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カネコアヤノの「抱擁」に重なる感情や記憶について


じいちゃんがくれたキーホルダー

幼稚園生の頃、
祖父が買ってくれた真っ赤なガラス玉のキーホルダーがお気に入りで登園バックにつけていた。

とある日、帰りのバス待ちの列に並んでる間に
クラスの男の子からそのキーホルダーを奪われた。

私は帰ってから母親にその事を泣きながら伝え、
帰宅後は元気のない様子だったようだ。

確かに覚えているのは、
ただのキーホルダーでなく
"大好きな祖父からもらった大切なキーホルダー"
だったこと。
子どもながらに特別な想いがあったのだろう。

大切なくまのぬいぐるみ

6歳下の弟が生まれる時私は小1だった。

母が入院中、
出産祝いで知人が病室に持ってきたくまのぬいぐるみを譲り受け
家にいる時はその子を抱きしめて大切にしていた。

とある日「自分の宝物を持ってきてみんなに発表する」という授業が開かれた。

私はくまのぬいぐるみを抱き抱え、一緒に登校する喜びで勇み足で学校へ持っていく。
いざ発表を始めると、教室が少しばかりざわつきだし
クラスの男子の「くまの足長っ笑」というばかにする声が耳に入ってきた。
しばらくは耐えて発表を続けていたが
病室にいる母の事、家にいる時の孤独感、大切にしてるものをばかにされた悲しさが押し寄せ
黒板前に立ったまま発表中に泣き出してしまった事があった。

ポカリスエットのしょっぱさ

小学低学年の頃学校で高熱を出し保健室へ。
しばらく睡眠をとり放課後になると、保健室を出て親の迎えを待つ事になった。

ふらつく体でしばらく外に立っていると大好きな担任の先生が駆け寄ってきて、
ヒヤッ。
「ほら、これ飲みなさい」と
頬に缶ジュースを当てられた。
冷え冷えのポカリスエット。
そして「つらいね…もう少しで親御さん迎えにくるからね」と抱きしめてくれた。
先生に抱きしめられた時のあたたかさ、
体のつらさを認められた嬉しさ、
ポカリスエットを買ってきてくれたその気持ちへの嬉しさで涙が滲んだ。
ポカリスエットのしょっぱさを強く感じた日だった。



最近世間で話題になっているとある漫画を読んだ。
「愛されない事」に対する悲しさ、そしてそれを感動コンテンツとして消費する層が多い事に対する悲しさが押し寄せてきた。

自分自身も愛される事を常日頃求めていて、
簡潔に表現すると「抱擁をまっている」んだなと思った。
恋人同士のハグのようなものではなく、
親が子を抱きしめる時のような、ただただまっすぐな抱擁。

そのようなことを考えていたら、上に書いた幼少期の3つの記憶がフラッシュバックした。
誰かにものを贈るという行為のその過程にある尊い気持ち、
自分にとって大切にしていたものを乱暴に扱われた時の悲しみや悔しさ、
つらい時にまっすぐ抱きしめられたら涙が出てくる、そのあたたかみ。


カネコアヤノさんの曲に「抱擁」という曲がある。

抱擁をまっていた 胸の中で
まるで私が聞き分けの悪い赤子のようにぎゅっと

ふと過去の記憶にこの曲の歌詞が重なってみえた。
いつだって抱擁を待っているし、
それは
抱きしめられた時に胸があたたかくなって涙が勝手に流れてしまうような、
子どものようにわがままで純粋な気持ちになるような、
そういう抱擁だということ。

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