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月と六文銭・第十八章(22)

 竜攘虎搏リュウジョウコハク:竜が払い(攘)、虎が殴る(搏)ということで、竜と虎が激しい戦いをすること。強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人を示す文言として竜虎に喩えられ、力量が互角の者同士が激しい戦いを繰り広げることを竜攘虎搏と表現する。

 武田は英国秘密情報部の取引が上手くいくよう助っ人を頼まれ、取引の完了を見届け、工作員がタクシーで現場を去るところまでフォローした。ところが、幹線道路に出たところで、工作員の乗る車両が対向車線のトラックと衝突、全く動けなくなった。武田は中国人スナイパー・ティーシーの仕業と推測して、狙撃地点へ動いた。

~竜攘虎搏~

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 武田はまだどけられていないトラックを見て、弾道を頭の中で再現して、該当するビルを見上げた。

<あれか!>

 武田が向かう先には、まだ工事中で未完成のビルがあった。最上階まで完成していないのか、恵比寿ガーデンホテルから見て、エビス・マンハッタン・ビレッジ・ビルの裏に位置していて、ちょうど見えなかったのだ。そのビルから恵比寿ガーデンホテルのタクシー乗り場は狙えないが、一度幹線道路に出てしまえば、逆に邪魔するビルがない真っ直ぐな道路だ。

 もういない可能性の高いスナイパーを求めて走った。薬莢が残っていれば少なくともどんな弾丸を使ったかが分かるはずだ。上手くいけば銃の種類も判明する。
 しかし、いたら、自分は銃器を持っていないし、スーツケースに入れたこの銃を目の前で組み立てる時間もない。つまり、反撃は無理だ。まともな神経ならば追跡は諦めた方がいいのに、武田は全速力で自分が目星をつけたビルに向かって走っていた。

 ビルに着いたものの、エレベーターで上がった場合、待ち伏せされたら確実に死ぬ。アタッシュケースを前面に突き出しながら、階段を駆け上った。7階のはずだ。窓が開いていたのは7階の左側の部屋だったはずだ。この階段を上がると逆に右手側になる。
 7階まで駆け上がったものの、待ち伏せに備えて、アタッシュケースを盾に顔と胸を隠しながら部屋に突入した。

 彼、狙撃手・張敏正チャン・ミンジェンはそこに立っていた。自分と同じように銃の入れ物であるケースを持ち上げて、胸と顔を半分隠し、その下に拳銃を構えていた。

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「Hello Mister MI6.」
(こんにちは、ミスターMI6)
「And you? Should I call you the legendary sniper Zhang Taofang's son and successor?」
(で、お前は?伝説のスナイパー張桃芳チャン・タオファンの息子で後継者と呼ぶべきか?)
「Call me whatever you like. I will not stay here longer than 60 seconds.」
(なんと呼んでもかまわん。最長で60秒しかここにいるつもりはない)
「Do you have anywhere else to go?」
(どこかに行く予定でも?)
「A train to catch.」
(電車に乗らねば)
「Oh really? Back to Kobe?」
(あそう、神戸に?)
「I see you do your homework.」
(調べたのか?)
「And you do yours.」
(そっちこそ)
「Yes, and the Englishman got away.」
(そうだ、そして、英国人は脱出に成功した)
「You shot him. He may die from the wound.」
(お前はそいつを撃った。傷から死ぬかもしれない)
「I don't think so. But our traitor will not see the sun again.」
(俺はそうは思わん。しかし、裏切り者は二度と太陽を拝むことができん)
「So, which one was your target?」
(じゃあ、どっちが狙いだったんだ?)
「Neither」
(どちらでもない)
「Then, what was your target?」
(ならば、お前に狙いは?)
「Maybe you.」
(お前かもな)

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 武田はハッとした。もしかして、自分をおびき出す罠に今回の取引を利用したのかも知れなかった。でも、自分が英国秘密情報部に協力して、今回の件に関わったかどうかなんて分からないし、この場に自分がいるのだって偶然に近い状況だし。

「They need hands on deck in Japan. They will ask for backup. Good backup. They will ask for you.」
(日本では現地の助けが必要だ。彼らは支援を依頼する。腕の立つヤツをな。お前に依頼する)
「I am just paid support.」
(俺は金で雇われただけのヤツだ)
「We will see, Mister MI6, we will see.」
(そのうち分かるさ、ミスターMI6、そのうち)

 そこでティーシーは横に動きながら、ジュラルミン・ケースの下から覗かせた拳銃を使って、武田を撃ってきた。

<うわっ、恵比寿で銃撃戦か!>

 武田は部屋の配置を覚えてきたはずだったが、感覚的に部屋は想像していたよりも広かった。幸い棚などが一部搬入されていて、身を隠せたものの、非常口は思ったよりも遠く、3歩ほど多く走らないと辿り着けないと思われた。
 ティーシーほどの腕前なら2歩余計にあるだけでターゲットを仕留めることができるだろう。

 ティーシーが言い終わった瞬間、武田とティーシーは互いに逆の方向へと走り出した。
 ティーシーが扉に消える刹那、武田に向け叫んだ。

「We will meet again.」
(再会しよう)
「Sure」
(そうだな)

 階段を走り降りるティーシーの足音を遠くで聞きながら、武田もビルの反対の階段を駆け下りていった。

<しまった、出口で出くわしたら、こちらは武器を持っていない。追いかけるのは危険だ…>

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 武田はこの地域の地理を思い浮かべ、2階で一呼吸を入れた。その間にティーシーは1階から外に出たようだった。階段に響く足音がしなくなったのを確認しながら、武田は1階に降り、恵比寿駅に向かう道を選んで行きかう通行人に紛れ込んだ。

「アイスカイ、イヤー、赤い銃を確認したが仕留められず」
「了解、残念だが、巣へ引き上げてくれ」
「了解」

 武田にとっては狙撃での敗北ではないものの、予想外の展開となり、相手と直接対面したのに、相手を制することができなかったことが心残りだった。
 気がかりはこれで中国軍が自分のモンタージュを作って日本に来る工作員に配付したら逃げられないということだ。自分が誰だかはっきりしていなくても英国秘密情報部のために働く日本人ということで、殺す理由は十分だった。
 もちろんこっちも作るが、ティーシーが中国を出ない限りは特に問題がないため、武田が圧倒的に不利な状況といえた。
 唯一の救いはティーシーが自分を英国秘密情報部の工作員と思っていることだった。もし、ティーシーが自分が月女神アルテミスだと断定していたなら、非常に厄介な問題を抱え込むことになる。

***
 ちょうど恵比寿ガーデンホテルは宿泊客の入替えの時間で、各階ではルームメイキングが行われていた。
 陳恒心チェン・グースィンは取引の後、部屋で横になろうとドアには「ルームメイキング不要」の札をドアノブに掛けていた。
 携帯電話で報酬が振り込まれているのを確認しながら廊下を歩いてきたら、隣の部屋の客がチェックアウトしたのか、リネンの入ったカートが停められていて、メイドがこちらに尻を向けたままカートの中で何かをゴソゴソ取っているのが見えた。
 普段なら気にしない陳は、メイドの形の良い尻を眺め、手を伸ばした。
 その瞬間、開いたドアの陰から二人目のメイドが出てきて、陳の首に注射器を刺した。振り向いた一人目のメイドはタオルで陳の口を押さえ、声が出ないようにして、二人でカートの中に陳の体を放り込んだ。

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