)があることを確認したからではないだろうか。アニメのキャラなどは視聴者と非言語コミュニケーションを取ることがないので、言葉を喋らせなければ人格を持っていると認識されないのであろう。

そう考えると、近代の人類は倫理的に成熟しているなと思う。自分の話せる言葉が通じなくても、「現実の人間であればコミュニケーションを取る手段が必ずあるだろう」みたいな確信があるから相手を人間扱いできるんだろうな。文化とか教育が「群れを維持するために邪魔になる直感」を駆逐しているということのように思える。

「言葉が通じる=コミュニケーションが可能」という直感を誰もが持っているのであれば、「相手の使える言葉を自分も使える」だけで同族意識を持たせる助けになる、が真になると思う。各言語の挨拶くらいは覚えておくと、旅先で何かの助けになりそうだ。

ハロー、ボンジュール、センキュー。グッバイ!

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